江戸のそば屋(読み切り)
朝、目覚まし時計が鳴った。
枕元に置いていたスマートフォンが、六時三十分を知らせている。
私は布団の中で手を伸ばし、画面を一度だけ見た。
「……六時半か」
起きなければならない。
そう思いながら、すぐには起き上がらなかった。
天井を見た。
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
昨日の夜に閉めたはずのカーテンの向こうには、いつもの住宅街がある。
電線。
向かいの家。
道路を走る車。
どこにでもある、日本の朝だ。
私は布団から出て、顔を洗い、歯を磨いた。
冷蔵庫から牛乳を出して、パンを焼く。
テレビをつけると、朝のニュースが流れていた。
今日の天気。
電車の遅延情報。
海外で起きた出来事。
私はそれらをぼんやり眺めながら、焼けたパンを口に入れた。
いつもの朝だった。
いつものように会社へ行き、いつものように仕事をする。
そして、夜になれば家に帰ってくる。
夕食を食べて、風呂に入り、布団に入る。
眠る。
――そうすると、私は江戸にいる。
このことを、私は誰にも話したことがない。
会社では、特に目立つ人間ではない。
仕事を頼まれればする。
会議があれば出る。
昼休みには同僚と適当な話をする。
「昨日のドラマ見た?」
「いや、見てないです」
「最近忙しいもんな」
「そうですね」
そんな会話をする。
それ以上でも、それ以下でもない。
昼休みが終われば仕事に戻り、定時を少し過ぎた頃に会社を出る。
駅まで歩く。
電車に乗る。
人の波に混ざる。
帰宅する。
今日も一日が終わった。
そう思う。
けれど、私の場合は、そこからもう一日が始まる。
その夜も、私はいつものように布団へ入った。
部屋の電気を消す。
スマートフォンを充電器につなぐ。
明日のアラームを確認する。
六時三十分。
それから目を閉じる。
眠るまでに、長い時間はかからなかった。
次に目を開けたとき。
私は畳の上に座っていた。
木の匂いがする。
まだ薄暗い。
障子の向こうから、朝の光が滲んでいる。
私はしばらく天井を見上げた。
それから起き上がる。
足元には、昨日の夜に脱いだ草履が置いてある。
部屋の隅には、そばを打つための道具。
水を張った桶。
小麦粉。
そば粉。
包丁。
そして、今日も使う大きな鍋。
私は腕をまくった。
「さて」
声に出してから、少しだけ欠伸をする。
「やるか」
私はそば屋なのだ。
ここでは、それが当たり前だった。
水を汲む。
粉を量る。
そば粉と小麦粉を合わせる。
指先で粉を混ぜていく。
水を少しずつ加える。
粉の感触が変わっていく。
さらさらしていたものが、少しずつまとまり始める。
私は黙って手を動かした。
外では、すでに人の気配がしている。
どこかで戸を開ける音がした。
遠くから、誰かの声が聞こえる。
朝の江戸は静かではない。
けれど、現代の朝とは違う。
車の音がない。
スマートフォンの通知音もない。
代わりに、人の足音がある。
木戸を開ける音がある。
どこかの家から聞こえてくる話し声がある。
私はそばを打ちながら、その音を聞いていた。
別に珍しいとは思わない。
ここで暮らし始めてから、もうずいぶんになる。
最初の頃は、目を覚ますたびに妙な感じがした。
なぜ江戸なのか。
なぜそば屋なのか。
なぜ私はこんな場所にいるのか。
いろいろ考えた。
けれど、考えても答えは出なかった。
だから途中から、考えるのをやめた。
朝になれば仕込みをする。
そばを打つ。
夜になれば屋台を出す。
売り終われば帰る。
そして、気づけば朝になる。
それでいい。
そばを切る。
包丁を一定の間隔で動かす。
細く、同じ幅で。
トン。
トン。
トン。
静かな部屋に音が響く。
切り終えたそばを並べる。
次に出汁を作る。
鍋に火を入れる。
湯気が上がる。
鰹の香りが、部屋いっぱいに広がっていく。
私は鍋を覗き込んだ。
「今日は少し濃いめにするか」
誰に言うでもなく呟いた。
今日は寒い。
夜になれば、温かいそばを食べたい客が多いだろう。
そういうことを考える。
それが楽しいのかと聞かれたら、私は少し考えるかもしれない。
楽しい。
たぶん、そうなのだと思う。
現代の会社では、仕事をしている。
ここでは、そば屋をしている。
どちらも同じように一日の仕事だ。
ただ、こちらでは自分で決めることが多い。
今日は何を仕込むか。
どれくらい作るか。
どの道を通って屋台を出すか。
誰に声をかけるか。
そんなことを考えているうちに、昼になる。
昼間の町を少し歩いた。
買い物をするためだ。
通りには人がいる。
商売をしている人。
荷物を運んでいる人。
子どもたち。
井戸の周りで話をしている人。
私はその間を歩いていく。
「そば屋さん、今日は夜出るのかい?」
後ろから声をかけられた。
振り返る。
近所の店の主人だった。
「出ますよ」
「じゃあ、帰りに寄るかな」
「ありがとうございます」
それだけの会話。
私はまた歩き出す。
そんな小さなやり取りが、私は嫌いではなかった。
夕方になる。
空が少しずつ暗くなっていく。
私は屋台の準備を始める。
鍋。
出汁。
そば。
薬味。
必要なものを確認していく。
最後に火を確認する。
準備が終わる。
屋台を引く。
車輪が道の上をゆっくり転がる。
カラ。
カラ。
小さな音がする。
江戸の夜が始まる。
夜になると、町の雰囲気が変わる。
昼間より人が少ない。
けれど、仕事を終えた人たちが歩いている。
私はいつもの場所へ向かった。
道の端に屋台を止める。
火を起こす。
鍋を置く。
湯が沸く。
最初の客が来るまで、私は黙って待っていた。
「一杯、もらえるか」
「はい」
私はそばを茹でる。
湯の中で麺が揺れる。
頃合いを見て上げる。
器に入れる。
出汁を注ぐ。
薬味を乗せる。
「どうぞ」
「おう」
客は器を受け取る。
湯気が顔にかかる。
箸を持つ。
そばをすする音がする。
「……うまい」
私は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
客は黙って食べ続ける。
私は次の客を待つ。
しばらくして、別の客が来る。
「冷たいのはあるか?」
「ありますよ」
「じゃあ、それを」
「はい」
夜はゆっくり進んでいく。
何人もの客が来た。
何人もの客が帰っていった。
中には毎晩来る顔もある。
「今日もやってるな」
「はい」
「最近寒くなった」
「そうですね」
「じゃあ、今日は温かいのを頼む」
「かしこまりました」
そんな会話をする。
名前を知らない客もいる。
名前を知っている客もいる。
けれど、私は誰の人生にも深く関わらない。
そばを出して。
代金を受け取って。
また次の客を待つ。
それだけだ。
夜が深くなる。
人通りが減ってくる。
私は残ったそばを確認する。
あと少し。
最後の客が帰った。
「ありがとうございました」
声をかける。
客の背中が夜道の向こうへ消えていく。
私は火を落とした。
屋台を片付ける。
鍋を洗う。
道具をまとめる。
そして、屋台を引いて家へ帰る。
夜道を一人で歩く。
静かだった。
遠くに灯りが見える。
風が少し冷たい。
私は屋台の取っ手を握りながら歩いた。
今日も終わった。
明日は何を仕込もう。
そば粉はまだある。
出汁も足りる。
薬味は少し買い足したほうがいいかもしれない。
そんなことを考える。
特別なことは何もない。
ただ、一日の仕事が終わっただけだ。
家へ着く。
屋台をしまう。
戸を閉める。
私は小さな部屋へ入った。
布団を敷く。
今日一日を思い返す。
客は多かった。
明日は少し早く仕込みを始めよう。
そう思って横になる。
目を閉じる。
そして――
「……朝か」
目を開けると、天井が違った。
白い天井。
カーテン。
枕元のスマートフォン。
六時三十分。
アラームが鳴っている。
私は布団の中でしばらく動かなかった。
身体は軽い。
昨日、ずっと立ってそばを茹でていたはずなのに、疲れていない。
私はスマートフォンを止める。
そして天井を見る。
今日は会社だ。
私は布団から出た。
顔を洗う。
歯を磨く。
パンを焼く。
テレビをつける。
いつもの朝だった。
会社へ向かうため、玄関を出る。
駅へ歩く。
人の波に混ざる。
電車の窓に映った自分の顔を見る。
スーツを着ている。
ネクタイを締めている。
どこから見ても、普通の会社員だ。
私は何も言わない。
昨夜、江戸の町でそばを売っていたことも。
夜道を屋台を引いて歩いたことも。
最後の客が残していった「うまかった」という言葉も。
誰にも話さない。
話す必要もないと思っている。
昼になれば会社員として昼食を食べる。
夕方になれば仕事を終える。
夜になれば家に帰る。
そしてまた眠る。
そうすれば、私は江戸へ帰る。
それが私の、もう一つの生活だった。




