第72話 エレファントインザルーム
車内は、しばらく沈黙が続いた。
後部座席には僕の泣き声と、わたらいさんのすすり泣きだけが満ちている。
ずっと前方のコンビニの様子を伺っていた運転手が、急に「おっ」と短い声を出した。
「……買えるみたいだな」
運転手は、フロントガラスの向こうを見たまま、そう言った。
「……ふたりは、何か買いたくて、入ったんだろ」
「ちょっと、行ってくる」
運転席のドアを開いた。
「すぐ戻る」
運転手の後ろ姿が遠ざかり、自動ドアの向こうに消えた。
ふたりきりになる。
わたらいさんが、長い息を吐きながら、シートに沈み込む。
「……ごめん」
わたらいさんが、トートバッグの持ち手を強く握りしめた。
「私のせいで……」
違う。そんなはずはない。
わたらいさんは、被害者だ。
それなのに。
頭では、はっきり分かっているのに、なんと言ったらいいのかが、分からなかった。
「また、壊しちゃうんだ……」
そう呟いたわたらいさんは、もう泣いていなかった。
帽子を被ったままの頭を、窓ガラスにもたれている。
違う。僕だって、何も壊してないなんて、言い切れるはずがない。
あの場で見ていたわたらいさんだって、わかっているはずなのに。
それでも。
「……間に合って、よかった」
僕はまだ涙が止まらないまま、わたらいさんを見つめて、思わずつぶやいていた。
頭を窓に持たれたまま、わたらいさんが驚いたような顔をして僕を見る。
わかっている。彼女は傷ついてしまった。何にも間に合ってない。
それでも。
彼女はまだ「わたらいさん」として、僕の隣にいてくれている。
それがたまらなく嬉しかった。誇らしかった。
「……変なの」
わたらいさんは呟き、目を閉じた。
その瞬間、運転席のドアが開く音がした。
「ちょっと、買ってきた」
運転手が、ヘッドレストの隙間からスポーツドリンクのペットボトルを2本差し出す。
「泣くと、体の水分が失われるからな。暑いし、よかったら飲んで」
僕たちは、後部座席で顔を見合わせた。
わたらいさんが、ハッと我に返った。
「あの、私……お金あります」
慌ててトートバッグの中を漁り、小銭を取り出そうとする。
「いくらでしたか?」
運転手は首を横に振りながら、にこりと笑った。
「おいおい、もう“知らない大人”じゃないだろ。遠慮しなくていい」
「でも……」
差し出されたペットボトルを前に、僕らはまだ手を伸ばせずにいる。
「タクシー代はちゃんともらうけど……どうしても払いたいなら、チップとしてちょっと多めに出してくれてもいいんだぞ」
運転手が、お茶目にウインクした。
「冗談だよ。領収書もきっちり出すから」
しばらく呆気に取られていたわたらいさんが、堪えきれないみたいに「ふふ」と小さく笑みをこぼした。
「ありがとうございます。それじゃあ、いただきます」
わたらいさんは、そっとペットボトルを受け取った。
もう1本は、僕に差し出された。
「怪我はもういいのか?キャップ、開けられるか?」
僕の腕に巻かれた包帯を見ながら、運転手が尋ねる。
「大丈夫。ありがとうございます」
そう答えて受け取り、すぐにキャップをひねる。
けれど、まだ手が震えていて、なかなか開かない。
ぐっと力を込めた瞬間、キャップが派手に回り、握力で押し出されたスポーツドリンクが勢いよく飛び出した。
「……うわっ!」 思わず顔をしかめた瞬間、鼻先に液体がピチャリとかかる。
隣で、わたらいさんが声を立てて吹き出した。
「ぺこ……鼻から飲むの?」
肩を震わせ、帽子で顔を覆うけれど、間に合っていない。
「ゾウさんみたい」
「ち、違うよぉ!」
僕は鼻を押さえながらもがき、思わず声が裏返る。
その勢いで、僕の手からペットボトルが少し傾き、わたらいさんの膝にちょっとだけかかった。
「きゃあ、冷たいっ!」
わたらいさんも思わず窓際に飛び退く。そのはちゃめちゃさに、僕もつい吹き出す。
「ごめん……」
「ふふっ、やだ……もう、笑っちゃう」
わたらいさんがハンカチで膝を拭いている。その瞳に、さっきまでの絶望とは違う、柔らかい光が戻る。
つられて、運転手も笑っていた。
泣き腫らした顔で大騒ぎしているのは、なんだか馬鹿げているけれど――その馬鹿げた時間が、僕たちの凍りついた心を、少しずつ溶かしてくれた。
僕はスポーツドリンクを飲んで、湿った唇を拭った。ペットボトルのキャップをきつく締めると、運転手が急に真剣な顔になった。
「……よし、水分補給も済んだしな」 運転手がハンドルを握り、少し声を落とす。「悪いけど、少し移動するぞ。パトカーも野次馬も増えてきたし……行き先は、どうする?とりあえず家に戻るか、それとも……」
僕は、無意識のうちにポケットの中の鍵を握りしめていた。
小さく息をつき、わたらいさんの方をちらりと見る。
彼女も、わずかに頷いた。
この人になら、話せる。
「運転手さん、僕たち探しものをしていて……」
僕は決意を込めて、ポケットから例の鍵を取り出した。




