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第88話 魚

 釣り竿がぴくりと動いた。

 わたらいさんがそれを察して、何も言わずにそっと引きあげる。


 水面がぱしゃりと弾け、銀色の身体が跳ねた。

 太陽の光を浴びたニジマスは、その名の通り虹みたいな光を纏う。


「……釣れた」


 誰にともなく、わたらいさんが言う。

 まるで、どこか遠くに報告するような声だった。


 釣り針を外そうとしたのに、喉の奥深くまで飲み込んでいて外せない。


 ニジマスがもがく。

 尾びれが空を叩く。


 困り果てていたら、スタッフのお兄さんがやってきて、慣れた手つきで外してくれた。


 水を張ったバケツに魚を移すと、透明だった水にゆっくりと赤色がにじんでいく。


 僕らは、それを黙って見ていた。




「次は、ぺこの番だよ」

 わたらいさんが、握っていた釣り竿を僕に差し出した。


 釣り竿は一本だけでいいと受付で言われた。

二人で交代して使って構わないと。


 手渡された竿は、思っていたよりもずっと長くて、拍子抜けするほど軽かった。


 彼女の指先が触れた場所だけが、じっとりと湿っている。


 それが汗なのか、それとも魚が跳ね上げた水なのか、僕にはわからなかった。


 垂れた糸を手繰り寄せ、わたらいさんが針に練り餌をつけてくれた。


 それを水面に放り込むと、魚影も見えないほどに光を反射する釣り堀に音もなく沈んだ。


「……ねえ、ぺこ。魚も、痛いのかな」

 わたらいさんが、バケツを覗き込んで呟く。


 赤くにじんだ水の中で、ニジマスは口をぱくぱくさせている。


「……わからないよ。でも、苦しそうに見えたね」

 僕は答える。


 浮きは、まだ動かない。

 風もないのに、水面だけが細かく揺れている。


 この時間が、永遠に続けばいいのにと思う。 胸の奥深くに、ずっと何かが引っかかったままだとしても。


「ぺこは……ママとふたりきりで、大丈夫なの?」

 ふいに彼女が、釣り竿を握る僕の手にそっと触れた。

「本当は、苦しいんじゃないの?」


 揺れている。水の中にいるみたいに。

 それはそうか。

 人間の身体のほとんどは、水で出来ている。


「私ね、パパとママが離れて暮らすことになった時……本当はどっちにもいらないって言われてたの」


 わたらいさんの手が、僕の手を伝って肩まで上がってくる。

 僕は動かない。


「でも、おじいちゃんとおばあちゃんは……パパとママのことを考えると複雑だけど……それでも、私と暮らすのが楽しみだって言ってくれた……」


 視界が揺れる。水の中にいるみたいに。

 涙が落ちないように、目を閉じて上を向く。

 わたらいさんの手が、僕の頬まで上がっていた。


「ぺこが辛いなら、私、おじいちゃんとおばあちゃんに話してみるから……ぺこも、一緒に暮らそうって」


 そんなことは無理だって、聡明なわたらいさんには、誰よりも分かっているだろうに。


 僕は微笑む。

 微笑んだ僕の口角を、彼女の親指が撫でる。


 そっか。おじいちゃんたちは選んでくれたんだね、君のこと。


 飲み込んでしまった釣り針を、僕はさらに深くまで飲み込む。


「僕は、大丈夫だから」

 どうしても、声が震えてしまう。


 この期に及んで、僕のことを心配してくれている優しいわたらいさんから、もうこれ以上何も奪いたくなかった。


 浮きが揺れて、引き上げる。

 魚が釣れて、すんなり外れた針を残して、僕の魚が赤い水に飛び込んだ。


「……わたらいさんの魚の方が大きいね」

 僕がぎこちなく微笑んでも、彼女は不安そうな表情を崩さなかった。


「本当に、大丈夫だから」

 一緒に紅茶を飲んだことを思い出す。

「僕はママと、これから仲良くなるって決めたから」



 釣った魚を焼いてもらうために、釣り竿を返却し、魚の入ったバケツを手渡す。


 加工賃や料金は、魚の重量で決まるという。


 提示された料金内訳に納得した上で、先に支払いをする。僕が全額出させてもらった。


 僕たちの魚が、調理スタッフの年配女性に引き継がれる。女性は木製の麺棒のようなものを取り出した。


「それじゃ、これで締めていきますねー」


 無造作に胴体を掴まれたニジマスの頭部に、麺棒が振り下ろされる。


 ボッという鈍い音がして、胴体を掴む女性の手に抗うように、尾びれが叩きつけられた。


 きゅうう、とニジマスが鳴くような音が漏れ、それきりぐったりと動かなくなった。


 僕らは、黙ってそれを見ていた。

 わたらいさんが、僕の手を握る。

 ほとんど魚の生臭い匂いなのに、少しだけ、血のにおいが混ざる。


 僕は思わず、目を逸らした。

 逸らした視線の先にいたわたらいさんは、最期までちゃんと見ていた。

 そのまま、動かなくなった魚の体を、ただ静かに見下ろしていた。


「……死んじゃったね」

 わたらいさんがぽつりと呟いた。


 さっきまで命だったのに、今はもう、食材だ。


「うん……ちゃんと、いただきますしようね」

 僕も答えたけれど、その声が誰に届いたのかはわからない。


 腹が裂かれ、内臓が抜かれ、塩が振られ、やがて魚は炭火の上に置かれた。

  滴る脂で煙が昇り、皮がじゅわじゅわと――蝉の鳴き声みたいな音を立てる。

 その匂いだけで、胃がきしむほど空腹を覚える。


 ふいに、わたらいさんのお腹が小さく鳴った。


 反射的に僕は、そちらに視線を向ける。

 それでも、彼女はあいかわらず無言で、ただ焼けるのを待っていた。

 僕も、言葉を失っていた。 なんとなく、「美味しそう」なんて、軽はずみに言っちゃいけない気がした。


 やがて、焼き上がった魚が皿に載せられる。

 殴打されたのに頭の形は綺麗なまま、目が白く濁ったそれは、僕らに釣り上げられて、力強く跳ねていた姿とはまるで違った。


 座敷に案内されて、向かい合わせに座る。


 「いただきます」

 手を合わせて、目を閉じた。


 わたらいさんは黙って割り箸を取り、丁寧に身をほぐしはじめた。


「ニジマスって、はじめて食べる……」

 それだけ言って、彼女はひとくち口に運んだ。


 僕も、箸を取った。 ほぐしたばかりのふわふわした身は、口に入れると、舌の上で崩れるようだった。

 程よい塩気と、脂と、少しだけの肝の苦味と、香ばしい炭の香り。


 こんなに、ちゃんとしたごはんを食べるのは、久しぶりだった。


「美味しいね」

 わたらいさんが、今日一番の笑顔を浮かべる。


 そのうち、箸でちまちまつまむのがもどかしくなったのか、気づけば、頭と尻尾を両手で持って、骨までしゃぶるように食べていた。


「ふふ、本当に美味しいね。釣り堀の魚、全部食べちゃいたいね」

 わたらいさんが、恥ずかしそうに頬を染めた。

 僕も真似するように、手掴みで最後の最後まで、残さず口に運んだ。


 皿には、割り箸と骨しか残らなかった。

 わたらいさんが「ご馳走様」と、小さくつぶやいた。


「……美味しかった。ありがとう。本当に、ありがとう」


 それが、誰かへの言葉だったのか、僕には分からなかった。

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