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第80話 兄弟

 僕は、扉の中に足を踏み入れることができなかった。


 ただ立ち尽くしたまま、視線だけが勝手に動いて、収納スペースを上から下へ、右から左へと、順番に中身をなぞっていく。



 畳まれた衣類。


 衣装ケースに納められた、絵画や工作の類。 ハンガーに掛けられた制服は、中学生時代のものだけじゃなく、幼稚園の頃のものやランドセルまで揃っている。


 部活で使っていたであろうユニフォームと、使い古されたバッグ。


 使っていた教科書、ノート。



 どれも、見覚えがあった。

 

 ――全部、兄ちゃんのものだ。


 それから、中身は見えないが、とにかくたくさんのダンボールが積まれている。


 新品みたいに整えられているわけでもないのに、埃を被ることもなく、無駄な隙間もなく、まるで最初からこうなると決まっていたみたいに、きちんと収まっている。


 僕のものはなかった。


 ノートも。服も。ランドセルも。


 兄ちゃんと一緒に生きていたはずの、その時間の名残すら。


 喉の奥が、きゅっと縮む。


 泣きそうだからじゃない。


 叫びたいからでもない。


 ただ、息の仕方が、また分からなくなった。


「……ぺこ」


 わたらいさんの声がした。


 さっき振り払った手が、今度は触れてこない。


 距離を測るみたいに、少しだけ離れた場所から、僕を呼んでいる。


 僕は、答えなかった。


「……私だけ中に入って、よく見てもいい?」


 僕はほんの一瞬だけ迷ってから、頷いた。


 それだけの動作なのに、頭がやけにくらくらする。


 膝が笑って、床が近いのか遠いのかはっきりしない。


 わたらいさんが、そのまま僕に背を向けて、一歩踏み出した。


「や、やっぱり……!」


 咄嗟に大声が出た。


 わたらいさんが僕の方を振り返る気配がするけれど、僕はそちらを向くことができない。


 気を抜いたらその場にうずくまってしまいそうで、必死に踏ん張る。


 告白する時みたいに、俯いたまま片手を、僕は恐る恐るわたらいさんに差し出す。


 彼女は何も言わずにその手を握り、中へと導いてくれた。


「全部、お兄ちゃんのものみたいだね」


 わたらいさんが、無感情に呟く。


「僕なんかいらないって。そう言われてるみたいだって。そう考えているんでしょう?」


 僕は彼女と繋いでいた手を離し、一番近くにあった陸上部時代のユニフォームにしがみついた。


 足元で、何かを蹴ってしまう。


 見ると、紙袋の中身が散乱していた。


 ラブレターらしい。ファンシーな封筒が見えた。


 それに、ママに取り上げられたであろうエッチな漫画雑誌。


 それから、小数点以下の数字がデカデカとデザインされた紙箱。


 そこから溢れた中身が透ける、安っぽい銀色。


 ――ああ。

 これは、兄ちゃんの恥部なんだ。


 僕は、そこへ一歩だけ近づいた。


「ぺこのお兄ちゃんが、わざわざここの鍵を残したのはさ」


 わたらいさんの声で、現実に引き戻される。


「忘れて欲しいから、じゃないかな。それ以上、縛られないように」


 彼女の言葉は分かるのに、意味が頭の中まで届かない。


「きっと、お兄ちゃんはぺこのママに、ずっと縛られてたんだね。お兄ちゃんの気持ちは分からないけど……ぺこには、自由でいて欲しかったんじゃない?」


 だって……と、わたらいさんが続ける。


「だって、『仲良し』だったんでしょう?ぺこはお兄ちゃんの嫌なところも、恥ずかしいところも知っているんでしょう?」


 喉の奥が、急に熱くなる。


 しがみついているユニフォームを、さらに強く皺になるほど、僕は握りしめていた。


「本当は、ちゃんとお別れできていないんじゃないの?」


 返事をしないまま、僕は一歩だけ横へ移動した。


 靴底が擦れて、きゅっと、小さく鳴る。


 それだけの音なのに、身体がびくりと跳ねた。


 ハンガーに掛けられたユニフォームの隣の、見慣れた制服に、指先が触れた。


 思ったよりも、軽い。


 でも、布は硬くて、少しごわついていて、洗剤の匂いがした。


 兄ちゃんの匂いじゃない。


 ママの選んだ洗剤の匂いだ。


「お兄ちゃんが、ぺこのことを本当にいないものだと思ってたならさ、一緒にケーキなんか食べないよ」


 わたらいさんの不意打ちに、僕はそのまま制服を掴んでしまった。


「お誕生日だったんでしょう?それって、本当は、誰よりもぺこのことを――」


 耳鳴りがして、続きが聞こえなかった。


 引き寄せるつもりはなかったのに、僕の身体の方が勝手に前に倒れて、膝が床につく。


 立てなかった。


 顔が、制服に埋まり、視界が布で塞がれる。


 息を吸おうとして、失敗した。


 吐こうとしても、うまくできない。


 喉の奥からは、変な音が漏れていた。


 声なのか、ただの空気なのか、自分でも分からない。


 ――兄ちゃん。


 名前を呼んだつもりはなかった。


 でも、胸の中で、確かにそう呼んでいた。


 ごめん、とも、ありがとう、とも言えない。


 何を後悔しているのかも、何を失ったのかも、いまだに整理できていない。


 それでも、僕と兄ちゃんは――ただ、仲が良かった。


 くだらないことで笑って、同じ景色を見て、同じ匂いの家で暮らして、眠っていた。


 神様でも、呪いでもなかった。


 僕の、たった1人の、大切な兄ちゃんだった。


 それだけの事実が、今さらになって、重く胸に落ちてくる。


 制服の布地が、少しずつ湿っていく。


 それに気づいた瞬間、息が詰まって、肩が小刻みに震えた。


 あれ、泣いている、と思った。


 でも、止めようとも思わなかった。


 背後で、わたらいさんが何かを動かす気配がした。


 ダンボールの位置を直すような音で、彼女がこちらを、見ていないことが分かった。


 彼女のその優しさで、僕はようやく、声を殺すのをやめられた。


 兄ちゃんの制服は、何も言わない。


 責めもしないし、許しもしない。


 ただ、ここにある。


 制服の重さ、布の冷たさ――それだけで、よかった。




 どれくらいそうしていたのか分からない。


 息が、少しずつ整ってきて、視界の滲みも引いていく。


 僕は、制服から顔を離した。


 手を取るように袖を握ったまま、深く、ひとつ息を吐く。


「……兄ちゃん」


 今度は、ちゃんと声に出た。


 それは、祈りでも、謝罪でもなかった。


 ただ、一人の弟としての呼びかけだった。

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