告白
何ぞと思う内に、横に向けていたのを上向きにされ、ふにゅりとした柔らかいものが顔に押し付けられる。今一つヒトの器官について自信がなく定かではないが、我、口を塞がれているのではないだろうか。
次いで、顔の左に当てられていた何か温い物が離れ、地に垂直の左肩がぐっと押され丸まるために横に向けていた体全体が、天を向いた。両の足の間に、何かが割って入ってくる。
その間も口は塞がれたままで、話を聞かん事に対する抗議としての窒息死狙いかもしれんが、残念ながらドラゴンは鼻呼吸である。嘲笑ってやろうかと薄く開くと、得体の知れぬものが口内に侵入し、歯列やら口蓋やらに何かがぐるりと触れた。
流石に気味が悪くなって渋々目を開けると、うん、暗い。
光の届かぬ部屋の暗さというよりも、何かに覆われているような暗さに怪訝に思って目を凝らせば、何となくオスのどアップであるような気がしてきた。
……。
…………あ!
こ、これはキスされてる? 口内をくまなく掻き回すものは、もしやオスの舌? つまりディープキス!
我の種族に口接の習慣は無い。ドラゴンとして生を受け、初めての体験に何やら気持ち悪いという感想が真っ先に浮かんだ。
暫しの間、執拗に、気色悪くて逃げる我の舌を追いかけていたオスは、その動きを止め間近にあった顔を遠ざけた。
間違いなく顰め面をする我を他所に心なしか先ほどよりも頬を赤く染めるオスは、獲物を見つけたドラゴンのような目をしていて、背にぞくりと嫌な寒気がした。
我、世界最強種族なのに。
勿論、年若い故、両親よりも劣ってはいる。しかし、ヒトに対しては絶対的な強さのはずで、本来ならばこんな気分に陥るはずがないのだ。
「ね、ローザ。名前を呼んで?」
寝台へ完全に背を付ける形となった我の顔の両横にオスは肘をつけ生温い手で頬を触れる。地の揺れる感覚の後、我の腰と足の間当たりに乗り込む体勢を取りながら目をギラギラさせるオスは、首を少し横へと倒した。
「呼んで欲しければ名乗ればよかろう」
逃げたい。
我ドラゴンだけど逃げたい。
種族としての誇りは逃げるなと告げているが、個人的本能としては酷烈に逃げろと伝えてくる。表情は誇りに従い、体の動きを本能に任せようとやたらと細長い腕をオスに押し付け退かせようとするが、動かない。
普段ならば何も思わなかっただろうオスの体重があまりに重く、動きにくい。何とか脱出しようと試み自由な足を動かしてもびくともしない。
ドラゴンなら、即、ぷちっとするのに!
ヒトの弱さに愕然としながらもおくびにも見せず、要請に対してそのままには応えられぬ事を告げると、オスはうっすら笑んでいた口元の弧を深めた。
「私に特別は名前を付けてくれたでしょう。忘れちゃった?」
そんな事していたのか。完全に忘れておるな。
しかし、その事を素直に告げるには我を見下ろす目が恐ろしくて、誤魔化すために我らしくは無いが曖昧に笑ってみた。
我のすっとぼけの笑顔が功を奏したのか、少しばかり嬉しそうに目を輝かせたオスは、仕方ないですね、と声を出す。
「カ、から始まります」
おお! 手がかりか!
しかし、ここから先が難題である。
ドラゴンはドラゴンにとって系統だった、言いやすい名付けを行う。同様の事がヒトにも言えるわけだが、両者には深い溝がある。極単純に言えば、お互いがお互いの名を覚えたり呼んだりするのが苦手、ということだ。
特別に名付けたというのだから、ドラゴン風のものかとも思うが、それであるとヒトであるこのオスには覚えにくいものになったであろう。……根性で覚えたという可能性も全く無いわけではないが、十五年前と言うと、こやつも幼い頃のことだろうし、ヒト風の名のような気がする。
我、そんな名付けできんがな。
何だ。
カ、か。カ。か、か、か……。
「か付き?」
この言葉に、オスは幸せそうに微笑んだ。
「そう、カツキです。思い出してくれたんですね」
……思い出した、というか何というか。
カが付く名前だから、か付きと呼んでいたのだろう。我の思考回路さっぱり変わっとらんな。
しかし、こやつ、前向きだな。か付きだからカツキと名付けられたと、そう考えておったのか。
少しばかり呆れて変な顔をした我に、オス――改めカツキは笑ったまま、肘を寝台につけ、顔を再び近づけてきて、触れるだけの口接をした。
「ローザ。愛してます」
美食家故やたらめったらには食べないのでなったことはないが胃がもたれるような、異様な響きを持った声に、我はなんと返せば良いのか分からなかった。
「お前の気持ちは分かった。だが、今はそれはちょっと横に置いておけ」
我は、ドラゴンである。
小さく可愛らしいヒトに好かれて嬉しい気持ちが無いわけではないが、それだけなのだ。しかし、嬉しい、というその気持ちだけを告げることは、事このオスに関してはあまり他者の感情に敏い方ではない我でも宜しくないことは分かる。
正直、大きさがあまりに違うが見目がまだ似ているイグアナや蜥蜴に愛していると言われる方が理解しやすいのだがな。
「我は、何故ヒトになっているのだ?」
漸く、最初の質問に帰ってこれた気がする。
まあ、話の長さに辟易してうっかり美声を子守唄に眠りかけたことが全くの理由ではないと、詰まる所我が悪いとは断固として認めないわけには行かぬが。
自分の言葉を脇に置かれた事に多少の不満はあるのだろうが、我の言葉に微笑んだままのカツキは口を開くより先に、がっちり固めていた体勢をほどき、上体を起こしたと共に我の細っこくて折れるか抜けるかしそうな頼りない腕を引いた。
きちんと座って話でもするつもりなのかと思い、逆らわずに動きを手伝って起き上がる。
「ここでは貴女も寝てしまうでしょうし、私もつい押し倒したくなるので少し移動しましょう」
離れ、床へと降り立ったカツキは我に向かって手を差し伸べた。
肌あたりがよく気持ちの良い空間から出なければいけないことに若干躊躇するも、その目が少し、ほんの少し怖かったので慌てて寝台の縁へと移動し、足を床に付け立ち上がる。
差し伸べられた手を取った方がバランスが崩れそうだったので見なかったことにした。
足の裏に感じる感触は、ふかふか。ドラゴンの足の裏は固い皮膚で覆われているため鈍いのは鈍いのだが、丈の高いだろう草葉の上に降り立った時のような気持ちよさがある。
ヒトが育てる麦やら稲穂やらの上に立つと地が割と柔らかく時には湿っている故に、思わず嬉しくなって駈けずり回っていまう。その時と同じ位良い心地だ。
二足歩行に関して多少の不安はあったが、我ドラゴンだし、と自分の身体能力を過信してみて一歩先へと踏み出した。