第70話 けたたましい魂
店員は一度だけ、僕と扉を見比べた。
「……ウェイト。ポリス、コール」
多分、僕にも理解できるように単語で話してくれている。
「コールします!」
そう言い残して、走り去る店員の足音が遠ざかる。
同時に、ドンッ、と、扉に強い衝撃が来た。
男が、扉に挟み込まれたペットボトルを思いきり蹴り飛ばしたのだ。
僕にとって、わたらいさん本人を蹴り飛ばされたにも等しい屈辱だった。
彼女が選び、彼女がお金を払って、僕に与えてくれた物なのに。
頭に血が上り、熱くなるのに、指先は冷えていた。
「チッ……!」
男の様子がおかしい。
男の足が上がるのが見えた。
怒りのままに振り下ろされる。
蹴り出されるはずだったペットボトルは、ピクリとも動かず、そこに残っていた。
ズレない。
転がらない。
潰れもしない。
蹴ったはずの足だけが、少しだけ前に突き出て、何も起きなかったために引く。
「ガキが余計なことしやがって……」
吐き捨てるように言って、男が足を振り上げた。
男の靴底が、またペットボトルを蹴った。
潰れて押し出されるはずだったそれが、空中で止まっている。
音が、最後まで鳴らない。踏み抜けずにいる。
押しているのに、動かない。
力が、途中で逃がされるみたいに。
扉は、じりじりと動く。
でも、噛ませたそれだけが、いつまでも同じ位置にあった。
まるで、そこから先に行くことを、許されていないみたいに。
男は、諦めたようにペットボトルから視線を外した。
扉でも、僕でもなく、奥にいるわたらいさんのほうを見ている。
その目つきで分かった。もう、何も計算してない。本能のままに、衝動で動くつもりだ。
空気が、冷えた。
息を吸ったはずなのに、胸に入ってこない。
喉の奥で、ドス黒いものが詰まっている。
わたらいさんが、小さく息を呑む音がした。
男は舌打ちして、もう扉を見るのをやめた。
一歩、奥へ踏み出そうとする。
わたらいさんは、かろうじて立っていた。
背中が壁に当たっている。
一歩下がる余地もない角へと、男は距離を詰め、彼女の逃げ道を塞ぐように身体を落とした。
床に座らせるためじゃない。
動けない高さに、閉じ込めるための姿勢だった。
男の膝が、わたらいさんの足の前に差し込まれる。
もう前にも、横にも、抜けられない。
「……っ」
彼女の喉が鳴る。声は、まだ出ていない。
男の手が、彼女の細い顎にかかる。
持ち上げるというより、固定するように、視線すら逸らせない。
「大丈夫だって。すぐ終わる」
男のその言い方が、何をするか分かってるだろと優しく確認しているみたいで、わたらいさんの肩が、拒絶するようにわずかに震えた。
僕が見ている。
店員さんもすぐそこにいる。
助けも呼んでくれている。
見たくない。でも僕しかいない。
その矛盾が、胸の奥で絡まり合った瞬間、男はわたらいさんにさらに体重をかけた。
膝が、壁と彼女の間に深く入り込む。
「やだ……っ」
わたらいさんが、初めてか細い拒絶の声を上げた。
持ち上げられた顎を引こうとしている。
男が、苛立ち混じりにさらに強く顔を上げさせた。
その拍子に、顎を掴む指に力が入る。
持て余していた男の、もう片方の手が、彼女の首まで降りて圧迫している。
「大人しくしてろって――」
その続きを、僕は聞かなかった。
聞けなかった。
恐怖で浅い呼吸を漏らすだけの、薄く開かれた彼女の唇に、男が近づいていく。
「殺すっ!」
僕は、自分が知っている中で一番強い言葉を吐いた。
「ぶっ殺してやるっ!」
扉をこじ開けて、無我夢中で、猪みたいに頭から男にぶつかる。
感情が絡まって、どれも形にならない。
助けは、まだ来ない。
僕の軽い身体は、男に軽く片手でいなされる。
何も起こらない。
男の顔が、さらに彼女に近づく。
息がかかるほどの距離。
「やめろって言ってるだろっ!!」
怒りで頭がぐちゃぐちゃになる。
腹の底から叫んだ瞬間、店内に、強烈な不快音が走った。
キィィ―――ン。
高すぎて、低すぎるハウリングみたいな音。
音楽でも、警告音でもない。
コンビニの天井スピーカーから、めちゃくちゃなノイズが溢れ出す。
「……なんだっ!?」
男がびくりと肩を跳ねさせ、一瞬、喉を掴む手が緩んだ。
この短い間にも、音は何度も形を変えた。
意味のない単語。 途中で切れるフレーズ。
歪んだメロディ。
それはあまりにも歪な歌だった。
どこかで聞いたことのあるような、そうだとしても、絶対にここで流れるはずのない種類の歌。
「なんなんだよ……これ……!」
男がたまらず、わたらいさんから手を離し、自分の耳を押さえる。 顔が苦痛に歪んでいる。
それでも、ノイズは終わらない。
僕の視界も、揺れていた。
頭の奥が、さらに、ぐちゃぐちゃになる。
うるさい。
やめろ。
やめろ。
止まれ、止まれ、止まれ。
スピーカーの音量が、勝手にどんどん上がる。
下がらない。
切れない。
ノイズと歌が、混ざり合って、店内の空気を引き裂く。
たまらず、客が店の外へと駆け出す足音さえも掻き消されていく。
わたらいさんも、耳を塞いでいる。
膝が震え、顔面は蒼白で、具合が悪いみたいにぎゅっと目を瞑っている。
音は、届く相手を選ばなかった。
殺意すら覚えた、あの男にだけじゃない。
僕にも、わたらいさんにも、平等に、容赦なく降り注いでいた。
「……っ、もう……や、め……」
わたらいさんの苦しそうな声が、音に飲み込まれる。
男が、よろめいて数歩下がる。
二人の間に距離が、わずかに開いた。
それが、限界だった。
僕は、立っていられなくなった。
その場にうずくまる。
視界が白くなり、床が近い。
音は、まだ止まらない。
誰かが、叫んでいる。
通報を済ませた店員の声かもしれない。
自分の苦しむ声かもしれない。
もう何も分からない。
ただ一つ分かるのは、これは救いじゃない、ということだ。
これは、巻き添えだ。
限界まで上がり切った音量が一定のまま、質だけが変わっていく。
金属を擦る音。
遠くで誰かが泣いているような声。
途中で切れて、また始まる、意味のない旋律。
やっぱり、歌、だった。
でも、旋律はすぐに崩れ、音程もリズムも溶けていく。
「うるせぇ……!うるせぇぞ!!」
男が怒鳴る。
怒鳴ったはずなのに、声は自分の耳にすら届いていないようだった。
男は、動けない僕を押し退け、ペットボトルにつまづきながら、トイレから転がり出た。
強烈なノイズに耐えきれず、嘔吐している。
顎を掴んでいた手と、男が完全に視界から離れたことで、わたらいさんの膝が、かくりと折れそうになる。
それでも、彼女は倒れなかった。
壁に背を預けたまま、必死に立っている。
顔色が、みるみる悪くなる。
唇が、小さく震えている。
僕の頭も、割れそうだった。
視界の端が滲む。
床が、斜めになる。
「……やめ……ろ……」
男が、ぜぇぜぇと荒い息の合間で呻く。
怒りとも、恐怖ともつかない表情で、無様に吐瀉物の上を這いつくばり、男は、さらに距離を取った。
「――ストップ!ストップ!」
切迫した声。
あの店員だ。
男が、はっと顔を上げる。
逃げ道を探すみたいに視線を彷徨わせている。
ノイズがぶつりと途切れ、通路の向こうから、複数の足音が重なって聞こえた。
僕は、そこでようやく、力が抜けた。
膝が、床に落ちる。
誰かが叫んでいる。
誰かが男を取り押さえている。
でも、全部、遠い。
わたらいさんだけが、目に入る。
彼女は、まだ立っていた。
壁に背中を預けたまま、両手で自分の耳をぎゅっと抑えている。
泣いてはいなかった。
ただ、瞬きを忘れたみたいな目で、こちらを見ていた。
「……ぺこ」
声は、出ていた。
でも、それだけだった。
僕は、なかなか立ち上がれなかった。這うようにして、彼女のところまで行く。
そして、抱きしめた。
思っていたより、強く。
一瞬、彼女の身体がこわばったけれど、ゆっくり、力が抜ける。
「……ごめん」
それが、自分に向けた言葉なのか、彼女に向けた言葉なのか、僕にも分からなかった。
わたらいさんは、首を横に振った。
小さく。
本当に、小さく。
「……大丈夫」
そう言った声が、全然大丈夫じゃなかった。
「中で、何してたんですか!」
店員の声が、今度ははっきり聞こえた。
パトカーのサイレンも近づいている。
男は何か叫んでいたけれど、その言葉は、もう形にならなかった。
僕は、ようやく彼女を抱いていた腕を引っ込めた。
指先が、ひどく冷たい。
すぐ側で、わたらいさんがへたり込む音がした。
泣き声は、聞こえなかった。
今回は――間に合った。
まだ、腕が震えている。
世界は元通り動きはじめているのに、僕の中だけ、何かが凍ったままだった。
間に合った。
それだけは、確かだ。
でも――。
もしも、あのペットボトルが蹴り出され、転がっていたら。
もしも、僕が叫ぶのをやめていたら。
もしも、ノイズが発生しなかったら。
その、「もしも」が、ずっと、わたらいさんのすぐそばに纏わりついている気がして――。
僕はまだ、落ちついて呼吸することすら、できなかった。




