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竹残〜竹千代が残せし者〜後編

作者: 駿 慶三郎

このページに刑されている文章の無断転用を禁止いたします。

「大天狗様!」

 小天狗の呼びかけに、大天狗は我に返った。

「小天狗よ。確かにお前の言うとおりだ。わしは迷っておる。事実を知った時、竹残がどうなるのか、わしには見当も付かぬ。そしてその時、竹残を正しい道へ導けるか、正直自信が無い。かと言って、こうなってしまった以上、このまま隠し通せるとも思えぬ」

 大天狗は、その大きな体をしぼめてうなだれている。その様はまるで、えさを取り逃がした熊のようである。

「私は竹残を信じていますがね」

 そんな大天狗の心配を吹き飛ばすかのように、小天狗はつとめて明るく言った。

 大天狗が小天狗を見た。その目は、救いを求めるかのように、頼りない。

「いつもの大天狗様らしくありませんよ。竹残の事となると、心配が過ぎるんじゃないですか。あの子は、そんなに弱くは有りませんよ。心も体も、大天狗様にしっかり鍛えられていますから。ですから、あの子を信用して、話してやりましょうよ。話す時が来たんですよ」

 小天狗の言葉に、大天狗の目にいくらか力がみなぎってきた。

「そうだな。そうだよな。わしらの子だ。心配なんかする必要が有るものか!」

 小天狗は安心して、首を何度も縦に振った。

「だが、わしからは言えぬ」

 拍子抜けするような大天狗の言葉に、小天狗は崩れそうになるのを、かろうじて堪えた。

「何故です」

「あれの母親と約束したのだ。もし、真実を打ち明けなければならない時は、母親の元に連れて行き、母親の口から伝えたいと」

「そうですか。でも、危険ですよ。ここを突き止めたとなると、母親の元にも待ち伏せがいる可能性は、十分有りますから」

 そう言ってから、小天狗は頭をひねった。

「ところでどうして奴らは竹残を狙うんですかね?竹残を狙う忍がいるとすれば、徳川家の忍であると言う事だけは分かるような気がしますが…」

 小天狗の疑問に、大天狗が思案しながら言った。

「これはあくまで推測だが…」

 大天狗の言葉に小天狗が身を乗り出した。大天狗は暑苦しそうにその顔を払いのけた。

「鍵は関が原にある。わしが考える首謀者は中納言だ」

 中納言とは、徳川家康の三男で、後継者と目されている秀忠である。なぜ三男で後継者かと言えば、長男信康は先述したとおり死去している。次男秀康は、何故か父家康から嫌われ、挙句の果てには豊臣秀吉の元に養子に出されてしまったのである。養子と言えば聞こえはいいが、ようは人質である。ちなみに秀吉からも敬遠されたのか、結城家という小大名の元に、再び養子に出されてしまっている。よって、三男である秀忠が後継者の座についたのである。

 だが、家康がいよいよ天下取りに向けて始動した矢先、関が原の戦で秀忠は大失態を犯してしまった。後継者として自ら三万五千の兵を率い、家康とは別の中山道を行軍していた途中、行きがけの駄賃として責めた西軍方の真田昌幸・幸村(信繁)親子が篭る上田城に釘付けとなり、肝心の関が原に間に合わなかったのである。しかも上田城を落とす事もできなかったと言う。まさに後継者の地位を揺るがす大失態だった。関が原の戦が家康の勝利に終わったから良かったものの、敗れていれば間違い無く秀忠は命を失っていたであろう。

 家康は秀忠に対し、明らかに不快感を示していると言う。関が原の戦から五日たった今でも、秀忠は家康に謝罪を申し入れる事もできないでいた。そこで、竹残の存在を知る何者かが、秀忠を廃し、嫡男信康の遺児である竹残を後継者として押し、その事が秀忠の耳に何らかの形で入ったのではないか。簡単に言えば、大天狗の推論はその様なものだった。

 しかしその意見に対し、小天狗が難色を示した。

「しかし、家康にはまだ二人の子がいるんですよ。その二人を差し置いて、竹残が押されるとは考えにくいんじゃないですか」

「確かにそこの所は引っかかる。だが、嫡男の子が後継者に選ばれるのは筋が通っていると言えば言える。それに家康は信康に相当の期待を寄せていたとも聞く。その信康と徳姫様との間に男子がいて、しかも肝心の中納言があの様では、心が動いたとて不思議ではあるまい」

「そう言われれば、考えられなくも無いですね。でも、家康に竹残の存在を知らせた者は、その事実をどこで知ったんでしょうね。それに、どういう思惑で…」

「考えられるとすれば、徳姫様の周囲からだろうな。その事実を知った男は、その情報を効果的に利用できる機会を窺っていたのかもしれん。もし竹残が後継者となれば、自分がその後見役にでもなるつもりなのだろう」

 その後も二人は、竹残を狙う可能性のある人物を模索してみたが、信長、秀吉亡き今、特に思い当たる人物も見つからず、そのことについては放念した。全ての謎は、徳姫に会うことによって、解決の糸口をつかめると思ったからである。今重要なのはここから生きて逃げ延びることである。

 小屋に戻った大天狗と小天狗は、竹残に無事ここを逃れる事ができれば、全てを知る者に会わせると告げた。だが、それが母親であると言う事は伏せておいた。動揺する元であり、動揺は隙を生み、その動揺は生死に関わるためである。

 竹残はそれを、大天狗も真実を完全に知らされていないものと取り、半ば仕方なく、戦う事を了承した。



 大天狗の推測は、大筋で見事に的中していた。

 家康の三男秀忠は、じりじりと足元から焼かれるような焦燥感に駆られながらこの数日間を過ごしていた。

 関が原の合戦から六日が過ぎた九月二十一日、秀忠は近江草津において謹慎を言い渡され、いまだに父家康に会うこともままならなかった。関が原において、家康が勝利を収めたと、放った忍びの報告で知ったのが、九月十七日。秀忠は配下の服部半三に命じ、家康への詫び状を出し、その結果家康から世継ぎ取り消しと、書状で知らされたのが九月十八日。その日のことを思い出すと、今でも心の奥底から吹き出すような恐怖に駆られる。

 今もただただひれ伏す服部半三を目の前にして、秀忠はその日のことを思い出していた。


 半三が脂汗を垂らしながら差し出した書状を広げ読み進むにつれ、秀忠は蒼白になっていった。今更ながら、自分の犯した失態を目の当たりにしたような気分だった。

初陣でいきなり3万5千もの大群の将となった事は、まさに秀忠が家康の後継者であると、世に知らしめるに十分な地位だった。家康の子息の中で、これほどの大群を任される者が他にいようか。上杉景勝に対峙している次男秀康が1万5千、四男の忠吉が六千、そして何より、家康自身が三万の軍勢なのである。徳川家中では随一の戦力を率いての戦である。今思えば、あまりの状況に浮き足立っていたのかもしれない。父家康が手を焼いた男を、この手で潰して見せたいという功名心があったのかもしれない。

たった三千の兵で信州上田城に篭城する真田親子など、まさに足元を這いずり回る地虫のように思えた。自分が一振り采配を振れば、木枯らしに吹かれる枯葉のように消し飛ぶものと思っていた。

 もちろん付き従う家臣たちは異口同音に大反対した。寡兵とは言え、真田昌幸は戦上手で知られた古強者であり、上田城は難攻不落の要害である。秀忠が思うように簡単には落ちない。また、上田城を素通りしたとしても、昌幸には追撃するだけの力は無い。手を出さなくとも、石田三成さえ倒してしまえば、後でどうにでもなる相手である。今は一刻も早く家康と合流するべく先を急がなければならない。真田昌幸などは大事の前の小事である。等々。誰一人、守役として古くから秀忠付きである榊原康政さえ、秀忠の意見に肩入れすることは無かった。

 だが城攻めは始まった。いや、始めてしまった。秀忠は時が経つにつれ、日が経つにつれ、家臣たちの意見が正しかったことを痛感した。報告されるのは味方の損害ばかりで、櫓一つ、城門一つ破ることができない。物見の報告では、真田昌幸は櫓の上で碁を打ちながら采配を振るっているという。秀忠は我が耳を疑い、恐慌に駆られた。だが、一度はじめた城攻めを、何の成果も上げずに終わらせることはできなかった。せめて一矢報いたい。余裕の表情で碁に興じている昌幸に一泡吹かせたい。そんな秀忠の思いは、事態をますます泥沼へと誘っていった。

 結果は先述したとおりである。まさに悪夢だった。城攻めを止め、遮二無二中山道を西へと向かう馬上で思い返してみても、信じられない出来事である。今考えてもなお、なぜ上田城を落とすことができなかったのか、理解することはできなかった。

 だが、家康にそんな言い訳が通用するわけが無かった。現に事の成り行きと平身低頭の謝罪文を持たせた半三の手の者が持ち帰った書状には、

「その場で、別命有るまで謹慎せよ。世継ぎのことは白紙と思え」

と、短い文面ながら、秀忠を奈落の底に突き落とすに十分な文面だった。

 秀忠は愕然となり、頼りない足取りで半三の横を通り抜け、一目散に榊原康政の元へ向かった。秀忠にとって頼れるものはもはや康政しかいない。康政は徳川四天王の一人である。守役である康政にとっても、秀忠が世継ぎとなるか否かは、自分の栄達にとって重要事項であるし、なにより秀忠と連座しての、遅参の責任問題もかかっている。この男なら何とかしてくれると思ってのことである。

 秀忠の話を聞いた康政は、秀忠の不安を吹き払うかのような、ことさら明るい声で、

「世継ぎのことは、秀忠様を置いてほかには居りませぬ。家康様とて、豊臣恩顧の諸将への手前、何らかの罰を与えなければならなかっただけでしょう」

と言って、秀忠を慰めた。

 だが、そんな慰めも秀忠には通用しなかった。何より、豊臣恩顧の諸将への配慮であるならば、何も文面に世継ぎ取り消しと書かなくとも良いはずである。そういって反論した。

 それでもなお康政は、心配ありませんと言って、秀忠の不安を打ち消そうとしたが、執拗な秀忠の追及に、はたと何かに思い当たる節を見せた。

「いや、しかし」

 康政はくぐもるような声でそう呟いた。

「な、なんだ、心当たりがあるのか!」

 秀忠の声は、まさに悲鳴だった。自分が上げた声の大きさに驚き、秀忠は思わず口を塞いだ。

「信康様の遺児」

「の…、亡くなられた兄上の…」

「はい。その者ならば可能性が無いとは…」

 秀忠の目の色が変わったのが、康政にも分かった。絶望で澱んでいた目に、憎悪という灯火が灯ったのである。自分の地位を脅かすもの。それが如何なる者であろうと、消し去る。そんな決意のこもった目であった。

「兄上に、男子がいたなどということは聞いておらぬぞ」

 言葉つきまで変わっている。今まで目に見えなかった敵を捕捉できた事によって、幾分か冷静さを取り戻したようだった。

 普段の秀忠は、けしてこんな目を見せる男ではない。温厚実直、親である家康に従順な孝行息子。それが康政をはじめとした家臣、そして諸大名が抱く秀忠の印象だった。だが、いま目の前にいる男は、そんな印象とはかけ離れたものだった。自分の身のためなら手段を選ばない冷酷非情な男。それが目の前にいる秀忠を表現するのに、最も適した表現である。これこそが、秀忠の本性だった。今までの秀忠は懸命に被り通してきた、偽りの姿だったのである。圧倒的な力をもつ父家康の前に、嫡男信康は自刃に追い込まれ、次男秀康は本来ならば後継者筆頭の立場にありながら、いとも簡単に秀吉に養子に出されてしまっている。そんな非情な父に対抗する手段を、幼い秀忠が持ち合わせていたわけがない。ではどうするか。そこで秀忠が選んだ姿が、従順な孝行息子だったのである。

 だが、いまだ冷静さを取り戻すことができない秀忠は、本来の地の部分が露になっていることに気付いてはいない。

 そんな秀忠を、康政は戸惑いながらも、誇らしく見ていた。今までの秀忠は、確かに当たり障りの無い、悪く言えば良くも悪くも無い凡庸な男だった。これから天下に覇を唱える徳川の後継者としては、あまりに凡庸すぎた。だが、今目の前にいる秀忠は違う。本来戦国武将が持つ、非情さ、冷酷さを持っている。関が原での遅参で、秀忠と同じく危機的状況にある康政にとって、それは頼もしく思えた。

「その者の存在は、家中でも一部の者しか知りませぬ。ただし…」

 康政は意味ありげに、一度言葉を切った。秀忠が思わず身を乗り出した。

「あくまで可能性が無いとはいえない程度です。可能性はほとんど無に近いといっても良いでしょう。何故ならば、その者は武士としては生きておらず、ましてや信康様の遺児ということも知らずに生きて居られる筈だからに御座います。今なさねばならないのは、家康様の不興を払拭すること。それ以外のことには気を回さぬほうが賢明と存じます」

「うむ」

 秀忠はそう返事をしながらも、頭の中は如何にしてその者を消すかという思考で満たされていた。康政もその考えを察しながらも、敢えて止めようとはせず、知らぬふりを通していた。

 康政の部屋を後にした秀忠は、一目散に自室に戻り、次いで服部半三を呼び寄せた。厳重な人払いを命じた後、秀忠は怪しく光る目を半三に向けた。

「お互い、偉大な父を持つと何かと苦労するものだのう」

「はっ」

「近頃では服部党も、すっかり上様の信頼を無くしているそうではないか」

「はっ」

 半三にはまったく話が見えてこなかったが、半三はひたすらそう返事をするしかなかった。

 秀忠の言うとおり、半三の父、服部半蔵の死後、家康の服部党に対する評価は下がる一方だった。それはひとえに半三の力不足が招いているということは、半三自身が痛感していた。偉大な父をもつ子の悲劇。戦国時代をはじめ、人の世の全てに通ずる悲劇が半三を苦しめていた。だが、今このときになぜそんな話をするのか。半三の思考は凄まじい速さで回転していた。

「わしとて同じだ。今のわしの立場はお前とて理解しておろう」

「はっ。い、いえ…しかし」

 若様は手前とは違いますと、続けようとしたところで、秀忠が言葉をかぶせた。

「よいよい。気にするな。同じ不幸にあるお前に、機会を与えてやろうと思ってな」

「はっ」

「ある人物を消してほしい」

 その言葉を聞いたとたん、半三の全身から脂汗が吹き出してきた。今の秀忠にとって邪魔な人物。それを考えたとき、半三に思い当たる人物は一人しかいない。

 内大臣徳川家康。

 父である家康を亡き者とすれば、今のところ辛うじて後継者筆頭の秀忠が、徳川家の当主となる可能性は確かにある。もっとも実際のところはそう簡単にことは運ばないだろうが、少なくとも今の状況を打破することはできるかもしれない。しかし、しかしである。まさか孝行息子である秀忠がそんなことを考えるとは、半三には理解できなかった。だが、半三にはどうしても家康しか、秀忠が消したい男という者が浮かんではこなかった。

「案ずるな。父上ではない」

 半三の思考を察したのか、秀忠がその思考を制した。半三はあまりに大それた自らの思考に恥じ入り、目を伏せた。

 そんな半三に、秀忠は信康の遺児の話を静かに告げた。半三は驚愕しながらも、次第に冷静さを取り戻していった。信康の遺児とはいえ、相手は名も知られていない相手である。家康を殺すという考えよりは、はるかに気が楽に思えたからだ。

 秀忠はその上で、半三にまず信康の妻、見星院(徳姫)の身辺を探り、遺児を見つけ出すよう命じたのだった。


 だが、今もってなお半三の元には配下からの芳しい返事が返ってきてはいない。それらしい場所を特定したので、これから向かうという報告が入ったのが二日前。それ以降はまったくの音沙汰なしだった。これが秀忠の焦燥と、半三の脂汗の原因だった。

「今の服部忍群は、町人も殺せぬのか」

 秀忠の厭味が、半三の臓腑をえぐった。だが、半三にも状況がつかめていないため、あいまいな弁解しかできない。それならば、黙って耐えたほうがましだった。下手な言い訳は、秀忠の怒りに油を注ぐ効果しかないことを、半三自身肌で感じていたのである。


 だが、服部忍群自体も、今の事態に困惑していた。

 調査に向かった者のうち、一人だけが以前連絡も無く、行方知れずになっていた。その一人とは、もちろん楽兵衛である。考えられる事態は、ただ一つ。楽兵衛は標的を発見し(もしくはそう確信し)、暗殺を実行したが逆に返り討ちにあったという事態である。おおよそ考えられることではなかった。服部忍群の調べでは、相手は標的のほかに山伏が一人。二対一とはいえ、忍びが山伏二人にやられることなど、到底考えられることではなかった。

だが、事態は明確にその一点を示している。もしかすると楽兵衛が手負いとなり、戻ってくる可能性も無いとはいえなかったが、服部忍群にはそんな余裕は無かった。この任務には、服部忍群の興廃がかかっている。何としてでも迅速に成功させて見せなければならなかった。

「これ以上は待てぬな」

 頭の声はひどく沈んでいた。ことわっておくが、頭は別段楽兵衛の死を悲しんでいるわけではない。一人やられた。素人に服部忍群の精鋭が一人やられた。その事実を重く受け止めているだけである。それは恥以外の何物でもなかった。とても半三に報告できることではない。だが、問題は別にある。相手の情報があまりにも不足していることである。相手の住処と力量、地形など何一つ分かっていない。分かっているのは大体の居場所だけである。だが、やらねばならない。これ以上の遅延はもはや許されなかった。

「今夜だ。今夜けりをつける」

 頭の目が妖しく輝いていた。


 漆黒の闇だった。鞍馬山のうっそうと生い茂る木々たちが、星の光はおろか月の光さえ遮り、全てを闇へと変えている。

 その闇の中を、服部忍群は疾風のごとき速さで駆け上っていた。だが、音は無い。気配すらない。ただ時折吹く秋風が、木々を揺らす音と、虫の声がするばかりである。彼らの存在はただ一人を除いて、獣すら感じてはいまい。その一人とは、小天狗である。

(なかなかやる…)

 木の上からこれまた一切の気配を絶ち、続々と駆け上がって行く服部忍軍の数を数えながら、小天狗は素直にそう感じた。正直、この光景を見るまでは、小天狗は服部忍群を過小評価していた。楽兵衛の失態が、そう感じさせずにはいられなかったのである。

(向うもこちらを過小評価していたんだ…。まぁ、それもしょうがないか…)

 楽兵衛もまた、小天狗と竹残を過小評価し、失敗したのである。おそらく、当初は服部忍群全てが、過小評価していたに違いない。だが、楽兵衛が戻らないことで、その評価が一変した。忍びは多くの武士などとは比べられないほどの現実主義者である。その思考には、希望的観測などという言葉は、一切無い。ただ現実を受け止め、それに対する最善の対処をするのみである。

(あの男を殺したのは、失敗だったかな…)

 一抹の後悔を感じたが、小天狗も忍びに負けないほどの現実主義者である。彼もまた、大天狗と共に情報収集業という忍びに似た生業に携わってきた男である。その思考方法は、忍びのそれと酷似していた。彼の思考に、『もし』だとか『あの時』という思考もまた存在しない。ただ現実を受け止めるのみである。

 竹残暗殺に動員された忍びは、総勢十四名。小天狗は知らないが、これは竹残捜索に関与したほぼ全員だった。最悪の事態を考慮して、報告係として残された者が一人、そして死んだ楽兵衛。外れているのはその二人だけだった。装備も忍び独特の反りの無い直刀をはじめ、半弓が四人。遠目のため正確には分からないが、ほかにも吹き矢、手裏剣なども持ち合わせているだろう。さらに言えば、それらには全て痺れ薬などの毒が塗られているはずである。世人が聞けば、素人二人を殺すのにと嘲笑するかもしれない。だが、外聞を気にしているような余裕はなかった。服部忍群が竹残暗殺にかける意気込みが思い知れるというものである。

(連絡役に二人としても、六対一か…)

 忍びの力量からして、まともにこれに当たっては、竹残たちに勝ち目は無い。毒はもちろんのこと、忍びは一人が自ら刺されてでも相手の動きを封じ、もう一人がその仲間もろとも相手に止めを刺すといったような、凄惨ともいえる戦いぶりを見せる。大天狗と竹残は、かすり傷すら負うことなく、接近を許すことなく十二人を倒さなくてはならない。容易な事ではないことが想像できると思う。

 小天狗の予想通り、もうすぐ小屋に到着するというところで、連絡役として二人が残され、さらに二人が先行して先に小屋へと向かった。残る十人は散開して、今まで以上に慎重な足取りで先へと進んでいった。小屋を取り囲むように布陣するつもりなのである。

 連絡役として残された二人は、それぞれ距離をとって木の上へと上っていった。これは隠れるためというよりは、少しでも状況をつかもうと、視界を確保するためと思われる。

(さて、どう始末するかね…)

 小天狗は少し離れた木の上から、この状況を見ていた。当面の小天狗の役割は、この二人を始末することである。服部忍郡の追跡から逃れるためには、この十四人をひとり残らず始末しなければならない。それが竹残達三人に課せられた絶対条件である。その観点で見たとき、この二人の距離は絶妙な距離といえた。二人がかたまって同じ場所にいるのであれば、小天狗は半弓に矢を二本つがえ、二人同時に射抜くだけの力量を持っている。だが、二人は同時に射抜くには難しく、それでいてどちらかに異変が起これば即座に分かる程度の距離を保っている。そこが問題だった。小天狗が一人射抜いたときには、もう一人は即座に逃走にかかるだろう。彼らは最終的な連絡係であると共に、仲間が安心して任務に当たるための、後方の監視役という役目もかねている。無理に戦うことはけして無いだろう。相手に警戒心を持たせては、上で戦う大天狗達は、奇襲すら困難な状況に陥る恐れがある。それをさせないためには、気付かれること無く二人を始末しなければならない。

 だが、小天狗は二人にそれほど時間をかけるわけにもいかなかった。十四人を二人で相手をさせるわけにはいかない。できるだけ早く大天狗たちに合流しなければならない。

 意を決した小天狗は、即座に行動に出た。音も無く木から木へ飛び移り、右手の忍びに向けて接近を開始した。

 二本三本と次々と木を飛び越え、後一飛びで忍びのいる木というところまで迫った。まだ二人は気付いていない。到着したばかりということもあり、二人は前方に意識を集中させていたためである。もちろん小天狗の術の確かさもあってのことであるのは言うまでもない。

 小天狗は手馴れた手つきで背負った半弓を手に取ると、ついで二本の矢を取り出し、そのうちの一本を矢につがえた。全ての動作が滑らかであり、かつ無音だった。

 小天狗はゆっくりと息を吸うと、次の瞬間には忍びめがけて跳躍していた。だが、小天狗の半弓は前方の忍びではなく、もう一人の忍びを狙っていた。飛んだ直後には、すでに矢は忍びめがけて放たれていた。当たるのが当然とでも言うように、小天狗の視線はすでに前方の忍びに注がれている。さすがに前方の忍びは、矢の放つかすかな風切音を察したのか、後ろを確かめることなく跳躍の体勢に入っていた。だが、忍びは跳躍することなく、力なく地面に落ちた。小天狗が矢を直接、忍びの背に突き立てたのだった。そしてそれとほぼ同時に、もう一人の忍びも鈍い音を立てて木の下に落ちた。小天狗の矢は正確にその首筋を捉えていた。即死だった。

 小天狗は二人の死を確かめ、小さな安堵のため息をつくと、再び木に登り小屋を目指したのだった。


小屋は傾斜を掘削したのか、北側に二間ほどの高さの崖を背負った小さな平地に立っていた。南の視界は開けているが、当然ながら周囲は全て木で囲まれている。先行した二人の忍びは、小屋に到着すると、北側の崖を含めた周囲すべてを調べた後、音もなく屋根へと上った。もちろん当の忍び達自身、自分達を待ち伏せしたりする者はおろか、目撃者になるような者さえいるとは思ってはいない。だが、失敗が許されない以上、念には念を、である。

この時には既に、他の十人は小屋を取り囲むように布陣を終えている。二人の忍びは素早く屋根を破り、小屋の中に侵入した。だが、小屋の中には人の気配が全くと言っていいほど無かった。不審に思いながらも二人は天井裏を移動しながら人の気配を探った。さして広くも無い小屋である。すぐにこの小屋のどこにも人の気配が無いことが分かった。

(まさか既に逃げられたのでは…)

 二人の思念はすぐにそこに飛んだ。信康の遺児を引き取ったのは、流れ者の山伏であるという情報は、既に忍びの耳にも入っている。楽兵衛が何らかの形で、相手にその意図を知られたのであれば、十分に考えられる選択肢である。愕然とした。また一から居場所を突き止めることは容易ではない。秀忠から催促を受けた半三からの懇願とも取れる催促は、今日まで毎日のように届けられている。これ以上の遅延は、服部忍群の終焉と直結しているといってもいい。

 二人は天井から部屋に侵入し、手がかりになりそうなものを、それこそ目を皿にして探し回った。その痕跡はすぐに発見できた。囲炉裏である。囲炉裏はまだほのかに暖かい。掘り返してみると、まだ赤い炭さえある。つまりはつい今しがた迄、ここにいたことになる。

 だが、そうなってくると新たな疑問が浮かび上がってくる。なぜ逃げ出すのが今なのかという疑問である。楽兵衛が暗殺者であると気付いて逃げ出すのであれば、その直後でなければならない。だが、先述したとおり、すでに楽兵衛がここ鞍馬山に入ってから二日が経っている。暗殺を迅速に実行しなければならないことは、楽兵衛も十分承知していたはずである。楽兵衛が無為に日を過ごしていたわけがない。そう考えると、楽兵衛が殺されたのは遅くても昨日ということになる。つまりは山伏と標的がここを離れるとすれば、どんなに遅く見積もっても昨晩ということになる。

 では、服部忍群の行動を彼らが把握していたのであろうか。答えは否である。自分達の居場所を知っていない限り、それは不可能である。

 一瞬にしてそこまで思考してみたが、結局は分からない。二人はともかく一刻も早く頭に状況を報告し、その判断にゆだねることにした。

 二人から話を聞いた頭は眉ひとつ動かさず、即座に周囲の探索を命じた。頭と先行したうちの一人が小屋に残り、残る十人を二組に分けて、探索に当たらせた。命令を受けた忍び達は、一組はさらに山を登り、もう一組は山を下っていった。


 大天狗と竹残はその光景を、小屋の縁の下から見ていた。忍びに狙われているものが、よもや縁の下にいるとは思うまい。大天狗の考えが見事に的中した。竹残も初めての実戦にしては妙に落ち着いていて、大天狗を安心させた。

 当初、大天狗は忍びを待ちうけ、正面きって戦うつもりでいた。奇襲の効果もあるし、ここまでの人数を想定していなかったということもある。だが、何か得体の知れない胸騒ぎがした。別段忍びの接近に気付いたわけでもなく、ましてや人数を確認できたわけでもない。だが、どうも胸が騒ぐのである。大天狗はこういう自分の直感には素直に従うことにしている。この直感のおかげで、何度か命を拾ったことも実際にあった。その直感によって、急遽縁の下に隠れることに決めたのである。

 この変更は、大天狗たちにとって忍び達を分散させたこと以上の効果をもたらした。それは、頭と思われる人物がたった二人でこの場に残ったことである。ここでうまく頭を倒すことができれば、今後の戦いが非常に楽になる。指揮系統を失えば、忍びの働きも半減するからである。

 大天狗と竹残は、しばらく息を呑んで忍びの動きを見ていた。頭ともう一人の忍びはもう一度辺りを慎重に窺った後、小屋の中に入っていった。この小屋の戸は、どんなに慎重に開けようとも、音を発するようになっている。忍びの屋敷に多く見られる忍び破りの仕掛けの一種である。頭は音が出たことで訳もなく驚いたであろう。だが、そのお陰で大天狗と竹残は、忍びが小屋に入ったことを確認できたのである。

 大天狗と竹残はそれを確認すると、慎重に辺りを窺った後、小屋の屋根に飛び乗り、先の忍びが破った屋根から内部に侵入した。


 忍びの頭は小屋に入ってから、ずっと1つの事を考えていた。

―なぜ標的は今日になって逃げ出したのか―

 この一点である。考えれば考えるほど腑に落ちないことばかりである。今日の決行は、ここにいる十四人と、連絡役としてきた者が一人。半三にさえこの知らせは届いていないはずである。そして少なくともここにいる十四人に関して、相手に内通する事は断じてない。皆この仕事の重要さを十分承知しているし、ましてや相手に知らせて得をすることなど一つもないのである。

 頭が連絡役として残してきた男を除外したのには理由がある。その男は服部忍群の男ではなかった。半三が秀忠の依頼と称して、いわば目付け役のような形でつれてきた一介の兵法者だった。

 男の名は、柳生宗矩。

 柳生家の三男で、天正年間に没落した柳生家の再興のため、諸国を放浪していた男で、どう取り入ったのか関ヶ原以降、秀忠に急接近しているらしい。半三の頭に対する説明はその程度だった。柳生の里は伊賀に近く、その為兵法修行とは別に、忍びの術を会得しているものも数多くいるという事は、頭の知識の中にもある。だが、すでに服部忍群を擁する徳川家に、忍びの術で取り入ったとは考えにくい。他に何かあるのではとも考えたが、そんなことはすぐに放念していた。

 だが、こんな事態になっては、一番怪しいといえば、宗矩を置いて他にはいない。だが、宗矩を内通者として結び付ける事はできない。半三の話では、徳川家の外部に後継者候補がいたという事実を知ったのは、関ヶ原から数日後のことである。宗矩が秀忠に接近したのは、関ヶ原直後のことであるから、どう考えても時間的におかしい。

 そうやって全ての可能性を潰してゆくと、頭が行き着く先は一つしかなかった。

 この信康の遺児という話し自体が、服部忍群に引導を渡すでっち上げであり、その遂行者が柳生宗矩という考えである。そして柳生宗矩は、服部忍群の去った地位を引き継ぐ。

 頭の推測は、考えすぎが招いた間違い以外の何者でもなかったが、その考えは頭の思考の中で見る見る膨らみ、頭は恐慌をきたした。

 頭が皆に集合の笛を吹き鳴らすのと、大天狗が天井から舞い降りたのはほぼ同時だった。大天狗は降りざまに手にした刀を大上段から頭に斬りつけたが、頭は間一髪のところでこれをかわした。さすがは服部忍郡の頭を勤めるだけの事はあったが、それでも無傷ではすまなかった。頭の左腕からは血が滴っていた。頭は壁際まで一気に逃れた。これが罠だと考えている頭は、多対一の戦闘を想定して、背後を取られることを恐れたためである。

そこへ竹残が現れた。竹残は大天狗とほぼ同時に小屋の入り口で見張っている忍びの元に攻撃をかけたのである。入り口のほうから現れた竹残を見て、頭は仲間の死を悟った。これで二対一である。相手の手際から見て、頭が無事にここを逃げ出すことはほぼ不可能である。望みは、笛の音を聞きつけた仲間が到着することであるが、何度も言うが罠だとすれば仲間の助けを当てにすることはできない。ここは腕一本、いや両腕を失ってでも自力でこの場を切り抜けなければならない。二人の隙を窺おうと、二人を見ているうちに、頭は竹残の顔を見てはっとなった。

(若君に瓜二つではないか…)

 頭の言う若君とは、もちろん秀忠のことである。頭は今までの誤った思考を一蹴した。

(あの話は本当だったのだ。この男が標的に違いあるまい…)

 これが、罠でなければ相手はこの二人だけである。しかも肝心の標的も一飛びすれば手の届く位置にいる。たとえ自らが命を落とすようなことになろうとも、標的さえ倒してしまえば、服部家、しいては頭の一族郎党も安泰である。

 大天狗は、頭の顔つきが一変したことに、すぐに気付いた。最も何が頭の顔つきを一変させたのかは定かではない。だが、それまでどこか漂う悲壮感に似た気配が払拭されたことは確かだった。長引かせれば長引かせるほど、二人にとっては不利である。だが生半可な攻撃が通用しないことは、初手をかわされたことで明らかである。しかも相手はいわば追い詰められすぎている。追い詰められ、しかも自らの命を顧みない忍びの攻撃となると、むしろこちらのほうが分が悪いとさえ言えた。

 大天狗はあっさりと頭を倒すことをあきらめた。すばやく懐に手を入れると、電光石火の早業で棒手裏剣を一度に四本放った。よもやこんな攻撃で頭を倒せるなどとは、露ほども考えていない。頭が棒手裏剣をかわしている隙に逃げ出すつもりだった。

 案の定、頭は素早く身をかがめて棒手裏剣をかわした。

「逃げるぞ」

 竹残にそう言うなり、大天狗は脱兎のごとく逃げ出した。竹残も本の一瞬あっけにとられたが、すぐに後を追った。

 頭も走りながら腕の止血を済ませ、がけを駆け上がってゆく二人の影を見てにやりと笑った。山に登ったものと挟み撃ちにできる。そう踏んだのである。


 小天狗が小屋に戻る途中で、山を下ってゆく五人に出くわしたのは、幸運にも頭の忍びが集合の笛を吹く前だった。皆一様に焦りの色を見せ、わずかな気配がもれていたために、小天狗に感づかれたのである。

 忍びたちが山を下ってゆく理由を、大天狗たちの捜索のためだと、瞬時に理解した小天狗は、一旦忍びをやり過ごした後、背後から瞬時に三本の矢を放った。矢は二人の忍びの首筋に突き刺さり、一人は辛うじて肩で受けた。突然の攻撃に動揺した残る三人の忍びは、一斉に木の陰へと散り散りに飛んだ。一呼吸おいて、周囲を窺おうとした忍びの頬を四本目の矢が掠めた。三人の忍びたちは、今この時はじめて、自分達がとんでもない手練を相手にしていることを再認識したのだった。

 しばしの膠着状態が続いた後、静寂を打ち破るかのように、高い笛の音が山間にこだました。頭の発した集合の笛の音である。この場合の集合は、標的を発見した、もしくは殺害したことを意味する。だが、自分達が相手にしている者の力量を考えると、前者と考えるほうが妥当だった。となれば、自分達の果たす使命は一つしかない。全力でこの相手を足止めすることである。相手が二人である以上、一人を釘付けにしておけば、もう一人は一人で七人を相手にしなければならない。いくら相手が鬼神のような働きを見せようと、この人数差を埋めることはできまい。上の相手さえ倒してしまえば、今自分たちが相手をしている男を、前後から挟み撃ちにできる。

 この考えは、竹残たちが二人という思い込みから生じた過ちだったが、忍びたちがその過ちに気付くすべはなかった。


 一方、小屋の北側に向かった忍び達も、あまりの事態に困惑を隠せない様子だった。獣道を進んでいくばくも経たないうちに、一人の忍びが道に仕掛けられた稚拙な罠を見つけた。多少の注意さえ怠らなければ見つけられる位置に、藁を編んだ縄が横切り、その藁に触れると木の上に仕掛けられた半弓から矢が発射される仕組みになっていた。だが、その出来は忍びから見れば噴飯物であり、皆の失笑を誘っただけだった。先頭の忍びが殊更大げさにその縄をまたぎきった瞬間、それは起こった。前後左右、まさにあらゆる方向から矢が飛来し、忍びたちを襲った。この攻撃で先頭の忍びが三本の矢を体に受け即死。最後尾の忍びも背中に無数の矢を受け、針鼠のようになって即死。残った三人は急いで茂みに飛び込み、身を隠したが、そのうちの一人は飛び込んだ先に、先端が鋭利に尖らせた無数の木が剣山の様に突き立った罠にかかり、これまた命を落とした。まだ姿さえ捉えていない相手に、既に半数以上がやられてしまったのである。残った二人は慎重に周囲を警戒したが、この弓矢による攻撃も、相手の罠であることが判明した。

 だが、これで判明したことがある。相手が逃走したとすれば、罠を張り巡らせたこの方向であるということである。罠をかわしながらの追跡で、相手に追いつけるかどうかは不明だが、方向さえつかめれば痕跡を追い、追跡を続けることは容易である。

 連絡用の笛を吹こうとした時、頭の吹き鳴らした笛の音が響いた。これが忍びたちの困惑の原因だった。だが、忍びの世界において、頭の命令は絶対である。戸惑いながらも二人の忍びはもと来た道を戻り始めた、その時だった。

 疾風怒濤の勢いで、黒い影が忍びを襲った。大天狗と竹残なのは言うまでもない。背を向けた状態ならば、間違いなく二人の忍びは一刀両断にされていただろう。道を戻り始めていたことで、二人はかろうじて初撃をかわした。かわしたとは言っても、大天狗の太刀を忍び刀で受け止めた忍びは、そのあまりの衝撃によっておよそ二間も弾き飛ばされてしまった。さすがに見事な受身で昏倒することは無かったが、次の瞬間には眼前に大天狗が迫っており、なすすべも無く頭蓋を割られて果てた。

竹残の太刀を受けた忍びは、不思議な感覚に陥っていた。相手が斬りかかってきたにもかかわらず、受け止めた衝撃がほとんど無いのである。竹残の初撃は目くらましだったのである。忍びの刀をすべるように刀を這わせ横をすり抜けると、振り向きざまに同じように振り向こうとした忍びの心臓を正確に刺突した。

竹残はこの戦いにあたり、ひとつの決心をしていた。それは相手を確実に一撃でしとめることだった。竹残は本来戦いを、殺人を好むものではない。だが、それが避けられない状況の今、せめて相手の苦痛を短いものにしてやりたいと思ったのである。だが、それでもやはり心は痛んだ。竹残は笑みひとつ浮かべずに、能面のような顔でその場を後にした。


小天狗は次第に追い詰められていった。奇襲で一人やりそこなったことが今になってひびいていた。三人の忍びに囲まれて、今では防戦一方である。巧みに木の上を飛び、今のところはかすり傷一つ追ってはいないが、体力的、精神的に考えても、このままではいつかはやられる。そのことを、小天狗自身が一番承知していた。相手の得物は半弓、吹き矢、手裏剣であり、その何れにも毒が塗られている。かすり傷一つが命取りになる。

(死ぬかな…)

 ふとそう思った。だが、別段悲しみは無い。ただ現実を受け止めただけである。だが、ただでは死なない。一人でも多く道連れにして死ななくてはならない。小天狗は跳躍しながら、指先で矢の数を確認した。

 残り二本。あと懐の棒手裏剣が五本、それに忍び刀である。

(一人、いや二人までは確実にやれる)

 小天狗は意を決して、もう一度跳躍した後、木には着地せずそのまま落ちた。落ちながらも、半弓を引き絞っている。そして、地面に着地するかと思われたその刹那、小天狗は木の幹を蹴り上げて横に飛んだ。小天狗が着地すると思われた地点に矢が突き立つ。その矢が飛来した方向に向かって小天狗は矢を放った。隣の幹から、半弓と共に胸に矢を突き立てた忍びが落下した。

 小天狗の計算では、ここで他の忍びが放った手裏剣、乃至は吹き矢によって傷を蒙るはずだった。だが、その攻撃がこない。不思議に思っていると、別の幹から首と胴体に分かれた忍びが落下してきた。

 その忍びが最後に見たのは、まさしく天狗だった。小天狗に注意を引かれていたとはいえ、気付いたときには大きな影が間近に迫っていた。六尺五寸(約百九十五センチ)はあろうかという巨漢にもかかわらず、まさに羽が生えたかのように軽々とこちらに向かって、白刃を怪しく光らせながら舞って来るのである。忍びは声をあげる暇も、抵抗する暇も無く、胴と首が別れていた。

 もちろんその巨漢とは大天狗である。

ただ一人残った忍びも、大天狗の来襲に色めきたった。忍びはこの男が標的、すなわち竹残と思っている。つまりはこの男一人に、頭をはじめとする七人もの忍びが、成す術無く倒されたということになる。およそ考えられる事態ではなかったが、事実は雄弁にそのことを物語っている。忍びは標的(この場合は大天狗である)一人に絞り、刺し違えてでも使命を果たすか、ここは一旦逃げるか、その判断にほんの一瞬ではあるが迷った。

その躊躇が命取りとなった。先制攻撃の機会を失ったのである。

大天狗は既に忍びめがけて跳躍し、同時に棒手裏剣を忍びめがけて放っている。死を覚悟した忍びは、木の幹に寄りかかり、捨て身の体制で大天狗を待ち構えた。棒手裏剣を、少し体をひねって右胸で受け止め、吐血しながらも忍び刀を前に突き出した。だが、大天狗の跳躍力は、忍びの想像をはるかに超えていた。大天狗は待ち構える忍びの頭上を嘲笑うかのように飛び越え、通り過ぎていった。あっけにとられ、通り過ぎてゆく大天狗を呆然と目で追う忍びの胸に、小天狗の放った矢が突き立っていた。

「大勢任せて悪かったな」

 大天狗は別段悪びれた様子もなくそう言った。

「言葉と表情が違いますよ。上は片付いたんですか?竹残はどうしたんです?」

 小天狗は急き立てるようにそう聞いた。

「いや。大物が残っておる。竹残に任せてきた」

「えぇ?」

「竹残の運を試してみるのさ。この先も運がなければ生きては行けまい」

 驚きのあまり声も出ない小天狗に、大天狗は莞爾と笑った。

「あの子はわしらの子だ。何の心配も要らない。だろ?」

 不満そうにしている小天狗に背を向けて、大天狗は歩き始めた。

「小屋で待っていると伝えてある。行くぞ」

 小天狗は不承不承ながら、大天狗の後を追った。


 大天狗と別れてから、竹残は獣道を塞ぐような形で、頭の到着を待った。目は閉じている。目は暗闇でなお光るからである。

 竹残は自分と頭の力量を測ったとき、飛び道具では頭が、剣技では辛うじて自分が有利と踏んでいる。自分に有利な態勢に持ち込むには、頭を間近までおびき寄せなければならない。そのために気息を絶ち、目を閉じて待ちの姿勢を保っているのである。

 風に草木が揺れる音に混じって、僅かに人の気配が迫っていた。気配の主は当然頭である。頭は自分が追う立場にあり、山を登った五人と挟み撃ちできるという計算から、音を消す労を惜しんだのである。

竹残は依然目を閉じている。気配だけで相手との距離を測った。まだ遠い。次第に音が大きくなってくる。

 次の瞬間竹残は双眸をかっと見開き、頭めがけて必殺の一閃を振るった。

 驚いたのは頭である。暗闇の中で突然怪しく目が光ったかと思うと、キラリと閃光が走った。だが、頭も伊達に頭をやっているわけではない。竹残の一撃をほとんど反射的に刀で受け止めた。大天狗に斬られた傷口に激痛が走る。すぐに接近戦は不利と悟った頭は、すさまじい跳躍力で、後ろに一間半を飛んだ。

 だが着地した瞬間、頭は自分の眼前に、再び光る双眸を見た。それが頭が見た最後の一場面だった。竹残は頭の動きに即座に反応し、ほぼ同時に跳躍すると、着地の瞬間袈裟懸けに斬ったのである。頭は肩口から心臓の辺りまで斬られて絶命した。


 小天狗は焦れていた。大天狗が小天狗のところまで来る時間を合わせると、かなりの時間が経っている。竹残のことが心配でしょうがないのだ。

「助けに行くことはならぬぞ」

 大天狗は小天狗の心を見透かして、そう釘をさした。そういう大天狗も、心の中では不安が嵐のように渦巻いていた。だが、助けに行くわけにはいかない。ここで大天狗に助けられて命を拾おうとも、その代償として竹残は自信を失うことになる。もちろん自分の力量にあわない自信は禁物であるが、自信がないあまり自分を過少視しすぎていてもいけないのである。そうなればこの先何かの折に、命のやり取りとなったときに、勝てる道理がなかった。

 そうこうしているうちに、崖の上の茂みが揺れて、竹残が出てきた。二人を認めると、一目散に駆け寄ってきた。

「良かった。小天狗も無事だったんだね。本当に良かった」

 竹残は小天狗の手を掴んで、そう言った。

「どうやら一番心配されていたのは、お前らしいな」

 大天狗が意地の悪い笑みを浮かべながら言った。

「当たり前じゃないですか。大天狗様はほとんど竹残と一緒にいたんですから。それに私は一人で七人ですよ。心配ぐらいしてもらわないと割に合わないですよ」

 三人は声を上げて笑った。ようやく竹残の顔にも笑顔が戻ったのである。


 小屋が燃えていた。漆黒の闇に蛍のような火の粉が舞い上がってゆく。旅支度に身を包んだ三人は、そのさまをじっと見ていた。

三人は忍びの遺体を全て回収した後、十人の遺体と共に小屋に火をかけたのである。全員でないのは、遺体の数が忍びの数と一致しては、三人が逃げたことにすぐに気付かれてしまうからである。残る四人の遺体は土中深く埋めている。この広さでは探し出すことは不可能である。四人は行方不明とされ、やがては竹残と共に、捜索の及ばない場所で相打ちとなって果てたと考えられるだろうというのが、大天狗の計算である。

大天狗は視線を、焼け落ちてゆく小屋から竹残へと移した。竹残は小屋に向かって手を合わせたまま目をとじている。信頼はしていたものの、見事生き残れたものよという思いが、胸をよぎった。本当に初の実戦にしては、竹残の戦いようは実に見事だった。父である信康も武勇の人だったが、竹残はその血を確実に受け継いでいるのだと感じた。

「何をそんなに祈っている」

 大天狗が優しく声をかけた。竹残は静かに目を開けた。

「生きるためとはいえ、大勢の人を死に追いやってしまいました。この罪から逃れようとは思いませんが、せめて冥福を祈りたいと…」

 竹残の表情は悲痛そのものだった。その言葉に偽りはあるまい。大天狗は諭すような目で、竹残を見た。

「生きるために、獣は他の動物を、虫を、あらゆる生き物を殺して食べ、己が血肉とする。それと同じことだ。生きるためには已むを得まい。お前は掴んだ生を無駄にしないことだ」

 竹残はただ黙って、再び手を合わせた。大天狗もまた、黙って手を合わせた。小屋は崩れ落ち、さらに激しく火の粉が舞った。それはまるで成仏してゆく魂のようにも見えた。

「さあ、目指すは京だ」

 大天狗はぱっと眼を開けると、ことさら大声でそう叫んだ。

「旨い物でも食いましょうか」

 小天狗もおどけた調子でそれに習う。竹残も、そっと目を開け笑顔で頷いたのだった。


 その様を、離れた木の上からじっと見ている者がいた。

 柳生宗矩である。

その目は野望に輝いていた。


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― 新着の感想 ―
[一言]  初めまして。  信康の遺児で隠し子な設定が面白いと思いました。    まだ続きそうな終わり方でしたが、これはシリーズにされりんですか?だとさたら楽しみです。  因みに、柳生宗矩は大好きな…
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