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第90話 仲良し

 車体が傾き、抗いようのない重力に身を任せていたほんの数秒間。


 僕の心臓は、恐怖ではなく、かつてないほどの歓喜に震えていた。


 このまま窓を突き破り、向こう側の緑の深淵へ、彼女と一緒に。


 ずっと、一緒に。


 転がり落ちていける。


 そうすれば、僕を「颯」として見始めたママも、彼女から名前を奪おうとする社会も、すべてが僕たちに追いつけなくなる。


 斜面を滑落しながら砕けて、擦り剥けて、やがて彼女と溶け合い、あの一塊の煮干しのような無機質な永遠になれる。

 


 やっぱり、わたらいさんは僕の光だった。



 僕は、これを救いと信じた。



 僕の体重で、わたらいさんがドアへ押し付けられていく。



 けれど、そのまま窓を突き破ることはなかった。



 ガタン、と鈍い衝撃が一つあっただけ。




 対向車が通り抜けるとすぐに水平に戻った車体は、あまりにもあっけなく、僕を彼女とは反対側の座席へと叩きつけた。


「……抜けたか」

 おじいちゃんが短く吐き出した。


 サイドミラー越しに、対向車が砂埃を上げて去っていくのが見えた。


「……ふう。いやあ〜……危なかった。ばあさん、今の見たか? 全く、肝が冷えたよ」


 ハンドルを操作するおじいちゃんの、晴れやかな安堵の声。

 死を回避して、笑みすら溢れている。


 そんな和やかな空気すら、今の僕にとっては残酷な宣告だった。



 死ななかった。

 呪いは発動せず、僕たちは心中し損ねた。



 密着していた彼女の体温が、みるみる遠ざかっていく。


 同時に、僕の腕からするりと抜けていった彼女の指先の――その意味を考え始めていた。


「怖かったね」

 わたらいさんも、恐怖を回避して、もはや笑うしかないようなヤケクソな笑みを浮かべた。


 離れた手が再び繋がれることはなく、今はもう、彼女の乱れた前髪を整えるために使われている。


 それが終わると、何事もなかったかのように彼女の膝の上に戻った。

 

 僕は、空っぽになった自分の手のひらを、じっと見つめる。



 成就しかけた一瞬の夢の残骸が、手のひらの熱としてだけ、惨めに残っていた。



「怪我はないか?それじゃあ、今度こそ安全運転で行くからね」


 僕たちを乗せた自動車は、元の車線へと復帰し、何事もなかったかのように、僕たちを運び始めていた。




 窓の外を流れる景色が変わる。


 ガタガタと跳ね上げるような砂利道の振動から、滑らかなアスファルトの静寂に変わった。


 わたらいさんはずっと窓の外を見ている。


 それは、僕から目を逸らすようでもあり、何か別のものを見ているようでもあった。


「ねぇ、ぺこ」

 ふいに、彼女に名前を呼ばれる。


「……なに?」


「いま、ちょっとだけ、幸せかもって思った」


 彼女の視線は、窓の外に向けられたままだった。


「だけど……ちょっとだけじゃ、ダメなんだよ」


 彼女はそう言って、僕の方を振り返る。

 そして、笑った。あの、貼り付けたみたい笑みで。


 僕は、反射的に彼女の顔から目を逸らし、呟いた。

「……なんかさ、楽しかったね」


 返事はなかったけど、彼女は静かに僕に抱きついた。


 僕の腰に回された細い腕に、ぎゅっと力がこもっていた。


「ありがとう」

 その声が、小さく震えていた。

「……ぺこに、手紙を書くからね」


 彼女がさらに密着するように、頭を僕の肩に乗せた。


 僕は、ぴくりとも動けない。


「私たち、嫌なところも、恥ずかしいところも、全部知ってる」


 彼女の頭が乗せられた、僕の肩口が湿っていく。

 車内のエアコンで冷やされて、そこだけつめたい。


「だから、ずっと仲良しだよね?」


「……うん、仲良し」

 僕の声が掠れる。

 それ以上は、音にならなかった。




「……着くわね。もうすぐ」

 助手席で、おばあちゃんが柔らかい声を出す。


 彼女は答えない。

 僕も、何も言えなかった。


 アスファルトの上を滑る車は、あまりにも静かで、ただ、前へ前へ進み続けていた。


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