第89話 スプリット
帰りの後部座席で、彼女は僕の左肩に頭をもたれてうとうとしている。
わたらいさんの祖父の運転する自動車の中で、僕はぼんやりと車内を見ていた。
これは彼女の人生で、僕は先にこの車を降りていく。
運転席にはおじいちゃん、助手席にはおばあちゃん。
そして後部座席で、彼女がいつまでも安心して、ただ揺られていられたらいい。
四人乗りの軽自動車は、釣り堀から町へ出るまでの舗装されていない道を通ると、ガタガタ揺れた。
「ごめんね、ちょっと……道が悪いな」
おじいちゃんが、ルームミラー越しに後部座席を見た。
「なるべく安全運転で行くけれど……しばらくは砂利道が続くようだ。こればかりはどうしようもない」
揺れに身を任せ、彼女が僕にしがみつくと、ちょっとくすぐったかった。
助手席のおばあちゃんが、後部座席を振り返る。
「ふたりとも、もしも気分が悪くなったりしたら、すぐに教えてね」
わたらいさんが、「うん」と短く答えた。
「魚釣り、したかったんだ」 ガタガタ道を揺られている最中、わたらいさんが、寝言みたいにぽつりと言った。
「前にね、ママとパパと、ここに行こうって言ってた。でも、結局……行けなかった」
「うん。ちゃんと……覚えているよ」
僕が答えると、彼女は僕の腕に自分の腕を絡めてから恋人繋ぎにした。
二度と解けなければいいのに。
彼女の溶けてくっつけるあの呪いの力で、君のパパとママがそうなったみたいに。
「ありゃ、対向車だ……参ったな。こんな狭い山道で……」
おじいちゃんが、焦ったような声を出す。
ねえ、離れたくないって言って。
言わなくてもいいから、強く強く願って。
「……どうするんです?」
おばあちゃんも不安げな声を出す。
「さっき……バスの停留所になっていた広い場所があった」
おじいちゃんがため息を吐き、目視で後方を確認する。
「そこまでバックで……少し戻るしかないか」
僕はそれでも構わないから。
ずっと一緒にいたい。
まだ、間に合うんだよ。
ガタガタの山道を、車がゆっくり後退し始めた。
バックする車体が大きく揺れる。
タイヤが砂利を噛み、小石を弾く音が、やけに鮮明に車内に響いた。
「もう少し……左だな」
視界の隅で捉えていたおじいちゃんのハンドルを握る手が、心なしか震えて見えた。
僕たちの車は、ガードレールのない山道の隅にじりじりと追い詰められていく。
窓のすぐ外は、深い緑が口を開ける急斜面だ。
揺れている。
緑が、綺麗だ。
対向車の大型SUVが、フロントガラスから見えた。
苛立ったようにエンジンを吹かして、僕たちを急かしている。
高らかに、二度、三度と、対向車のクラクションが鳴った。
「おいおい、ちょっと待ってくれ……あんまり年寄りを虐めんでくれよ……」
おじいちゃんが、必死にハンドルを操作する。
車体がさらに左へ寄り、ふわりと一瞬、浮き上がるような感覚があった。
「ああ……っ!」
おばあちゃんが、ほとんど息を呑むように低く短く叫ぶ。
いいよ。
このまま、滑り落ちたっていい。
そうすれば、君は「わたらいさん」のまま、僕は「ぺこ」のまま、どこへも行かずに済む。
その瞬間、わたらいさんの指を、僕の手に食い込むほど強く、強く握りしめていた。
よじれの尻尾みたいに。
君のパパとママみたいに。
いつか見た背中合わせの小鳥や、一塊の煮干しみたいに。
祈るように。
二度と解けない呪いが、今この瞬間に、僕たちの間にだけ発動することを願って。
対向車が、無理にやってくる。
「待ってくれ……まだ寄せ切れていない……」
おじいちゃんの悲痛な声が漏れるけれど、対向車は止まらない。
ガリ、という不快な金属音とサイドミラーが折り畳まれる音が車体を伝わって響いた。
車体が大きく傾き、僕たちは重力に逆らえず、斜面側のドアへと倒れ込む。
上にいた僕の体は、座席に沈み込むわたらいさんを押し潰すように重なった。
密着した胸の鼓動や、彼女の体温が痛いくらいに伝わってくる。
逃げ場のない、完全な密着。
それなのに。
彼女の右手を引きちぎるような力で繋いでいた僕の指先から、ふっと彼女の力が抜けた。
僕の体の下で、絡み合っていたはずの彼女の腕だけが、するりと蛇のように解けていく。
密着しているのに、遠い。
死の気配が、冷たい風のように、僕たちの間を通り抜けた。
いつも読んでいただきありがとうございます。
そろそろ完結です。




