第84話 同じ風
翌朝。早朝のアパート前は、まだ人の気配が薄かった。
駐輪場の屋根に朝日が差して、淡い影がコンクリートに落ちている。
僕は、昨日ママに返してもらったばかりの鍵をそっと差し込む。
鍵が開く。
スタンドを足で跳ね上げ、自転車を引き出した。
ハンドルを握った指先が、少しだけ汗ばんでいる。
自立した自転車のタイヤをつまむように触れると、指が深くまで沈み込んだ。
長い間乗っていなかったし、メンテナンスなんて考えもしなかった。
僕は家から持ち出した空気入れで、タイヤを膨らませ始めた。
シュッ、シュッ、と規則正しい音が、静かな駐輪場に響く。
一つ、また一つ。
止まっていた時間が、少しずつ動き出す気がした。
「……おっはよう!」
不意にかけられた声。
同時に、不意に背後から両肩を捕まれた。
僕の身体が、びくりと跳ねる。
その勢いのまま振り返ると、そこにわたらいさんが立っていた。
「ママに、鍵、返してもらえたんだね」
彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
それから、駐輪場の隅に置かれた猫の餌皿へと視線を移した。
今さっきのいたずらっ子は、見る影もなかった。
どこか寝不足のような、それでいて、透明な膜の向こう側にいるような、静かな佇まい。
僕と初めて会った日もそうだったように、わたらいさんは飼い猫の好物をそこに置き続けてきたのだろう。
無事に帰ってくるように、祈りをこめて。
「わたらいさん……」
彼女は、しゃがみ込んで古い餌を回収し始めた。
夏のせいで少し乾燥した、一口大の魚肉ソーセージが、使い捨て手袋で鷲掴みされた。
いつもなら、その後に新しい魚肉ソーセージを山盛りにするはずだった。
けれど、彼女は空になった皿をしばらくじっと見つめるだけだった。
やがて、彼女は立ち上がった。
彼女は、新しい餌を、入れなかった。
「……えっ、入れないの?」
それが、にわかには信じられなくて、僕は思わず声に出していた。
わたらいさんは、ビニール手袋を器用に裏返して古い餌を包むと、その口を閉めた。
「……うん。もう、いいかなって」
そして、ぼんやりと駐輪場の外――街との境界線のほうを見つめた。
「あ、そっか」
僕は、安堵から明るい声を出す。
「これから、探しにいくんだもんね。連れて帰ってから、たくさんあげたらいいんだ」
ほんの一瞬だけ、彼女が戸惑ったような顔をしたように見えた。
けれど、わたらいさんはすぐに顔を綻ばせる。
「うん、そうだよね」
「……これ、乗れるようになったらさ、よじれ、すぐ探しに行こうよ」
僕は、再び空気を詰めはじめる。
しばらく、シュッ、シュッという音だけが続いた。
手を止めずに、横目で彼女を見る。
彼女は少しだけ間を置いてから、ようやく「……うん」と短く答えた。
「大丈夫。僕、絶対乗れるから」
空気を詰め終えた僕はサドルに跨り、ペダルに足を乗せた。
「あれ、意外とあっさり……?」
わたらいさんが、小さく呟くのが聞こえた。
自分でもそう思う。
余裕を見せようと、自転車の後方にいる彼女を振り返ろうとした瞬間、あの光景がフラッシュバックして、腕が小刻みに震え出した。
まだ漕ぐ前の、跨っただけの自転車が盛大にふらつく。
僕の動揺が、誤魔化し用もなくハンドルに伝わって、前輪が不格好に蛇行した。
「大丈夫?」
わたらいさんの心配そうな声を、背中に受ける。
「……大丈夫。僕、走るから、見てて」
「うん」
わたらいさんは、自分のシャツの裾をぎゅっと握った。
「……よし」
口の中でそっと呟き、サドルに深くまたがる。
右足をペダルに乗せた。
胸の奥がきゅっと縮む。
あの日も、同じ風だった。
背後で聞こえた、荒い呼吸。
振り返れなかった。 止まれなかった。
喉がひりつく。
今日も、背後にいる。
だから、前を見る。
僕は、視線をまっすぐ前に向けた。
振り返らなくていい。
止まらなくていい。
ペダルを、ぐっと踏み込む。
車輪が、ゆっくり転がった。
思ったより、軽い。
風が、頬をなぞる。
ほんの、数メートル。
でも、転ばない。
ハンドルも、ぶれない。
大丈夫。
さらにペダルを踏み込む寸前で、僕はすでにアパートの敷地の端まで来ていることに気がついた。
ゆるやかにブレーキをかけると、ちゃんと止まれた。
静かに両足を地面につける。
「……乗れた」
それでも、まだ心臓がうるさい。
思い切って振り返ると、わたらいさんが目を大きく見開き、両手を口元に当てていた。
「すーごい!」
少し遅れて、ぱちぱちと拍手をする音が聞こえた。
自転車に乗れただけでこんなに褒められるなんて、冷静になるとちょっと恥ずかしい。
それでも笑っている。彼女は、ちゃんと、笑っている。
その目は、どこか遠く、僕の向こう側を見ているようにも思えた。
「それじゃあ、今度はこっちに戻ってきて」
わたらいさんが言う。
「いいよ」
僕はもう一度漕ぎ出す。
今度はさっきよりも滑らかに進んだ。
昔みたいな怖さは、ない。
ただ、やっぱり少しだけ、心臓がうるさい。
彼女のすぐ近くまで戻って、僕はキュッ、とブレーキをかけた。
駆け寄ってきたわたらいさんが、自転車の後ろ、荷台を軽く叩く。
「ねえ……後ろ、乗ってもいい?」
その言葉に、僕は思わず目を瞬く。
「……うん。でも危ないから、敷地内だけね」
「わかってる」
わたらいさんは、荷台に腰を下ろし、遠慮がちに、僕の腰に腕を回した。
心臓がうるさいのが、何のせいだかもう分からない。
「ちゃんと掴まってて」
「うん」
僕は、再びペダルを踏む。
今度は、背中に重みがある。
彼女の体温がシャツ越しに、じんわり伝わる。
あたたかい。
アパートの敷地を、ゆっくり一周する。
スピードは出さない。
「風、気持ちいいね……」
背中越しの声が、少しだけ震えている気がした。
回された腕に、ぐっと力がこもる。
「うん」
僕は笑う。
「もう大丈夫だから」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
駐輪場の前で止まる。
わたらいさんが先に降りた。
「それじゃあ……すぐに一緒によじれを探しに行く?」
僕は、自転車のハンドルを握り直す。
「うん……」
わたらいさんは、目を伏せた後で小さく頷いた。
「行こうか」




