中野区沼袋三丁目 2
青い空がどこまでも続く8月。わたしは、西武新宿線高田馬場駅を、所沢方面に下っていく。
そして行き着いた先の駅前不動産で、見つけた物件は。
気持ちが落ち着く部屋を探しだい。
狭くたっていい。 というよりも、お金がないから、狭い部屋にしか住めない。
日当たりの悪い三畳間の物件を見たとき、
わたしは、生きて暮らして行くのに一番必要なのは、太陽光だと理解した。
風呂なしの不便さより、共同トイレの汚さより、キッチンの狭さよりも、
一番大事なのは、日当たりだ。
東南角部屋が条件としては最高であることを、駅前不動産のおばちゃんから学んだ。
しかし駅前不動産に入って、物件を探すたびにわたしは当惑する。
「部屋を探しているんです」
「どんな部屋?」
「安い部屋。あと日当たりのよい角部屋だったらいうことなしです」
「ふうん、若いけど、学生さん?」
「仕事はしてないです。これから学生になる予定です、今はアルバイト」
「これからって?予備校にでも行ってるの?」
「いいえ」
「あ、じゃあ宅浪か、大変だねえ」
宅浪、というのは予備校に通わず、自宅で自分で学習することだ。
「あ、まあそんなところです」
ことばを濁した。
学生ではないから、そうとは言えない。
会社勤めや、定職に就いているわけでもないので、勤め人でもない。
自分が何者なのか、を示す証明書が何ひとつない。
わたしは一体何者なのか?
急にこころぼそくなった。
社会のシステムから、大きく外れてしまった。
アウトローというと、格好いいが、そんなタフネスではない。
ようするに、落伍者寸前なのである。
今年の3月までは、女子高生だった。
地元で、会社勤めをしていたときは、会社員という肩書きがあった。
今は、自分が何者かを証明する手だてが何もない。
ふわっと、足元が浮き上がった。
浮き藻のような存在だった。
なにも、決められなかった。
決める、ということが恐ろしかった。
何かを決めると、それに責任を持たなくてはならない。
なにも決めなければ責任など生まれようがない。
浮き草には根っこがない。
根っこを生やすにはまだ力がたりなかった。
浮き草のように、トーキョーという町の水面に
ふわふわと浮いているのが精一杯だった。
しかし、浮力を持続するにも体力は要る。
ねぐらを確保することは、その体力を温存していくだけの
静養をする場所を確保すると言うことだ。
休まないと、動けない。
わたしは音と、光と空気に敏感なたちなので、
やはり、気の合わない人間と暮らすのは無理だ。
ひ弱な浮き藻は、猥雑な茅といっしょに生えることはできない。
浮き藻には、浮き藻に相応した環境というものがあるのだ。
わたしはそう信じていた。
繊細な感受性、といえば聞こえはいいが
単にわがままなだけなんだと思う。
でも、わたしは、わがままがしたかった。
思う存分人を傷つけ、言いたいことをしゃべり
ずうずうしく生きてみたかった。
今、自分が浮き藻暮らしをはじめるのは
必然のことだと思った。
それを、しなければならない。
ものごことに偶然はない。
どんなに汚いことだって
それがどれくらい汚いことなのか
そこに埋まってみないとわからない。
馬鹿な理論だが、そのとき自分は世の中の
ワーストワンを見てみたいという欲求に駆られていた。
ワーストワンを知れば、その反動でベストワンにもなれそうな気がしたからだ。
それを端的なことばであらわせば、ハングリー精神になる。
だけど、そのことばを自分に使うにはちょっと違和感がある。
わたしはハングリーじゃない。
ただ単にわがままなのだ。
仕事したくない。
社会のシステムに埋もれたくない。
でもお金は必要。
夢を追いかけるためには、お金を稼ぐ体力は必須アイテムである。
あたまのなかを、そんな取り止めのない思考がぐるぐるらせん状に
渦巻いている。
わたしのあたまのなかは、いつも台風状態だ。
取り留めなく、ぐるぐるぐるぐる。
そうして無駄な時間をついやし、何者にもなれず、ぼうっと時をすごす。
とにかく、今は家を探すことに集中しないと。
余計な思考であたまをいっぱいにしてはいけない。
わたしは西武新宿線沿線をくだり、高田の馬場から5個目の駅で降りた。
沼袋、という駅だった。
駅舎が木製で、のぼりとくだりの線路が、ホームの右と左を平行に走っている。
沼袋?池袋みたいな地名だなあ。
寂れた田舎の駅のようなたたずまいが懐かしく感じられて、わたしはその駅で降りた。
駅前不動産は、改札を抜けて左手に、あった。
木造二階だての、日本家屋のつくりだった。
田舎のおばあちゃんのおうちみたいなほっとするたたずまいに、惹かれて
わたしは店のガラスの引き戸を開けた。さまざまな物件の張り紙がガラス戸に貼られていた。
いらっしゃい。
扉をあけると、六十からまりのおじさんが
木の机に向かって新聞を読んでいるのが見えた。
「部屋を探しているのです」
わたしはおじさんにそう言った。
「ほうほう、ちょうど今空き部屋があるよ。あなたのようなお嬢さんにちょうどいい物件だ」
おじさんはにこにこして言った。
見れますか?とわたしは尋ねた。
「すぐ案内できるよ、鍵も預かってるし。ここから十分くらいだ、踏み切りの南側だ」
おじさんに案内されてわたしはその物件に向かった。
「五月まで部屋はいっぱいでね、ほら新学期とか、大学の。あと新入社員とか、会社の。
そういうひとたちがいっぱいで空き部屋がなかったんだけどね、今頃になると落ち着くから、さ」
おじさんは江戸っ子みたいなべらんめえ口調で歯切れよくしゃべった。
「あんた、地方から来たの?」
「福島です。郡山です」
「わかるよ、郡山。薄皮饅頭、だ」
「薄皮饅頭、知ってますか?」
ちょっとうれしくなってわたしは聞いた。
「知ってるさ、上野の駅にも土産に置いてある」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとだ」
「じゃあ、郡山に行かなくても要ったことにしちゃえるんだ」
「あははは、そうだなあ」
からからと笑う声にひとのよさがにじんでいる。
ほっこりする。
日差しが暖かかった。
空はどこまでも明るく晴れていた。
どこまでもどこまでも飛んでいけそうな空だ。
わたしは開放感でいっぱいだった。
寂れた沼袋商店街を抜けると、西武新宿線の踏切がある。
線路を越して、おじさんはずんずん歩く。
わたしも遅れないように歩く。
トーキョーのひとは歩くのが早いなあ。そう思っていると
おじさんは道を右手に折れて、路地に入っていく。
曲がり角に、和菓子やがあった。
のぼり旗が立ててある。
そこを曲がると道は狭くなった。車が二台すれ違えるかどうか位の
狭い道だった。
付近はそこそこのつくりの住宅が立っている。
中流、というか平凡というか、
地方都市の住宅街とさほど変わらない、落ち着いた並びだった。
ある家の軒先には、アジサイが繁茂し、またある家の軒先は
バラの垣根で囲われている。
植物を植えている家がおおいと言うことは、
心に余裕があるということだ。
そう理解した。ますますわたしは、じっととおりを観察していった。
ここが自分の町になるかもしれないわくわく感でいっぱいだった。
自分で自分の住処をさがすのは本当に素敵なことだ。
やがておじさんは、古びた洋館の前に立ち止まった。
昔の開業医院のような、手作りの教会のような、サナトリウムのような
女子寮みたいな、なんとも形容しがたい感じの、
それでも自分はここを知っていた、みたいなデ・ジャブを感じさせる建物だった。
はげかけたモルタルつくりの、もとはピンク色だったんだろうな、
と想像できる壁の色。
吹き抜けの玄関の二階部分は、かまぼこ型のガラス窓になっている。
玄関のかべに「たかみ荘」
という名前の木製の立て看板がかかっていた。
「たかみ荘」
「たかみ荘」
二回くらいそっと呟き、その音の響きを確かめた。
悪くない音のリズム。
ここにしよう、玄関を入る前から決めていた。
共同の玄関で靴を脱ぐ。
裸足で廊下をあるくと、ジャシジャシと砂ぼこりが足を擦った。
かまわずおじさんはスリッパもはかずに(というか、スリッパはなかった)
二階の階段を昇る。
「ああ、ここが吹き抜けだったんだ」
わたしはひとりごとを言う。
かまぼこ型のガラス窓は吹き掃除の雑巾の筋が見て取れる。
階段の手すりは、丸いたまねぎ形の飾りが上と下についていて
なかなかにおしゃれだ。
二階の廊下を挟んで両側に五つ部屋があった。
部屋のドアには、やはりかまぼこ型のガラスの窓があり、そこだけすりガラスになっている
たいていの部屋はそこを板か布かポスターなんかで隠しているが、ここを見れば
在宅か外出かそくざにわかるようになっているらしい。
おじさんは、南側の奥まった部屋のドアを開けた。
見事な部屋だった。わたしには。
東はすりガラス、南はクリアガラスが嵌っていて、四畳半のほかに板の間が二畳ほどあり、
左手に半畳の押入れ、その奥に半畳の板の間、そこにステンレスの流しがはめ込まれて、ガス台のスペースも一口ぶんちゃんとあった。
「いいなあ」
「日当たりは最高だろう、東南角部屋。前にも女の人が住んでいたから、部屋は痛んでいないよ」
おじさんは、にこにこして言った。
「ここに決める」
わたしは即決した。
自分の住処を自分で決めた。
わたしはそれだけで、何か誇らしい気持ちになれた。
「家賃一万八千、共用費二千円、しめて、月二万円、どうだい?」
おじさんはそういって誇らしげに胸を張って見せた。
「いい、いい」
「しかも、江戸間だから畳の尺は普通の団地サイズより広いんだ」
「ありがとう」
「ここで、高等遊民に徹すればいいさ」
おじさんはそういい、からからと笑った。
「郡山、がんばれよ」
うん、わたしは力強くうなづいた。
やっと自分のお城が持てた。自分で決めて自分で動く。それが成功のひけつだよ、シナシナ




