⑱非常識。
「この近くに、とてもいい温泉があるって聞いたんだけどな」
旅人は、ぴこりと首をかしげる。レオは、ほおを上気させて立ち上がった。
「ええ、すごくいい温泉ですよ。おれのばあちゃんも、今そこで湯治をしていて……母さんも世話しに行ってるんです。ここから、すぐの所です。案内しましょうか」
「いや。それでは、君に迷惑をかけてしまう。店番を頼まれたのを聞いていたよ?」
旅人は片手を上げて、レオを制する。
「女将さんもいないとなると、君ひとりきりじゃないか。……それに……そう、おれの仲間がもうすぐここに来ることになっているんだ。いっしょに行こうと計画していてね。よければ地図を……描いてもらえないかな。それをたどって行くから」
「はいっ! あ、ちょっと待っていてください」
本を閉じ、勢い込んで階段を駆け上がった。部屋に飛び込むと、すぐにジャスパーから贈られた冊子を引っつかむ。これだけの一品。きっと首都に住む旅人でも、見たことがないに違いない。さんざん迷ったあげく、レオは空色の色鉛筆を選び階段を下りて行った。
「お待たせしました」
レオの声に、旅人はわざわざいすから立ち上がる。満面の笑みを浮かべた横顔は、首都の博物館に収められている白磁の彫刻のように整って見えた。
丁寧に地図を描きながら、レオは何度も旅人の顔を見上げてみる。分かりやすいよう、街道を中心に建物を描いていく。道を外れて広々とした森を進み、観光地としても名高い温泉の村を指し示す。
「そうか。ゆっくり歩いても、昼前にはたどり着けそうだね」
感慨深げに、旅人は笑った。
「ところで、君にお客だよ?」
旅人は街道に面した宿屋の入り口を指し示す。レオは飛び上がるようにして、扉を振り仰いだ。初めに目に入ったのは、彼が首に巻いている淡い色合いの布だった。レオとさほど変わらぬ年ごろのようだが、この街では見ない顔だ。
厚手の上着に重ねて、さらに黒の外套を羽織っている。少年は寒そうに胸元を引き合わせると、きつい顔をレオに向けた。形の良い唇が、ゆっくりと動く。
「君は店番なのだろう。だとしたら、見ず知らずの人間を置いて奥に戻るなんて、非常識じゃないのか」
一方的にののしられたレオは、ぶつけられたことばの数々を頭の中で何度も反すうした。今夜の宿が入用なのだろうか、とまぶたをしばたたせる。
「無用心だ、と言っている」
少年はあごをしゃくって旅人を見やった。つられたレオもまた、旅人のほうに向き直る。傍らにたたずんでいた旅人が、見る見る顔を曇らせていった。
なんてことを言うんだ、とレオは小さく舌打ちする。
「見ず知らずなのは、おまえのほうじゃないか。何の用だよ」
どんな客だろうが頭を下げろ。養父のことばは頭の隅に押しやって、レオは真っ正面から少年を見返した。