失われた自分
わたしは、自分をいきてこれなかった
おかあさんの望む子供でいることしかできなかった
こどもはどうしたら大人になれるんだろう?
大人のなり方をしらないまま、ただ努力だけをむだに重ねている。
わたしってなんでこうなんだろう?
存在を認めてもらえない。
高校一年の五月
三時間目の休み時間だった。
次の科目は数学で、わたしは数学が大の苦手だった
数学の先生はおじいさんで、とてもひとあたりのよさそうな
好々爺だった。
女子高生はかわいいものに目がない。
好々爺はドクにも薬にもならず、もはや異性の対象ではない
枯れ果てて、ぱさぱさした食パンみたいなたたずまい。
黒ぶちのまるめがねの奥でほそい三日月みたいな目が
微笑んでる。
いじりやすい。
ほんとは、おじいちゃん、と呼んでもいいくらいなのだが、
そこはおりこうさんの集団で、リスペクトの感情を込めて
彼のニックネームは、パパになった。
パパは、とても公平な人なので、
授業時間は常に公平に出席番号から当てていく。
はじまりはいつも、その日の日付。
わたしは十一番。
きょうは五月十一日だったから、問題があたる日なのだ。
一生懸命問題集をといて、ちょっと難易度の高い問題をクリアしてきた。
授業がはじまり、順当に問題が生徒に当てられていった。
次、問題(3)星マークだなあ・・・パパは呟く。
あたし、あたし。ちゃんと解けたからね。
心の中で問題の解法を反芻して黒板を見た。
パパと、視線があった。彼は、いやらしいくらい自然にわたしの視線をスルーして
じゃあ、組長。斉藤、星マーク難易度最高問題です。
縦列の真ん中、横列の五番目に鎮座する、組長、こと
斉藤順子に問題を当てた。
彼女は、胸を張って、席を立ち、涼やかに黒板の前に歩み寄って
よどむことなく難問を解いた。
はい、正解ね。
何事もなかったかのように、パパは問題集に眼を遣った。
そして、ソフトな声でさらに、問題の解説をした。
では、ここまで。
授業の終了のウエストンミンスター・チャイムとともに
パパは教室の戸を軽やかにあけて、退出した。
うそだろ?問題はちゃんと解いてきたんたぞ。
わたしは真っ赤になった。それはものすごい屈辱と理解された。
つまり、彼はわたしの実力をこの瞬間、見限ったのだ。
入学早々の学力テストで高得点を取って、いい気になっていたが
一ヶ月もすると大体の実力は見えてくるのだ。
小テスト、抜き打ちテスト、普段の回答率、そんな事実を
パパはあの優しげなめがねの奥でちゃんと測っていたのだ。
つまり、そういうことだ。
その瞬間、頭の中が空白になった。
わたしの存在は空気より薄い。
わたしの体は肉厚なのにサランラップより透明な浸透膜になっている。
わたしはどこにいるの?わたしの形が見つからない。
肉体とこころがばらばらになった空白地帯から突然飛び出してきたのはメロンパンだった。
機関銃の弾丸が連射するように、メロンパンの映像がびゅんびゅん飛び交ってくる。
それは、深い闇の中から、いくらでも出てきた。
次から次へと。
ポケットの中にはビスケットがひとつ
ポケットをたたくとビスケットはふたつ
もひとつたたくとビスケットはみっつ
たたいてみるたびビスケットは増える
ちいさな子供の歌が聞こえる。笑い声も聞こえる
きゃら、きゃら、きゃら。
光のさすほうから耳に差し込んでくる子供の歌声を聞いているうちに
いてもたっても居られなくなった。
わたしは次の時間が始まるのも忘れて
かばんも持たずに、自転車置き場に走った。
メロンパンを、買わないといけない。
あたしのなかで、何かがこわれた。まだまだ続きます。