①夜明け。
その日の夜も明けようかというころ、レオの耳は何かの物音を拾った。
はじめは、階下の音かとすぐに忘れてしまった。彼の生家は宿屋を兼ねた居酒屋を営んでいて、深夜まで喧騒が続くのが常だったのだ。
伸びをしてから目を伏せて、レオは開いた本の頁を繰った。物語の終焉まで、残りわずか。名残惜しそうに左手で残りの頁を撫ぜ、手製のしおりを挟み込む。長い長い主人公の冒険譚を見届けるのは、なにも今夜でなくともいい。
手近な本をいくつか引き寄せると、吟味するように眼前に並べた。どれらもすべて空色の覆いが掛けられている。レオのひとみと同じ色だ。
中のひとつを手に取って、首をかしげる。
「なんだこれ」
分厚い本に囲まれたそれは、やけに薄くひとつ身で立つこともできない。ぎらりとする光沢の紙には、空高く伸びた鉄塔群を遠景に、若い男女が立っていた。
「うまく描いてあるけど……なんか変だな。気味が悪い」
まるで景色をちりり、と切り取って貼り付けたかのようだ。男女の表情も豊かで、声をかければ返事をするのではないかと錯覚してしまうほど。そっと指で押し当ててみても、つるりとする以外になんの質感も感じられなかった。
「どうやったら描けるんだ? こんな絵」
紙を探して、ペンを握った。目だけをぎょろりと動かしてすぐにまねてみたが、お世辞にも良いとは言えない仕上がりになった。レオは、ゆったりとため息を取り落とす。
気を取り直すように窓の外を見やり、レオは耳元に手を押し当てた。何かが聞こえた気がしたのだ。
「なんだ、まだ帰らない客がいるのか。いつまで騒げば気が……すむ……」
習癖になった悪態を途中でやめ、レオは視線を宙に泳がせる。
――いや。
違う。
養父の足音はもう階段を上り、寝室へと消えたはず。ずいぶん前のことだ。母の上ずった笑い声も、とっくに聞こえなくなっていた。早い時間に眠りについてしまう妹のはずもない。
慎重にいすを引く。
足を踏み出す度、古ぼけた床は不満げに音を鳴らした。膝から滑り落ちた毛布をぐるぐると足元に丸め込み、つま先だけを床に残してレオは窓枠にしがみつく。
「裏路地のほうだろうか」
窓は、もともと開け放してあった。そこに覆いがないのは、洗濯から返ってきて、いまだ掛け直していないからだ。レオは空想する。ここに躍り上がるようにして現れる「だれか」がいたらいいのに。彼はきっと翼を持つ鳥のように、しなやかな体を躍動させた猛獣のように、レオの前で跳んでみせるだろう。
ランタンを引き寄せると、あまりのまばゆさに目がくらんだ。赤々とした光は、この冷たい夜にはふさわしくないように思える。明かりを求めて群がる羽虫を煩わしげに払い、レオはひとつ、ふたつ、まぶたをしばたたせた。