家族のためにすべてを差し出した長女は、婚約者の手を取って家を出る
選んでいただきありがとうございます。
ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。
朝の台所は、まだ外の空気を引きずったまま冷えていて、石造りの床からじわじわと足先の熱を奪っていく。窓の外では市場へ向かう荷馬車の音が響いていたが、その時間にはもう、リディアは火を起こし、昨夜のうちに浸しておいた豆を鍋に移し、父の好む濃いめの茶を淹れ終えていなければならなかった。
寝不足の頭は鈍く重い。それでも手だけは迷わず動く。いつからこうだったのか、もう思い出せない。母が「お姉ちゃんなんだから」と言えばそういうものだと思い、父が「家のためだ」と言えばそうなのだろうと頷き、妹のエミリーが泣けば自分が折れるのが早いと知って、ずっとそうしてきた。
「パン、焦がさないでよ」
背後から不機嫌そうな声がして、振り返るより先に、リディアは皿を持ち直した。階段を降りてきたエミリーは、まだ寝巻きのまま髪も整えず、それでも人に見られれば愛らしいと褒められる顔で、大きくあくびをしている。
「今日は仕立て屋さんが来るんだから。ちゃんとしてって言ったでしょう」
「ごめん、今焼き直すわ」
「ごめんじゃなくてさぁ。ほんと、お姉様ってそういうところ鈍いよね」
悪意があるわけではない。たぶん本人には、本当にないのだろう。だから余計に、胸の奥に小さな棘のように残る。
エミリーは椅子に座るなり、当然のように紅茶を待ち、当然のように温かい朝食を口にする。学園の課題が多いだの、友人に新しい靴を見せたいだの、そのどれもが、この家では大事な悩みとして扱われた。
その学費を払うために、自分が学院を途中で辞めたことを、もう誰も口にしない。
父がようやく居間へ現れ、新聞を広げながら眉を寄せた。
「今月の家計が苦しい。リディア、お前の給金、来週ではなく今夜持って帰れないのか」
焼きたてのパンを運ぶ手が、わずかに止まった。
「今月は、職場で制服の補修代が引かれていて……少し足りないかもしれません」
「足りない?」
父は新聞を下ろし、低い声を出した。それだけで、子どもの頃から身体が勝手に強張る。
「家に住まわせてもらって、その言い方はないだろう。誰のおかげで働けていると思ってる」
「……すみません」
「ほらね、お父様。お姉様って昔からそう。自分のことばっかり」
笑いながら言うエミリーに、母まで困ったように肩をすくめた。
「長女なんだから、少しくらい我慢しなさいな。エミリーはまだ子どもなんだから」
もう二十一だ。自分と同じ年には、リディアは家計簿をつけ、夜まで働き、母の代わりに親戚へ頭を下げていた。
けれど、それを言葉にしたことはない。言ったところで、空気が悪くなるだけだと知っていたからだ。飲み込む方が早い。そうしてきた。
パンは少しだけ焦げていた。自分の分だけを皿の端に寄せて、リディアは黙って冷めた茶を飲んだ。
*
店を閉める頃には、空はすっかり群青に沈んでいた。
仕立て屋の帳簿を締め、針を片づけ、最後の戸締まりを終えたところで、店主の老婦人がため息まじりに言った。
「また手ぇ荒れてるじゃない。ちゃんと薬塗ってるの」
「平気です。慣れてますから」
「慣れるもんじゃないよ、そういうのは」
苦笑して答えようとしたところで、店の外に立つ人影が見えた。
ランタンの灯りの下でもわかる、整った立ち姿だった。濃い紺の外套を羽織り、長身を少しだけ壁にもたせて待っている。こちらに気づくと、アレンは静かに表情を和らげた。
「迎えに来た」
それだけで、胸の奥が少しだけ落ち着く。
「仕事、まだ残っていたのでは」
「終わらせた。君の方が遅い」
そう言って、彼は自然にリディアの荷物を受け取った。重くもない鞄なのに、断る隙もなく。
婚約者になって半年が経つ。けれど未だに、この人のこういうところに慣れない。
気づかれる。言われる前に。無理をしていることも、寒がっていることも、空腹であることも。
「今日は手袋をしていないんだな」
「朝、急いでいて」
「そうだろうと思った」
懐から新しいものを出されて、リディアは思わず立ち止まった。
柔らかな羊革の手袋。上等すぎる。
「こんなの、もらえません」
「だめ」
「でも」
「君は“なくても困らないもの”を全部後回しにする。だから、これは必要なものだ」
責める声ではない。ただ静かで、逃げ道がない。
受け取る指先が、妙にぎこちなくなる。
「……ありがとうございます」
言いながら、自分がひどく子どものように思えた。たかが手袋一つで、喉の奥がつかえるなんて。
アレンは何も言わず、歩幅だけを少し緩めた。
*
最初に異変を口にしたのは、彼だった。
「君の家は、君に甘えすぎている」
夕食の帰り、川沿いの石畳を歩きながら、あまりにまっすぐに言われて、リディアは返事ができなかった。
「そんなこと……」
「ある」
珍しく、言葉を遮られた。
「君は謝りすぎる。家の話をするときだけ、呼吸が浅くなる。給金日の前日は必ず眠れていない。偶然だと思うほど、私は鈍くない」
冷たい夜気の中で、頬だけが熱くなる。
見られていた。そんなつもりはなかったのに。
「家族ですから」
やっと出た言葉が、それだった。
「助け合うのは普通でしょう」
「助け合う、か」
アレンは少しだけ笑ったが、その目は笑っていなかった。
「片方だけが倒れるまで支えることを、普通とは言わない」
返せなかった。
自分でも、どこかでわかっていたのだ。けれど認めてしまえば、今までの全部があまりに惨めで、だから見ないふりをしていた。
「私は、大丈夫です」
口にした瞬間、それがどれほど薄い言葉か、自分が一番知っていた。
アレンは立ち止まり、しばらく何も言わなかった。風が橋の下を抜け、水音だけがやけに近い。
「君がそう言うたびに、私は腹が立つ」
低い声だった。
「大丈夫じゃない人間ほど、そう言う」
その声に責められているわけではないのに、涙が出そうになって、リディアは慌てて視線を逸らした。
*
決定打は、思っていたよりずっと軽い顔でやってきた。
日曜の午後、婚約の挨拶も兼ねてアレンが家を訪れた日だった。
母は珍しく機嫌よく、父は露骨に態度を改め、エミリーに至っては、見慣れないほど丁寧に髪を巻いていた。
嫌な予感はしていた。
けれど、それが気のせいであってほしかった。
「アレン様って、本当にお優しいんですね」
茶を注ぎながら、エミリーが柔らかく笑う。普段より半音高い声が、やけに耳についた。
「お姉様にはもったいないくらい。だって、お姉様って全然可愛げないでしょう?」
「エミリー」
思わず名を呼ぶと、妹はきょとんと首を傾げる。
「え? だって本当じゃない。私なら、もっとちゃんと甘えられるのに」
母が困ったように笑い、父は止めもしない。
空気が、ぬるく濁っていく。
リディアの指先が冷たくなる。恥ずかしいとか、怒りとか、そういうものより先に、ただ情けなさが押し寄せた。自分がずっと守ろうとしていたものの正体が、こんなにも薄っぺらい。
「そうかもしれませんね」
アレンの声がして、全員がそちらを向いた。
穏やかな口調だった。だからこそ、次の言葉がよく響いた。
「ですが私は、リディア以外に興味がありません」
笑顔のまま、温度だけが消えている。
「甘えるのが上手な方より、黙って無理をする人の方が、私は傍にいたくなります」
エミリーの表情が固まり、母が咳払いをした。
父だけが、気まずさを誤魔化すように笑った。
「いやいや、妹の冗談ですよ。リディアは昔から真面目でね、家のこともよくやってくれて――長女として当然ですが」
その瞬間だった。
何かが、ぷつりと切れた。
長女だから当然。
その言葉に、自分の人生がどれだけ雑に押し込められてきたのか、急に、はっきり見えてしまった。
学院を辞めたことも。給金袋をそのまま渡した夜も。熱を出しても起きて台所に立った朝も。欲しかった靴を諦めたことも。泣きたかった日のことも。
誰も、覚えていない。
当然だったから。
リディアは静かに立ち上がった。
「……もう、やめます」
自分の声が、自分のものではないみたいだった。
「家の支援も、お金も、家事も。全部」
母が目を見開き、父が椅子を鳴らして立ち上がる。
「何を馬鹿なことを」
「馬鹿なのは、私でした」
喉が震える。けれど、止まらなかった。
「ずっと、家族だからって思っていました。でも違った。便利だっただけです」
「お姉様、何それ」
「あなたも」
初めて、妹の目をまっすぐ見た。
「少しは、自分で立って」
エミリーの顔が、みるみる歪む。泣き出す子どもの顔だった。
けれどもう、それを可哀想だとは思えなかった。
アレンが静かに立ち上がり、リディアの隣に来た。
「行こう」
その一言に、ようやく足が動いた。
引き止める声が後ろで響いていた。母の泣き声も、父の怒鳴り声も、エミリーの甲高い否定も。
けれど振り返らなかった。
一度でも振り返れば、たぶんまた戻ってしまう。
だから、アレンの差し出した手だけを見て、それを取った。初めて、自分から。
*
三日で、家は崩れ始めた。
洗濯物は溜まり、食卓には焦げた鍋が並び、父は職場に持っていく書類をなくし、母は頭痛を訴え、エミリーは泣きながら友人との約束を断った。
「どうして私が朝からこんなことしなきゃいけないの!」
皿を割る音がした。
「お姉様がやってたじゃない!」
「そのお姉様がいないからでしょう!」
母の声も荒い。
「少しは自分で考えなさい!」
「何それ、私のせい!? お母様だって何もできてないじゃない!」
父は苛立ったまま財布を探し、ようやく気づく。今まで家計がどう回っていたのか、自分が何も知らなかったことに。
リディアの給金がなければ、今月の支払いが足りない。
リディアがいなければ、誰も空気を整えない。
当然のようにそこにあったものが消えて、初めて、その重さを知る。
だが気づくことと、取り戻せることは別だった。
*
新しい部屋は小さかったが、静かだった。
朝、誰にも急かされずに目を覚ますことが、こんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。
何かしなければ、と身体が勝手に起き上がろうとして、それをアレンの腕がゆるく止める。
「まだ早い」
「でも、朝食を」
「今日は私が作る」
「そんな」
「そんな、じゃない」
眠たげな声で言われて、リディアは布団の中で固まった。
こうして大事にされるたび、自分の置き場所がわからなくなる。返せるものがない。与えられることに、慣れていない。
「……どうして、そこまで」
小さく尋ねると、アレンは少しだけ考えるように黙って、それから額にかかる髪をそっと払った。
「好きな人には、ちゃんと生きていてほしい」
あまりにも静かな言い方だった。
だからこそ、胸の奥に深く沈んだ。
「君はすぐ、自分を後回しにするから。見ていないと心配になる」
涙が出そうになって、リディアは顔を隠した。
こんなことで泣くなんて、みっともない。
けれど、もう少しだけ。
もう少しだけ、この温かさに甘えてもいいのかもしれないと、初めて思った。
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