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江戸のそば屋(読み切り)

作者: San
掲載日:2026/10/16

朝、目覚まし時計が鳴った。


 枕元に置いていたスマートフォンが、六時三十分を知らせている。


 私は布団の中で手を伸ばし、画面を一度だけ見た。


「……六時半か」


 起きなければならない。


 そう思いながら、すぐには起き上がらなかった。


 天井を見た。


 カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。


 昨日の夜に閉めたはずのカーテンの向こうには、いつもの住宅街がある。


 電線。


 向かいの家。


 道路を走る車。


 どこにでもある、日本の朝だ。


 私は布団から出て、顔を洗い、歯を磨いた。


 冷蔵庫から牛乳を出して、パンを焼く。


 テレビをつけると、朝のニュースが流れていた。


 今日の天気。


 電車の遅延情報。


 海外で起きた出来事。


 私はそれらをぼんやり眺めながら、焼けたパンを口に入れた。


 いつもの朝だった。


 いつものように会社へ行き、いつものように仕事をする。


 そして、夜になれば家に帰ってくる。


 夕食を食べて、風呂に入り、布団に入る。


 眠る。


 ――そうすると、私は江戸にいる。


 このことを、私は誰にも話したことがない。


 会社では、特に目立つ人間ではない。


 仕事を頼まれればする。


 会議があれば出る。


 昼休みには同僚と適当な話をする。


「昨日のドラマ見た?」


「いや、見てないです」


「最近忙しいもんな」


「そうですね」


 そんな会話をする。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 昼休みが終われば仕事に戻り、定時を少し過ぎた頃に会社を出る。


 駅まで歩く。


 電車に乗る。


 人の波に混ざる。


 帰宅する。


 今日も一日が終わった。


 そう思う。


 けれど、私の場合は、そこからもう一日が始まる。


 その夜も、私はいつものように布団へ入った。


 部屋の電気を消す。


 スマートフォンを充電器につなぐ。


 明日のアラームを確認する。


 六時三十分。


 それから目を閉じる。


 眠るまでに、長い時間はかからなかった。


 次に目を開けたとき。


 私は畳の上に座っていた。


 木の匂いがする。


 まだ薄暗い。


 障子の向こうから、朝の光が滲んでいる。


 私はしばらく天井を見上げた。


 それから起き上がる。


 足元には、昨日の夜に脱いだ草履が置いてある。


 部屋の隅には、そばを打つための道具。


 水を張った桶。


 小麦粉。


 そば粉。


 包丁。


 そして、今日も使う大きな鍋。


 私は腕をまくった。


「さて」


 声に出してから、少しだけ欠伸をする。


「やるか」


 私はそば屋なのだ。


 ここでは、それが当たり前だった。


 水を汲む。


 粉を量る。


 そば粉と小麦粉を合わせる。


 指先で粉を混ぜていく。


 水を少しずつ加える。


 粉の感触が変わっていく。


 さらさらしていたものが、少しずつまとまり始める。


 私は黙って手を動かした。


 外では、すでに人の気配がしている。


 どこかで戸を開ける音がした。


 遠くから、誰かの声が聞こえる。


 朝の江戸は静かではない。


 けれど、現代の朝とは違う。


 車の音がない。


 スマートフォンの通知音もない。


 代わりに、人の足音がある。


 木戸を開ける音がある。


 どこかの家から聞こえてくる話し声がある。


 私はそばを打ちながら、その音を聞いていた。


 別に珍しいとは思わない。


 ここで暮らし始めてから、もうずいぶんになる。


 最初の頃は、目を覚ますたびに妙な感じがした。


 なぜ江戸なのか。


 なぜそば屋なのか。


 なぜ私はこんな場所にいるのか。


 いろいろ考えた。


 けれど、考えても答えは出なかった。


 だから途中から、考えるのをやめた。


 朝になれば仕込みをする。


 そばを打つ。


 夜になれば屋台を出す。


 売り終われば帰る。


 そして、気づけば朝になる。


 それでいい。


 そばを切る。


 包丁を一定の間隔で動かす。


 細く、同じ幅で。


 トン。


 トン。


 トン。


 静かな部屋に音が響く。


 切り終えたそばを並べる。


 次に出汁を作る。


 鍋に火を入れる。


 湯気が上がる。


 鰹の香りが、部屋いっぱいに広がっていく。


 私は鍋を覗き込んだ。


「今日は少し濃いめにするか」


 誰に言うでもなく呟いた。


 今日は寒い。


 夜になれば、温かいそばを食べたい客が多いだろう。


 そういうことを考える。


 それが楽しいのかと聞かれたら、私は少し考えるかもしれない。


 楽しい。


 たぶん、そうなのだと思う。


 現代の会社では、仕事をしている。


 ここでは、そば屋をしている。


 どちらも同じように一日の仕事だ。


 ただ、こちらでは自分で決めることが多い。


 今日は何を仕込むか。


 どれくらい作るか。


 どの道を通って屋台を出すか。


 誰に声をかけるか。


 そんなことを考えているうちに、昼になる。


 昼間の町を少し歩いた。


 買い物をするためだ。


 通りには人がいる。


 商売をしている人。


 荷物を運んでいる人。


 子どもたち。


 井戸の周りで話をしている人。


 私はその間を歩いていく。


「そば屋さん、今日は夜出るのかい?」


 後ろから声をかけられた。


 振り返る。


 近所の店の主人だった。


「出ますよ」


「じゃあ、帰りに寄るかな」


「ありがとうございます」


 それだけの会話。


 私はまた歩き出す。


 そんな小さなやり取りが、私は嫌いではなかった。


 夕方になる。


 空が少しずつ暗くなっていく。


 私は屋台の準備を始める。


 鍋。


 出汁。


 そば。


 薬味。


 必要なものを確認していく。


 最後に火を確認する。


 準備が終わる。


 屋台を引く。


 車輪が道の上をゆっくり転がる。


 カラ。


 カラ。


 小さな音がする。


 江戸の夜が始まる。


 夜になると、町の雰囲気が変わる。


 昼間より人が少ない。


 けれど、仕事を終えた人たちが歩いている。


 私はいつもの場所へ向かった。


 道の端に屋台を止める。


 火を起こす。


 鍋を置く。


 湯が沸く。


 最初の客が来るまで、私は黙って待っていた。


「一杯、もらえるか」


「はい」


 私はそばを茹でる。


 湯の中で麺が揺れる。


 頃合いを見て上げる。


 器に入れる。


 出汁を注ぐ。


 薬味を乗せる。


「どうぞ」


「おう」


 客は器を受け取る。


 湯気が顔にかかる。


 箸を持つ。


 そばをすする音がする。


「……うまい」


 私は少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


 客は黙って食べ続ける。


 私は次の客を待つ。


 しばらくして、別の客が来る。


「冷たいのはあるか?」


「ありますよ」


「じゃあ、それを」


「はい」


 夜はゆっくり進んでいく。


 何人もの客が来た。


 何人もの客が帰っていった。


 中には毎晩来る顔もある。


「今日もやってるな」


「はい」


「最近寒くなった」


「そうですね」


「じゃあ、今日は温かいのを頼む」


「かしこまりました」


 そんな会話をする。


 名前を知らない客もいる。


 名前を知っている客もいる。


 けれど、私は誰の人生にも深く関わらない。


 そばを出して。


 代金を受け取って。


 また次の客を待つ。


 それだけだ。


 夜が深くなる。


 人通りが減ってくる。


 私は残ったそばを確認する。


 あと少し。


 最後の客が帰った。


「ありがとうございました」


 声をかける。


 客の背中が夜道の向こうへ消えていく。


 私は火を落とした。


 屋台を片付ける。


 鍋を洗う。


 道具をまとめる。


 そして、屋台を引いて家へ帰る。


 夜道を一人で歩く。


 静かだった。


 遠くに灯りが見える。


 風が少し冷たい。


 私は屋台の取っ手を握りながら歩いた。


 今日も終わった。


 明日は何を仕込もう。


 そば粉はまだある。


 出汁も足りる。


 薬味は少し買い足したほうがいいかもしれない。


 そんなことを考える。


 特別なことは何もない。


 ただ、一日の仕事が終わっただけだ。


 家へ着く。


 屋台をしまう。


 戸を閉める。


 私は小さな部屋へ入った。


 布団を敷く。


 今日一日を思い返す。


 客は多かった。


 明日は少し早く仕込みを始めよう。


 そう思って横になる。


 目を閉じる。


 そして――


「……朝か」


 目を開けると、天井が違った。


 白い天井。


 カーテン。


 枕元のスマートフォン。


 六時三十分。


 アラームが鳴っている。


 私は布団の中でしばらく動かなかった。


 身体は軽い。


 昨日、ずっと立ってそばを茹でていたはずなのに、疲れていない。


 私はスマートフォンを止める。


 そして天井を見る。


 今日は会社だ。


 私は布団から出た。


 顔を洗う。


 歯を磨く。


 パンを焼く。


 テレビをつける。


 いつもの朝だった。


 会社へ向かうため、玄関を出る。


 駅へ歩く。


 人の波に混ざる。


 電車の窓に映った自分の顔を見る。


 スーツを着ている。


 ネクタイを締めている。


 どこから見ても、普通の会社員だ。


 私は何も言わない。


 昨夜、江戸の町でそばを売っていたことも。


 夜道を屋台を引いて歩いたことも。


 最後の客が残していった「うまかった」という言葉も。


 誰にも話さない。


 話す必要もないと思っている。


 昼になれば会社員として昼食を食べる。


 夕方になれば仕事を終える。


 夜になれば家に帰る。


 そしてまた眠る。


 そうすれば、私は江戸へ帰る。


 それが私の、もう一つの生活だった。

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