メビウスの輪、あるいはバンジージャンプ2
わたしの家から、百メートル足らずのバス停に
たどり着いたのは、バスに乗って30分後だった。
わたしは、そろそろと、腰をかがめてバスを降りようとする。
おりるとき、バス代を払おうとして、指先がすべり、
小銭をバスの床に床にばら撒いた。
はいつくばって小銭を拾うわたしの意ぶくろはさらにねじれて
プア~。間抜けすぎるブザーの音に飛び上がらんばかりに歓喜した。
やった、これで、洗面器が近くなる。
わたしはそろそろと、前かがみで腰をかがめて、バスの前方、運転席の前の
乗車賃投入口に進んでいく。
バスが完全に止まった。
しゃあああああっと、蒸気が上がるような停車音に幾分ほっとした顔の
わたしは、オーバーのポケットの中にある小銭をぎゅっと握り締める。
小銭を重ねて、乗車賃投入口に入れようとした瞬間、べっとりと
手汗をかいていたわたしの指先がすべり、
小銭をバスの降車口一杯にばら撒いた。
それは見事な、鬼はそと、だった。
やめてくれ、もういい加減にして。早く降りたい、このバス。
早く家に帰って、自分の部屋で洗面器かかえて、せいいっぱい
げろげろしたい。
わたしは切実に願う。朦朧とした意識のまま、小銭を拾う。
運転手がきのどくな人を見る目で、わたしをちらっと見たのに気づいたが
そんな視繊にいちいちナーバスに反応してる時間はない。
あああああ、吐く、吐く、はくぅうううううう!
小銭を放り込んでバスを降りる。ステップを降りきって、
地面に足をつけたその瞬間、バスがタイヤをきしませてその場を走り去ろうとした
その刹那、
きらびやかな黄金の液体がわたしの唇からあふれ出た。
苦さと、酸っぱさが合いまった、見事なコラボレーション。
バスに乗って上から私を見た幾人課の人がぎょっとした顔をしたが、
発車のタイミングに、まさにわたしは救われた形になった。
そのまま、しゃがみこんで、バス停の脇の側溝のふちに茂る叢めがけて
わたしは吐しゃ物を吐き出し続けた。
だれも、見ていないのは幸いだった。寒いし、夕方だし、暗がりになりかかっていたし。
そんな時間、徒歩で車道を歩いている人間などいない。
よかった、だれにも見られないうちに家に戻ろう。
わたしは、よろよろと立ち上がり、
バス停留所の車道側から、まだ舗装されていないY字路になった私道の右側の道をたどっていく。
だれにも会わずに、自宅に着いた。
バタン、と音をさせてドアを閉めたとたん、
シナコ、どこに言っていたの?こんな夕方に?
あかあさん今帰ってきたばかりだけど、洗濯物はたたんでないし、
お米は炊けてないし、あんた、早く帰ったら家のことやっておいてっていってんでしょうが。
きょうは六時前に帰れたから、さっきご飯炊いたけど、
勉強ばっかりして、家のことなんにもしないのはそれは違うからね。お父さんも帰ってくるし、
もう、この辺片付けてよ、ちゃんとやってよ、ふらふらしてないで。
あんた、長男の甚六じゃないけどさ、ほんっとに気が利かないよね
ちゃっっちゃとやって頂戴よ。
どろーんとして腐った魚みたいな目してないで。
え?何?聞こえない、ちゃんとはっきり話しなさい。え?え?
気持ち悪い?吐きそう?あああああ、こんなところに居ないで、お風呂場かトイレに行って
あああああ洗面器?あたらしいの、使わないでよ。ああああ、汚い、汚い、掃除したばかりなのよ
こないだ、休みの日に家の中の床、全部ふいたんだから。雑巾で。水拭して、そうそうワックスもかけ
なきゃいけないんだし。
もう、使えないね、この子はあああああ、いらいらするから、もう部屋に行って寝なさい、寝なさい
はい、さっさと、パジャマに着替えんのよ、そのまま着どころ寝、しちゃだめだから。
布団も汚れんのよ、わかった?わかった?わかったら返事しろって、親をばかにしてんのか?
ものすごい、機銃砲のような、というか火炎放射器も真っ青の、お母さんの言葉の銃弾が
わたしの弱りきった脳みそを打ち砕いた。
もう、いいから。
わたしはことのすべてを投げやりに受け止めて、自室に入り、ベッドに転がった。
そこからが、本格的な無間地獄の始まりだった。
メビウスのわのような、終わりなき不快感の連続、
それはやがて、高低差のあるビルから飛び降りるような酩酊に連なっていく
ODシーン、まだまだ続きます。




