世界の端っこ
夏休みが過ぎて一ヶ月たった九月の末
スポーツテストが行われた。
そこで言われた体育教師のひとことに傷ついたわたしは・・・・
どうしてみんなはすぐ体が動くんだろう。
わたしは行動を起こすのがとても遅い。
小さい頃、冬の朝起きると、ストーブの前で
何時間もじーっとしていることがあった。
おかあさんに、
「早くしないと遅れるよ。この子はまったくぐずぐず、ぐずぐずして
覇気がない。子供らしくないね。年寄りよりひどいわ。ぼさーっとして。そんなんじゃ生きてゆけないよ。おいてかれるよ、みんなに」
とののしられ、
「はやくしろったら!」
とほっぺたをひっぱたかれるまで
じーっとしてた。
あまりにじーっとしすぎてたので、背中をストーブでやいてしまうことなんか
しょっちゅうだった。
その、もっとまえ
幼稚園のおばあちゃん先生にもよくひっぱたかれた。
たしか、卒園のお遊戯会のおどりの練習のときに、
手がしゃきっと伸びてないから、といって、ぴしゃっとたたかれたのだ。
そういうのには慣れてたのでなんとも思わなかったけど。
そのおばあちゃん先生はわたしをひっぱたいてから
顔をじっと見てこういった。
「あんた、顔色が青白いね。おかあさんにほうれん草のお味噌汁をつくってもらいなさい」
と。それから、ぼそっと
「覇気がないね。まるで、年寄りみたいな子だよ」
と呟いた。
小学校四年生のとき、おかあさんは、わたしの愚図を治すために
朝六時に起きて、家の近くの公園の周囲一キロあまりの池の周りを
走ることを提案した。
妹のゆかりちゃんも一緒だ。
わたしは、本当に走るのが苦手だ。
自分が走りたくて走る分にはいい。
走らされるのがいやなのだ。
競争とか順列をつけられるとか。
運動会の徒競走ではいつもびりだった。
三年生の時。
運動会の徒競走で一列に並ばされて、順番をまつ時、すでに泣いていた。
ピストルの破裂音も、いっせいにスタートする瞬間も、なにもかも怖かった。
地面をけり、自分の体が一瞬宙を浮くその瞬間に、自分が何かと引き離され
頭の中が真っ白になり、息が止まり、心臓がからからに干からびる気がする。
走り終わったときに感じる頭痛もいやだった。目の前が暗くなり、奇妙な光り物が視界を乱舞し
気が違ったかのように胃袋がねじれ、まるでからだがばらばらになるんじゃないか?
と思うような違和感に襲われるからだった。
だから、子供同士で鬼ごっこをするなんてとんでもなかった。
缶けりもしたことがない。
遊びのルールも理解できなかった。
頭では行っていることは理解できるのだが、体がまったく連動しないのだ。
こころとからだの乖離にわたしはしばしばなやまされていた。
その点、ゆかりちゃんは違った。
細くてスマートなので体が軽い。したがって足も速い。
おかあさんの思いのままにひょいひょい体を動かす。
その思い通りになる、のがおかあさんは小気味よかったのだろう。
その朝、おかあさんはゆかりちゃんと公園の池の周りを一周し、
スタート地点でしゃがみこみ、
ぼうっと地面を掘り返してる、わたしをたったまま見下ろして
「ゆかりちゃんとあんたって、まるで違うわ。あんたは誰の子かい?あたしの子供とは思えないよ。いつもぼうっとして、どろーんとして。年寄りみたいな子だ」
そう言ったのだ。
年寄り、みたいなのか。わたしはぼんやり思った。
なんと言われても、あの世界が混乱するような体内の違和感だけは伝えようがない。
そのときから、走ろうと促されるだけでおなかが痛くなるようになった。
「最後は五十メートル走だからな。タイム計るぞ」
高校のトラックでもっこりが叫んでる。
もっこり、とは女子高にこいつがいるのは犯罪だ。
と誰もが水面下で叫んでいる体育教師のあだ名だった。
ずんぐりむっくりしている。
そして、たまに下半身に盛り上がる。
そこまでよく観察してるな、とわたしは感心するのだが、女子高の女子は
なかなか辛らつなあだ名をつける。
女子はかわいくないものには、辛らつなのだ。
それは、世代を問わず共通の普遍だ。
だから、自分はちゃんと自分がわかっている。
おかあさんは、わたしをかわいいとは思っていない。
走る、のか。
わたしは絶望的な気分に陥る。できればエスケープしたい。
ぼてぼてと肉のついたおなか周りに食い込む短パン。
もっこりのことではない。
わたしのことだ。
156センチ68キロ。
まわりは何キロくらいなんだろう?みんな細い。
あのこってウエスト60センチくらいなのかな?
長い髪を一本縛りにして赤い鉢巻を閉めた女の子を見る。
名前は、わからない。クラスの子にはあまり興味がない。
みんな、勝手に生きている。勝手に勉強して、勝手に部活やって、
勝手にはしゃいで、勝手に笑って。
音楽の話をして、隣の男子高校生の噂話をして、今日の英語の
単元テストの出題範囲の情報交換をして
「えー、走るの?やだなあ」
そういっている子に限って、早い。
「タイム7秒2」
バスケ部の子だ。放課後、部活の前にカレーパン三個とおにぎりを食べている。
いつもだ。
きっと運動してるからカロリー消費してるんだろうな。
そう思う。疲労、しないのかな。
わたしはいつも疲れている。
なぜなのか、わからない。五歳のときから疲れてるのかも、しれない。
…筋肉に乳酸という物質がたまると、疲労を感じます。
生物でおぼえた乳酸のかたまりが、脳みそにたまっているのかもしれない。
ぼんやりと思う。走ると、疲れるからいやだなあ。
わたしの番になった。
走った。というよりも早く歩いた、といったほうが正解。
「10秒、だな。小野寺、お前からだ重いだろう。ぶたが走ってるみたいだぞ。ちっとはダイエットしろ。そのままぶくぶく太ってたら嫁の貰い手もないぞ」
は?
周囲がしん、と静まった。誰もわたしのほうを見なかった。
もっこり、ひどーい。とか、
先生それは違うでしょう?
とか、教師が生徒にそんな侮蔑をあたえていいんですか?
とか、
なにかあるでしょう?
と、思った。
あるものは気まずそうに、
あるものは見事に聞いてない振りで別のおしゃべりをし
あるものはあさってのほうを見るが如く、関係ない様子をし
わたしひとりが、世界の端っこに立たされたみたいに
固まって、いた。
侮蔑、だ。
そう理解するのに時間がかかった。
少なくとも三十秒。
わたしの脳みそは恐竜なみのスピードで痛みを理解するのかもしれない。
言い返すこともできない。
授業が終わり、わたしはトラックにひとり取り残された。
だれも、言葉をかけてくれない。
そういうのには、慣れていた。
ただ、はじめて
悔しい、と強く感じた。
わたしはここに居る。
世界の端っこで泣いている。