悲しい弁当
なにが悲しいって、弁当の汁が教科書にこぼれるくらい悲しいことはない。
うちのタッパは蓋がゆるいのか、おかあさんの頭のねじがゆるいのか、文句をいうと、それじゃ、もう作んないから。文句言うなら食うな。と跳ね返された。
ねっこは深い。やすっぽい○○ザキのパンのほうが、まし。
お母さんはものすごく料理が下手だ。
それと、いつもあせっている。
ほんとに昔の話、幼稚園のころ。
今と違って、子供の数も多かったから、母親が子供にべったりというのは少なかったのだけど、
それにしても母親のわたしに対する無関心ぶりはすごかった。
多分、仕事が忙しかったのと、ゆかりちゃんが体が弱かったので、それで精一杯だったんだと思う。
今となっては仕方ないのかもしれないけど、そのときは、決定的に自分は孤児だと確信できることがあった。
たぶん、幼稚園の年長の五月の最期の周の頃。
桜の花が散って、かわりに緑の発破がにょきにょき出始めてたのを覚えてるから、その時期だったと思う。
ある日、ひとりでとことこ歩いて、うちから五分くらいの幼稚園についた。
山のてっぺんにあるゆり組さんのお教室は、子供がおおかったから、今思うと倉庫かなんかをリサイクルして使ってた部屋だった、と思う。
ちょこちょこ歩いて、お部屋に着くと、みんながいつも違う様子をしてる。
なにが違うって、幼稚園バックじゃなくてリュックサックを持ってきてて、水筒を持ってる子もいた。
え~、どうして品子はみんなと違うんだろ
だんだん不安になる
「今日は、バスに乗って、牧場に行くの。園外保育の日なんだよ」
おかっぱでくりくりした瞳のマキちゃんが教えてくれる。
「え~品子、リュック持ってこなかったよ」
「大丈夫だよ、あとでおかあさんが持ってきてくれるよ」
「そうなんだ」
「そそ、おかあさんいそがしいから」
マキちゃんが自信たっぷりに言うので
安心してお母さんを待つことにした。
おかあさんは忙しいから、きっとこういうこともありなんだ。
妙にリアリティに富んだ納得の仕方だった。
あの人にはディフォルトというものが存在しない。
常に思いつき、アドリブの連続。とりあえず、間に合えば、結果オーライでしょ?
の乱暴な思考。
やがて、わたしは、不安な気持ちが次第に真実に変わったのを知る。
「さあ、今日は園外保育で、牧場に行きますよ。ハンカチ、ちり紙、水筒、お弁当、忘れ物はないかなあ?」
と、副担任の若い見習い先生が言う。
お弁当、忘れました。
わたしはすっかり縮こまってそう申告した。
「品子ちゃん、あんた、おかあさんにお手紙わたしたのっ?」
鋭く指摘されてわたしは口ごもる。
お手紙なんか渡してもおかあさんは見向きもしないのだ。
お渡しの日が近づいていると、いらいらしてわたしのことなんか眼中にない
おかあさんは、おうちで洋服の仕立ての内職をしていた。
(わたしが小さい頃って(1960年代後半)そういう仕立ての内職とかしてるお母さんは多かったんだけどね。)
それにしても、おかあさんはわたしを憎んでるんじゃないかって思うくらい関心薄かった。
それに引き換え、ゆかりちゃんのこととなると、それはそれはむきになるのだ。
結局、先生は幼稚園から五分のうちまでおかあさんに連絡に行き、その足でおかあさんは近所の雑貨屋で買った(当時、コンビニなんてなかった)
防腐剤たっぷりの菓子パンを買いに走り、缶入りのみかんジュースと、パンを二個くらい、幼稚園バスの窓からわたしに手渡しして、さっさと消えていった。
牧場の広場で、わたしは何も食べなかった。パンは、ぐちゃぐちゃに、小麦粉ねんどみたいにして
指で丸めて、牧草のなかに捨てた。
牛が、近づいてきて、そのパンを食んだ。
おなか、こわすよ。
わたしは呟く。
その次に、ひどかったのは、中学のころ。
水分の多い煮物は、タッパに入れるという常識を知らないんだろうか?
普通の弁当箱(当時はふたがゆるかったのね)に醤油で煮たおかずを入れて、それを真っ白なハンカチでつつむものだから、その汁がこぼれてハンカチは茶色、そこに入れてたサブノートはぐっちょり
かわかしたら、醤油くさかった。あははは。笑った。力が抜けた。やりやがったな、ばばあ。
仕方ない。
中学の頃、つるんでいたのはなぜだか、一部上場企業の役員のお嬢様と、国立大学教授のお嬢様のふたりのコンビだった。
なぜ、彼女らとつるんでいられたのか、今もって不明なのだが。
今思うと、そこには母親の意図が隠されていたような気がする。
成績のいい人とお友達になるのよ。人間って環境が大事なの。
おかあさんもたまにはいいことを言う。
いいことには素直に従うのが得策だと、わたしは思った。
結局、わたしは、友達も自分で選べない弱虫なのだ。
おかあさんのいうことを聞かないと、それですら、妹に水をあけられている自分の立つ瀬がないからね。
わたしは、徹底的に自分がないのだ。