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第86話 直葬

 自分の自転車を道の端に寄せてスタンドを立てると、わたらいさんが放り出した自転車も同じように立てた。


 そうしていないと、二台ともどこか遠くへ転げ落ちていってしまいそうな気がした。


 それから、ようやく僕は堤防の草原を駆け降りた。


 彼女は、もう川の淵に立っている。


 足場が悪い。

 湿っぽい土質のせいか、それとも僕の焦りのせいか。生い茂る草に足を絡め取られるような気がした。


 転ばないように、注意して足元を見る。


 そこには、点々と痕跡が続いていた。


 小型の動物の足跡みたいに、互い違いに並ぶ歪な丸。


 それはただの足跡ではなく、地面を焼き切り、草を溶かしながら、土と焦げが無理やり癒着して固まったような不気味な跡だった。


 一度、その足跡が大きく途絶えた。


 代わりに、少し外れたところに、太った三日月みたいな――同じように焦げて溶けて固まった跡を見つける。


 瀕死の小型動物が、一度そこで力尽きて、横倒しになったんだ。


 熱い体を引きずって、それでもまた起き上がり、この川を目指して歩き出した。


 そんな、命を削りながら引かれたような道が、わたらいさんの足元まで伸びている。


 真実に近づくほどに、川の音だけがやけに大きく聞こえた。




 川辺の、水のすぐ近くに立ち尽くすわたらいさんに追いついて、隣に並ぶ。


 痕跡は、そこで途絶えていた。


 もしかしたら、川の中に……?


 そう思った僕はいても立ってもいられなくなり、川に飛び込むためにおもむろにTシャツをたくし上げた。


 川は、比較的穏やかで浅い。流される心配は無さそうだった。


「待って!」

 わたらいさんが、Tシャツを脱いだ僕の裸の腕を掴んだ。


 僕は上裸のまま、彼女を見つめる。


 真夏の堤防にいるはずなのに。剥き出しの僕の腕を掴む彼女の指は、驚くほど冷たかった。


「……いいの」

 わたらいさんは、川を見たまま呟いた。

「……いいの、ぺこ。分かってた、本当は。……そんな気がしてたの」


 わたらいさんは、川の向こう岸を見つめたまま、独り言のように続けた。


「昔、近所で火事があった後にね、どうしても水が見たくて……私、ここに来たの」


 彼女の視線の先で、川面がきらきらと光っている。


「家も、パパもママも、全部熱かった。空も、自分の体の中も、何もかもが焼けてて、焦げた匂いとか、助けを求める人の声とか……全部焼きついたみたいに、消えなくて。


私、あの時、ちょっとおかしかったのかもしれない。


すごい大雨の日だった。あの火事の日に降っていたらねって、話してる大人の声を覚えてるくらいに。


それで……増水してる、危ないって分かってたのに、気づいたらここに立ってた」


 彼女の指に、ぐっと力がこもる。

 僕の腕の皮膚が、白く引き絞られた。


「そしたら、あそこにいたの。草むらの中に、一匹だけ。……あの日も、あの子の歩いた焦げ跡があった。尻尾を焼いちゃって、それでも一生懸命、水を求めてここまで這ってきたんだって分かった」


 わたらいさんは、一度だけ短く息を吐いた。


「あの子もきっと、私と同じなんだって思った。熱くて、痛くて、誰も助けてくれなくて……。だから、私が守らなきゃいけない。この子だけは、絶対に火から遠いところに連れて行かなきゃいけないんだって」


 それが、彼女があの黒猫に「よじれ」という名を与え、守り続けてきた理由なのだろう。


 傷ついた猫に、彼女が何を重ねてきたのか。

 僕は、今なら分かる気がした。


「あの子……きっと、最期にまた、ここに来たんだね。……熱いのが、もう嫌だったんだよ」


 わたらいさんは、ゆっくりと僕の腕を離した。

 力の抜けたその手が、そのまましゃがみ込んだ彼女の膝へと落ちていく。


「パパもママも昨日、死んじゃった。病院から、電話があったの」




 彼女の突然の告白に、僕は言葉を失う。


「えっ、行かなくて、いいの?」

 僕が何とかそれだけ喉から搾り出すと、わたらいさんは力なく首を横に振った。


「直葬って、いうんだって。遺体の状態が良くないから……火葬場ですぐ焼いちゃう」


 その言葉が、僕の喉元に冷たい刃を突きつけた。


「お別れも、言えなかった……」


 彼女の声が、顔を俯かせたままの肩が、わずかに震え始めた。


「……ねえ、ぺこ」

 わたらいさんが、潤んだ目で僕を見つめる。

「よじれの尻尾……まだ痛いかな」


 いない。いないんだよ。

 もう、どこにも。


 その事実が、僕の膝からも力を奪っていた。

 そのまま崩れるようにして、僕も川辺に座り込む。


「よじれ……」

 わたらいさんが、すがるようにその名前を呼ぶ。

「ふふ、もう、いない子の名前なのに……ね」


 水面に反射する朝日が、彼女の濡れた頬を、残酷なほど鮮やかに照らし出した。


「ぺこ……」

 彼女は、今度は僕の名前を呼び始めた。

「ぺこ、魚釣りの約束、忘れてないよね?」


「覚えてるよ」

 僕は答えた。

 でも、どう考えても、今はそれどころじゃない。


「私、おじいちゃんとおばあちゃんと暮らすことになるって、話したよね?」


 僕は、黙って頷く。


「ぺこには、ちゃんとお別れ言いたくて。……でも、もう、時間がない」


 僕は、彼女の顔を見つめる。

「わたらいさん……」


 わたらいさんも、僕の顔を見つめた。

「私、『わたらいさん』でもなくなっちゃうんだよ」


 彼女が祖父母の元へ行く。

 その本当の意味が、今、初めて僕を打ちのめした。


「おじいちゃんたちの苗字で暮らすから……ぺこが呼んでくれた名前も、無くなっちゃうんだよ」


 わたらいさんが、僕の裸の胸に縋って、子供のように泣きじゃくる。


「おじいちゃんも、おばあちゃんも大好きだし……ちゃんと覚悟してたのに……」


 わたらいさんの腕が、僕の首に絡みつく。


「もう、ぺこに呼んでもらえないの……嫌だ……っ」


 シャツ一枚隔てないその震えが、僕の心臓を、逃げられないほど強く締め付けていた。

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