第91話 それでも残るもの
帰宅して、僕らはそれぞれの家のドアの前に立つ。
おじいちゃん、おばあちゃんに囲まれて立つ彼女の「またね」を、死刑宣告みたいな思いで聞いた。
もう、会えないんだろうな。
僕はわざと彼女を見ないように、その背後の二人に軽く会釈してからドアを潜った。
靴を脱いで、灯りのついているリビングへ急ぐ。
ママが夕飯の支度をしていた。
「おかえり……ちゃんと、お別れできた?」
自分の手元に集中していたママが、言ってから僕を振り返る。
僕はそれには答えずに、スマホを貸して欲しいとだけ伝えた。
「……ちょっと、調べたいことがあるんだ」
ママはもうすぐ夕飯だから、手短にと添えて、ロック画面を解除したスマホを僕に手渡した。
リビングのソファに座って、僕は検索エンジンに「わたらいさん」だった彼女の新しい苗字と、新しい町の名前を入れてみた。
「まだ、漢字では書けないんだけど」と、彼女ははにかんでいた。
僕らは、小学生だ。
「わたらいさん」ではなくなる、そのありふれた名前の響きは、検索エンジンを通してさらに輪郭を失っていく。
数えきれないほどの同姓同名がヒットした。
どんな漢字を書くのか見当もつかない、ちょっとおかしな町の名前さえも、彼女の輪郭を縁取ることはできそうになかった。
スマホの画面にひとつ、ふたつと水滴が落ちた。
肩が震えて、喉がひくひくして、うまく呼吸ができない。
もう一度、名前を打ち込もうとして、やめた。
スマホの画面ごと電源を落とす。
それでも、スマホは握りしめたまま離すことができなかった。
もう会えないなんて、生やさしいものではなくて――彼女から手を離したあの瞬間ばかりが浮かんでは消えた。
「そろそろ、ご飯にしない?」
ママが、僕の背中に声をかけてきた。
「昨日の残りのカレーだけど……今日はお惣菜のチキンカツがあるからカツカレー……」
ふいに僕の顔を覗き込んできたママが、ギョッとした。
「やだ、泣いてるの!?」
僕は、画面を濡らした水滴を、慌ててTシャツの裾で拭った。
「大丈夫、壊してないから……ほら……」
スマホを返そうとした腕をすり抜けて、ママの体が、真正面から僕にぶつかる。
ママの腕が、僕の背中でクロスして、捕食するように、僕の肩をそれぞれ掴んだ。
それが、ぎこちなくも精一杯の抱擁だと気づいた頃には、ママの体の方が先に、離れようとしていた。
「あっ、ごめんなさい……つい……」
僕は、咄嗟にママの服を掴んだ。
そのまま、ママのお腹の辺りに顔を埋めて、声を上げて泣いた。
「わたらいさんは……僕のこと、忘れちゃうんだ……」
なんとなく、泣いている理由を言わなければならない気がして、それだけ呟いた。
「手紙を書くって言ってくれたけど……僕、わたらいさんの住所、分かんないし……」
僕がしゃくり上げると、ママは戸惑ったような顔をしながらも、ぎこちなく頭を撫でてくれた。
「あんたが知らなくても……恵ちゃんはここの住所を知っているでしょ?おんなじアパートなんだから。だから、あんたはお言葉に甘えて、手紙を待てばいいのよ」
「でも……っ」
――彼女は、あの時、僕の手を離したんだよ。
「きっと、忘れて欲しいのかも……新しい友達が、できるだろうし……」
何言ってるのよ、とママは笑った。
「きっと書いてくれるわよ。あんたのお友達なんだから。あんたが、一番よく分かってるんでしょう?」
ママが慈愛に満ちた目で、僕の目をまっすぐに見つめた。
それから、急に何か思い出したみたいに、真剣な顔になる。
「ちょっと待ってて」
ママは僕を残して、その場を離れた。
しばらくして、ママは、例のスクラップ帳を持って戻ってきた。
ハッと息を飲み、身体をこわばらせた僕に、ママは「違うの。そうじゃなくて、見せたいものがあるのよ」と慌てて言った。
「ほら、恵ちゃんのご祖父母さまに、お菓子いただいたでしょう?あの時、なんていうか……つい癖で……アレルギー表示とか、製造元とか……そういう情報を、取っておいたの」
ママが、菓子折りの包装紙の裏に貼ってあった、製造元のシールを差し出してくれた。
「ちょっと調べてみたらね……かなり限定された地域でしか購入できない、地元の逸品って感じだったの」
ママが、恥ずかしそうに笑う。
ママは、何かを言おうとするみたいに口を開けてから、一度閉じた。
もじもじと、らしくない動きの後に、ママが思い切ったように吐き出す。
「行ってみる?次の夏休みに、その町に」
思いもよらない誘いに、僕は言葉も出なかった。
「恵ちゃんに会えなくても……いい町だったら、少しは……こう……ほら、安心、できるでしょう?」
僕は、涙でぐしゃぐしゃの顔で何度も頷いた。
ママが、ほっとしたように笑う。
「あんたの言った通りかもね……あんな物がなくても、お兄ちゃんはあんたを助けてくれるって」
ママは、もう一度、僕をぎこちなく抱きしめた。
「ごめん……服、汚しちゃう……」
僕がママの腕の中で呻くと、一瞬ギョッとして体を離した。
それから、ふっと笑う。
「いいのよ」
慰めるように、背中をポンポンと叩いた。
「無理にとは言わないけど、ご飯食べられそう?」
ママが、探るように聞いてくる。
僕は頷いた。
「食べたい」
僕は、鼻を啜りながら食卓についた。
向かい側には、ママが座っている。
ふたりで囲む食卓の灯りが、ママの作った温かい料理の湯気で、よじれて見えた。
ー終ー
◇◇◇◇◇
関係が壊れていても、共に過ごさなければならない人。
関係が壊れていなくても、離れなくてはいけない人。
それでも腹は減る、人は食べ、生活は続く。
これは、それだけの物語でした。
ここまで読んでくださった全ての人に心から感謝を申し上げます。




