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散華  作者: 天ヶ森雀
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「それは、叶わぬ恋でありんしたよ―」


   ◇   ◇   ◇


 開け放たれた腰高窓からは、払っても払っても桜の花びらがいつの間にやら舞い込んでくる。

 吉原には数百本の桜が植えられ、花に酔う客を手招きしている。

 同時に離れの座敷からは賑やかなお囃子や嬌声が響き、春の宵は祝宴真っ盛りだ。

「煩いでしょう。お閉め致しんしょう」

 袂を抑え、格子戸をずらそうとする白い手を、男の声が止めた。

「かまわねぇよ。桜なんてぱっと咲いて散ったら終いだ。この馬鹿騒ぎも両日中には終わるだろうよ」

 そう言って着流し姿で寝そべりながら、花びらが浮かんだ盃の中身をそれごと飲み干す。はだけた胸に雫が落ちた。あっさりとしたなりではあるが、その着物は絹だった。

「そうですか? それじゃぁ…」

 紅い長襦袢姿の女は、伸ばした手を引っこめて、夜風に唄や笑いが流れて来るに任せる。

 黒塗塀に囲まれた遊郭は、どんな夜も灯りが絶える事がない。賑やかな笛や三味線の音の隙間で、ひっそりと客と女郎が睦み合う。

 いつも一人でふらりと遊びに来る馴染みの客に、雲居太夫はしゃらんと三味線を掻き鳴らした。

 男は無口だった。

 酒も程々で乱れる事もなく、ただ暇を持て余した様に彼女を抱いては帰っていく。

 その男が、その夜に限っておかしな事を言い出したのは、やはり桜が惑わせたのだろうか。

「何か話してくれないか?」

「何か、とは」

「何でもいいよ。寝物語に姐さんの声を聞いていたいだけだ」

 太夫の声は高すぎず低すぎず、深みがあって艶っぽい。男はその声を気に入っていた。

「全く、やぶからぼうでありんすねぇ」

 ふふふと笑って、太夫は畳に散った花びらに目をやった。


   久方の 光のどけき春の日に しづこころなく 花の散るらむ


 …ああ、あれは誰の詠んだ歌だったろう。紀貫之…、いや友則だったか。

「そう、多少辛気臭い話になるやもしれませんが…昔聞いた話をひとつ」

 本当にあった事かどうかも分かりませんがねえ、と笑いながら、女は遠い目をして語り出した。



 その娘はおちかといった。

 幼い頃に親兄弟と死に別れ、とある商家に引き取られ、下働きをして暮らしていた。

 朝から晩までこまねずみの様に働かされ、けれど不平不満を言う事もなく、ニコニコと大人しい娘だった。

 そんな彼女が変わったのは数えで十六くらいの頃だったろうか。

 お使いに出た際、切れた下駄の鼻緒を、通りすがりの男にすげ替えてもらったのだと言う。

 彼女からその事を聞き出した、同じ下働きをの女が「いい男だったかい?」とニヤニヤしながら聞くと、おちかはうなじまで真っ赤に染めて俯いたのだった。


「奉公人ですからね、そんなに暇があるわけじゃあない。それなのに、その男とまた店の前でばったり。それからおちかは変わりました。内気でしたからね、たまの休みも女中部屋にこもって繕い物やなんかをしてたのが、いそいそ出歩く様になって。取り立てて美人と言う訳じゃあじゃなかったけど、それでも花が綻ぶ年頃ですよ。ぱぁっと笑顔になれば、それだけで場が華やぐってぇもんです」

 しゃらんと再び三味線を鳴らし、太夫は紅い目尻を下げて微笑んだ。

「男は浪人だと言ってました―」

 浪人とは言え、身なりはこざっぱりとして物腰も穏やかだ。三十路にはまだ遠いだろう。姿勢の良さと言葉使いに育ちの良さが窺える。笑うと目尻に皺が出来た。

 世間知らずの小娘の事だ。一緒に道を歩くだけでのぼせあがる。

 一目その姿を見ただけで、笑顔が満開になるまでには、あっという間だった。

 小さな文を交わしあい、人目を避けた船宿で逢瀬を重ねる様になったのは、男女の自然な流れだろう。

 しかし、おちかの幸せは長く続かなかった。

 奉公先の商家に、ある夜押し込みが入ったのである。

 幸い人死には出なかったが、金品や高価なものが盗まれた。

 盗賊は捕まらなかったが、詮議の結果、夜中に通用口を開けたのがおちかだと分かった。

 彼女は恋人が会いに来ると言われ、素直に心張りを外してしまったのだ。

 知らぬとは言え、盗賊の引き込みをさせられたおちかを、商家は許さなかった。

 真面目に働いていた娘ゆえお咎めはなかったものの、着のみ着のままで叩き出され、おちかは途方にくれた。

 そもそも、何がどうしてこうなったのか、見当もつかなかった。

(あの人が盗人…?  押し込みの為に私に近付いたの…?)

 頭では分かっても心はついて行かぬ。

 住むところも身寄りもないおちかが、苦界に身を沈めるのに、そう時間はかからなかった。



「…よくある話でございましょう? 世間知らずのおぼこい娘が、男に利用され、捨てられたんですよ」

 一抹の哀切を隠して忍び笑いながら、女は淡々と語り続ける。


 落ちるところまで落ちたと言うべきか。

 春をひさぎ、客をとる様になっても、おちかは愚痴をこぼす事なく仕事をこなした。無口さ故陰気な娘だと乱暴に扱う客もいたが、決して不平は漏らさなかった。

 女郎部屋の仲間が気味悪げに尋ねる。

「本当はあんたを裏切った男が憎いんだろう? いっそ恨み辛みをぶちまけちまえばいいじゃないか」

 訊かれても、おちかは困った様に笑うだけだった。

 確かに辛くないと言えば嘘になる。殴られるのは奉公先で慣れていたが、飯が食えない日が三日も続くと流石にきつい。

 橋の下で筵にくるまっていた時は、足の指先がかじかんで眠れなかった。

 しかし、脂臭い男の息や芋虫の様な身体をまさぐる指も、慣れてしまえば耐えられぬ事はなかった。

 何より辛いのは、会えない事だ。会いたくて会いたくてたまらない人に会えない事だった。

 あの人は今どこにいるんだろう。

 どこで何をしているんだろう。

 おちかの小さな胸に、身を捩る様な痛みが走る。

 その痛みはどこから来るものか、おちかは何度も考える。

「私ねぇ、あの人にもし会えたら…聞きたい事があるの」

 ぽつりと漏らしたおちかの言葉に、女郎衆は呆れたように笑った。

「そりゃあいっぱいあるだろうさ。恨みつらみも幾月歳、全部ぶちまけてやりゃあいいよ。…まぁ会えたらの話だけどね」

 女達はしゃらしゃらと明るい諦めの笑いをこぼす。

「そうよねぇ」

 おちかは相槌をうちながら、やはりひっそりと笑った。



 そんなある日、彼女を訪ねて一人の侍がやってきた。

 菅笠で顔を隠したその様は、身なりが良く目付きが鋭い。

 客の振りをしたその侍は、部屋に入ると着物の懐から金子の包みをおちかに差し出した。

「我が主よりこれを―」

 ぽかんと口を開け、言葉が出ないおちかに、侍は正座したまま話し出す。

「実は―」

 さる御方から頼まれた。

 その御方は国に帰れば役職につく高貴な身分であったが、とある陰謀に巻き込まれ、家宝の品を騙し取られた。

 その家宝はお殿様より直々に下賜されたものであり、何かあればお家断絶も免れない。その御方は陰謀を暴くと共に、奪われた品を奪還すべく、殿に願い出て単身探索の旅に出た。

 お前が勤めていた商家の主は、あのお方と同郷で、陰謀の主と繋がっていたのだ。

 彼のお方は隠密に事を運ぶ事が無理だと悟り、盗人を装って家宝を取り戻した。

「火急の知らせがあり、急ぎ国に戻られたのだが、長らくお前の事を気にしておった。これは僅かばかりだが詫びの印である」

 おちかはますます息を飲んでだまりこむ。

 陰謀? お殿様? お店の旦那様は悪いことに加担していたの? 確かに意地悪で冷たい方だったけど… 

 おちかの沈黙をどう受け取ったのか、侍は渋面を作って続けた。

「まことの名も国許もお前に明かす事は出来んが…元を正せば由緒正しきお家の方。離れてはいたが、国には妻子もいらっしゃる。ようやくご一緒に暮らす事が叶ったばかりじゃ。思うところもあろうが、あの方の事は一切忘れて―」

 言いながらぎょっとした。

 一言もなかったおちかの頬を、つぅっと涙が流れ落ちたのである。

「奥方様とお子様…?」

「そ、そうじゃ。だから―」

 諦めよ、と言う言葉は口の中であえなく溶けた。


 恨み言を言われるのは覚悟していた。泣き喚くかもしれない、とも思っていた。

 しかし、そのどちらでもなかった。

 一滴の涙を拭いもせず、おちかは澄み切った笑顔を見せて、こう言った。


「それじゃあ…あの方は今、お幸せなんですね?」



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