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家族のためにすべてを差し出した長女は、婚約者の手を取って家を出る

作者: 浅葱きしろ
掲載日:2026/04/24

選んでいただきありがとうございます。

ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。

 朝の台所は、まだ外の空気を引きずったまま冷えていて、石造りの床からじわじわと足先の熱を奪っていく。窓の外では市場へ向かう荷馬車の音が響いていたが、その時間にはもう、リディアは火を起こし、昨夜のうちに浸しておいた豆を鍋に移し、父の好む濃いめの茶を淹れ終えていなければならなかった。


 寝不足の頭は鈍く重い。それでも手だけは迷わず動く。いつからこうだったのか、もう思い出せない。母が「お姉ちゃんなんだから」と言えばそういうものだと思い、父が「家のためだ」と言えばそうなのだろうと頷き、妹のエミリーが泣けば自分が折れるのが早いと知って、ずっとそうしてきた。


「パン、焦がさないでよ」


 背後から不機嫌そうな声がして、振り返るより先に、リディアは皿を持ち直した。階段を降りてきたエミリーは、まだ寝巻きのまま髪も整えず、それでも人に見られれば愛らしいと褒められる顔で、大きくあくびをしている。


「今日は仕立て屋さんが来るんだから。ちゃんとしてって言ったでしょう」


「ごめん、今焼き直すわ」


「ごめんじゃなくてさぁ。ほんと、お姉様ってそういうところ鈍いよね」


 悪意があるわけではない。たぶん本人には、本当にないのだろう。だから余計に、胸の奥に小さな棘のように残る。


 エミリーは椅子に座るなり、当然のように紅茶を待ち、当然のように温かい朝食を口にする。学園の課題が多いだの、友人に新しい靴を見せたいだの、そのどれもが、この家では大事な悩みとして扱われた。


 その学費を払うために、自分が学院を途中で辞めたことを、もう誰も口にしない。


 父がようやく居間へ現れ、新聞を広げながら眉を寄せた。


「今月の家計が苦しい。リディア、お前の給金、来週ではなく今夜持って帰れないのか」


 焼きたてのパンを運ぶ手が、わずかに止まった。


「今月は、職場で制服の補修代が引かれていて……少し足りないかもしれません」


「足りない?」


 父は新聞を下ろし、低い声を出した。それだけで、子どもの頃から身体が勝手に強張る。


「家に住まわせてもらって、その言い方はないだろう。誰のおかげで働けていると思ってる」


「……すみません」


「ほらね、お父様。お姉様って昔からそう。自分のことばっかり」


 笑いながら言うエミリーに、母まで困ったように肩をすくめた。


「長女なんだから、少しくらい我慢しなさいな。エミリーはまだ子どもなんだから」


 もう二十一だ。自分と同じ年には、リディアは家計簿をつけ、夜まで働き、母の代わりに親戚へ頭を下げていた。


 けれど、それを言葉にしたことはない。言ったところで、空気が悪くなるだけだと知っていたからだ。飲み込む方が早い。そうしてきた。


 パンは少しだけ焦げていた。自分の分だけを皿の端に寄せて、リディアは黙って冷めた茶を飲んだ。


     *


 店を閉める頃には、空はすっかり群青に沈んでいた。


 仕立て屋の帳簿を締め、針を片づけ、最後の戸締まりを終えたところで、店主の老婦人がため息まじりに言った。


「また手ぇ荒れてるじゃない。ちゃんと薬塗ってるの」


「平気です。慣れてますから」


「慣れるもんじゃないよ、そういうのは」


 苦笑して答えようとしたところで、店の外に立つ人影が見えた。


 ランタンの灯りの下でもわかる、整った立ち姿だった。濃い紺の外套を羽織り、長身を少しだけ壁にもたせて待っている。こちらに気づくと、アレンは静かに表情を和らげた。


「迎えに来た」


 それだけで、胸の奥が少しだけ落ち着く。


「仕事、まだ残っていたのでは」


「終わらせた。君の方が遅い」


 そう言って、彼は自然にリディアの荷物を受け取った。重くもない鞄なのに、断る隙もなく。


 婚約者になって半年が経つ。けれど未だに、この人のこういうところに慣れない。


 気づかれる。言われる前に。無理をしていることも、寒がっていることも、空腹であることも。


「今日は手袋をしていないんだな」


「朝、急いでいて」


「そうだろうと思った」


 懐から新しいものを出されて、リディアは思わず立ち止まった。


 柔らかな羊革の手袋。上等すぎる。


「こんなの、もらえません」


「だめ」


「でも」


「君は“なくても困らないもの”を全部後回しにする。だから、これは必要なものだ」


 責める声ではない。ただ静かで、逃げ道がない。


 受け取る指先が、妙にぎこちなくなる。


「……ありがとうございます」


 言いながら、自分がひどく子どものように思えた。たかが手袋一つで、喉の奥がつかえるなんて。


 アレンは何も言わず、歩幅だけを少し緩めた。


     *


 最初に異変を口にしたのは、彼だった。


「君の家は、君に甘えすぎている」


 夕食の帰り、川沿いの石畳を歩きながら、あまりにまっすぐに言われて、リディアは返事ができなかった。


「そんなこと……」


「ある」


 珍しく、言葉を遮られた。


「君は謝りすぎる。家の話をするときだけ、呼吸が浅くなる。給金日の前日は必ず眠れていない。偶然だと思うほど、私は鈍くない」


 冷たい夜気の中で、頬だけが熱くなる。


 見られていた。そんなつもりはなかったのに。


「家族ですから」


 やっと出た言葉が、それだった。


「助け合うのは普通でしょう」


「助け合う、か」


 アレンは少しだけ笑ったが、その目は笑っていなかった。


「片方だけが倒れるまで支えることを、普通とは言わない」


 返せなかった。


 自分でも、どこかでわかっていたのだ。けれど認めてしまえば、今までの全部があまりに惨めで、だから見ないふりをしていた。


「私は、大丈夫です」


 口にした瞬間、それがどれほど薄い言葉か、自分が一番知っていた。


 アレンは立ち止まり、しばらく何も言わなかった。風が橋の下を抜け、水音だけがやけに近い。


「君がそう言うたびに、私は腹が立つ」


 低い声だった。


「大丈夫じゃない人間ほど、そう言う」


 その声に責められているわけではないのに、涙が出そうになって、リディアは慌てて視線を逸らした。


     *


 決定打は、思っていたよりずっと軽い顔でやってきた。


 日曜の午後、婚約の挨拶も兼ねてアレンが家を訪れた日だった。


 母は珍しく機嫌よく、父は露骨に態度を改め、エミリーに至っては、見慣れないほど丁寧に髪を巻いていた。


 嫌な予感はしていた。


 けれど、それが気のせいであってほしかった。


「アレン様って、本当にお優しいんですね」


 茶を注ぎながら、エミリーが柔らかく笑う。普段より半音高い声が、やけに耳についた。


「お姉様にはもったいないくらい。だって、お姉様って全然可愛げないでしょう?」


「エミリー」


 思わず名を呼ぶと、妹はきょとんと首を傾げる。


「え? だって本当じゃない。私なら、もっとちゃんと甘えられるのに」


 母が困ったように笑い、父は止めもしない。


 空気が、ぬるく濁っていく。


 リディアの指先が冷たくなる。恥ずかしいとか、怒りとか、そういうものより先に、ただ情けなさが押し寄せた。自分がずっと守ろうとしていたものの正体が、こんなにも薄っぺらい。


「そうかもしれませんね」


 アレンの声がして、全員がそちらを向いた。


 穏やかな口調だった。だからこそ、次の言葉がよく響いた。


「ですが私は、リディア以外に興味がありません」


 笑顔のまま、温度だけが消えている。


「甘えるのが上手な方より、黙って無理をする人の方が、私は傍にいたくなります」


 エミリーの表情が固まり、母が咳払いをした。


 父だけが、気まずさを誤魔化すように笑った。


「いやいや、妹の冗談ですよ。リディアは昔から真面目でね、家のこともよくやってくれて――長女として当然ですが」


 その瞬間だった。


 何かが、ぷつりと切れた。


 長女だから当然。


 その言葉に、自分の人生がどれだけ雑に押し込められてきたのか、急に、はっきり見えてしまった。


 学院を辞めたことも。給金袋をそのまま渡した夜も。熱を出しても起きて台所に立った朝も。欲しかった靴を諦めたことも。泣きたかった日のことも。


 誰も、覚えていない。


 当然だったから。


 リディアは静かに立ち上がった。


「……もう、やめます」


 自分の声が、自分のものではないみたいだった。


「家の支援も、お金も、家事も。全部」


 母が目を見開き、父が椅子を鳴らして立ち上がる。


「何を馬鹿なことを」


「馬鹿なのは、私でした」


 喉が震える。けれど、止まらなかった。


「ずっと、家族だからって思っていました。でも違った。便利だっただけです」


「お姉様、何それ」


「あなたも」


 初めて、妹の目をまっすぐ見た。


「少しは、自分で立って」


 エミリーの顔が、みるみる歪む。泣き出す子どもの顔だった。


 けれどもう、それを可哀想だとは思えなかった。


 アレンが静かに立ち上がり、リディアの隣に来た。


「行こう」


 その一言に、ようやく足が動いた。


 引き止める声が後ろで響いていた。母の泣き声も、父の怒鳴り声も、エミリーの甲高い否定も。


 けれど振り返らなかった。


 一度でも振り返れば、たぶんまた戻ってしまう。


 だから、アレンの差し出した手だけを見て、それを取った。初めて、自分から。


     *


 三日で、家は崩れ始めた。


 洗濯物は溜まり、食卓には焦げた鍋が並び、父は職場に持っていく書類をなくし、母は頭痛を訴え、エミリーは泣きながら友人との約束を断った。


「どうして私が朝からこんなことしなきゃいけないの!」


 皿を割る音がした。


「お姉様がやってたじゃない!」


「そのお姉様がいないからでしょう!」


 母の声も荒い。


「少しは自分で考えなさい!」


「何それ、私のせい!? お母様だって何もできてないじゃない!」


 父は苛立ったまま財布を探し、ようやく気づく。今まで家計がどう回っていたのか、自分が何も知らなかったことに。


 リディアの給金がなければ、今月の支払いが足りない。


 リディアがいなければ、誰も空気を整えない。


 当然のようにそこにあったものが消えて、初めて、その重さを知る。


 だが気づくことと、取り戻せることは別だった。


     *


 新しい部屋は小さかったが、静かだった。


 朝、誰にも急かされずに目を覚ますことが、こんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。


 何かしなければ、と身体が勝手に起き上がろうとして、それをアレンの腕がゆるく止める。


「まだ早い」


「でも、朝食を」


「今日は私が作る」


「そんな」


「そんな、じゃない」


 眠たげな声で言われて、リディアは布団の中で固まった。


 こうして大事にされるたび、自分の置き場所がわからなくなる。返せるものがない。与えられることに、慣れていない。


「……どうして、そこまで」


 小さく尋ねると、アレンは少しだけ考えるように黙って、それから額にかかる髪をそっと払った。


「好きな人には、ちゃんと生きていてほしい」


 あまりにも静かな言い方だった。


 だからこそ、胸の奥に深く沈んだ。


「君はすぐ、自分を後回しにするから。見ていないと心配になる」


 涙が出そうになって、リディアは顔を隠した。


 こんなことで泣くなんて、みっともない。


 けれど、もう少しだけ。


 もう少しだけ、この温かさに甘えてもいいのかもしれないと、初めて思った。


少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけたなら嬉しいです。


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ここまで読んでくださったことに、改めて感謝を。

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― 新着の感想 ―
妄想だけど何代か前は貴族の没落貴族の家系なんじゃないかなー。人を使うことは当たり前だけど、嫡女を大事にする矜持もない中途半端さとか。
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