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第69話 滅びの呪文

 コンビニの前に差し掛かると、わたらいさんは「飲み物買おうよ」と言って、僕の返事を待たずに入店した。

 

 自動ドアが開くのと同時に、冷房の効きすぎた空気と、あの無機質な入店音が僕たちを迎える。


 眩しい。外の夏の日差しとは違う、人工的な眩しさ。

 並べられた雑誌の表紙も、食べ物や飲み物のパッケージも、セールを告げる手書きのポップ広告も、ママの家にはない外の世界の色が多すぎて、僕は少し眩暈がした。


「……ぺこ、何がいい?」


 プリンの帽子のつばを指で直しながら、飲料売り場の前のわたらいさんが僕を振り返る。

 彼女はもう、迷いなく“わたらいさん”の顔をしていた。


「いい……僕、お金ないし」


「何言ってんの。今更そんなことで遠慮しないでよ。……麦茶でいい?」


 わたらいさんは売り場から二人分を抜き取りながら、「今のちょっと、ぺこのママみたいだったね」と笑った。


 それから、少しだけ声をひそめて彼女が続ける。


「ねえ、また、外にタクシー停まってたよね」


 はっきり言って、僕は全く気がつかなかった。


「また、あの運転手さんだったりして」


 僕はわたらいさんの誘導を頼りに、雑誌棚に身を隠しつつ、店内からタクシー内部を伺った。


 男性ドライバーで、ドリンクホルダーにはブラックコーヒーのボトル缶が刺さっている。


「……どう? あの人?」


 わたらいさんが、適当な漫画雑誌を開いて、顔を隠しながら尋ねてくる。


「分からない。でも、男の人だ。缶コーヒーを飲んでる」


 僕は、ありのままを報告した。


「缶コーヒー買ってさ、お礼、を……言いに行こうよ」


 よりによって青年誌を開いた彼女は、何かを見てしまったらしく、ぎょっとした顔で慌てて漫画雑誌を閉じた。


「気のせいだったら、気のせいでいいから。病院まで送ってもらったのに、知らんぷりできないでしょ」


「そうしようか。人違いなら、謝ればいいだけだしね」


 僕も同意した。


 缶コーヒー一本と、麦茶二本をレジに置いたわたらいさんは、トートバッグから剥き出しのお金を取り出す。


 慣れた手つきで千円札を差し出す彼女の横で、僕は自分の空っぽのポケットに手を入れることしかできない。


 重くなったレジ袋を受け取る彼女の細い腕が、僕よりもずっと大人びて見えて、僕は野球帽を深く被り直した。


 守りたいなんて、どの口が言ったんだろう。


 僕はまだ、彼女の財布の中に住んでいる寄生虫みたいなもんなのに。




「ちょっと、お手洗い行ってくる」


 わたらいさんは買ったばかりのコンビニ袋を僕に預けた。


 そのまま彼女がコンビニの奥、トイレの方へ向かうのを、僕はレジ前から見ていた。


 トイレ付近に男が一人立っていた。

 すれ違うとき、男の肘が、わたらいさんのトートバッグに軽く当たっていた。謝罪はなかった。


 個室は一つだけ。いわゆる多目的トイレというもの。車椅子でも入れるようなスライド式の引き戸で、中は広い。


 そこに、わたらいさんが入る。すると、それを待っていたかのように、扉の前にすかさず男が立った。


 近い。

 順番を待っているにしても、あんな距離で立つ理由が分からない。扉の真ん前で、まるで逃げ道を塞ぐみたいな位置だった。


 多分、わたらいさんは気づいていない。

 嫌な予感がして、僕はこっそり男の背後に回り込んだ。


 しばらくして、彼女が内側から鍵を開ける小さな音が、僕の心臓の音より大きく響いた。

 扉がわずかに開いた隙間に、男が吸い込まれるように肩を差し込む。


「あ、すみません……」

 わたらいさんの、小さくて正しい謝罪。


 彼女が外へ出ようとしたその身体を、男の厚い胸板が、押し潰すようにしてトイレの中へ押し戻した。


「うっ……!」

 彼女が床に崩れる、鈍い音。


 僕はレジ袋を握ったまま、扉へと駆け出していた。


 男の手が、扉の内側を探るみたいに動いた。

 鍵の位置を、確かめているように見えた。


 扉が後ろ手に閉められるその隙間に、僕は無我夢中でコンビニ袋を押し込んだ。

 間一髪、ペットボトルを扉に噛み合わせたことを確認してから、僕は腹の底からの大声で叫んだ。


「あの人、万引きしてる!!」


 僕の叫びは、自分でも驚くほど店内に響き渡った。店の外まで届いたかもしれない。

 レジの店員が顔を上げ、棚の向こうで雑誌をめくっていた客がこちらを見る。


「万引きしたものを、トイレで隠そうとしてます!!」


 叫びながら、扉の向こうで彼女が泣いていないか、そればかり気になっていた。

 泣いていたら、きっと、もう遅い。


 扉の隙間から、なんとか自力で立ち上がったわたらいさんが見えた。口がぽかんと開いたままで、声が出ているのかどうかもよく分からなかった。肩がかすかに震え、手のひらをぎゅっと握っている。


「……っ、おいガキ、何が万引きだ!」


 男が顔を真っ赤にして扉に挟まったレジ袋を押し返そうとしたが、もう遅い。店員が通路を走ってくる足音が聞こえた。


「わたらいさんっ!!」


 僕はレジ袋で扉を押さえながら、もう片方の手を慎重に隙間に差し込んだ。指先が、角に押し込まれている彼女の手に、ぎりぎり届いた。


 掴もうとしたけれど、わたらいさんは握り返さない。代わりに、恐る恐る指先で僕の甲をなぞるように触れ、確かめるように撫でた。

 そのとき、初めて小さな啜り泣きが聞こえた。声は押し殺したまま、息だけが震えている。


 ああ、だめだ。僕が怪我をするくらいなら、あの子は自分ひとりで全部引き受けるつもりなんだ。


 走ってきた店員は、息を切らしながら立ち止まった。名札のカタカナが、やけにくっきり目に入る。


「……?」

 何かを尋ねているのだと思う。でも、日本語じゃなかった。

 トイレの扉を閉じまいと踏ん張る子供の手に困惑していた。


「中にっ、友達が……! 知らない男の人に……!」

 言葉にしたら、僕も泣いてしまった。

「早くっ……たすけてぇ……!」


「チッ、関係ねぇよ! あっち行ってろ」

 男が扉の隙間から手を出して、しっしっと追い払うジェスチャーをした。


 店員が、わずかに後退りした。

 

「ちが……中に……!」

 言葉が、順番を失って喉につかえる。指でトイレの扉を示しても、状況は伝わらない。


 男が、わざとらしく肩をすくめた。

「なんだよ、ガキの悪ふざけか?」


 男の手が、扉の縁を掴む。今度は逆に扉を開く方向へ動かす。僕が噛ませたレジ袋を、力任せに押し出そうとしていた。


「やめろっ……!」


 慌てて腕を引き抜き、僕も必死に扉を開かせまいと引く。でも、体重も、腕の太さも、全部が違う。大人の力だし、引く力よりも押す力の方が強いことを知っている。


 扉が、じり、と開かれる。

 隙間がわずかに広くなるたび、挟み込んだコンビニ袋が重力に従い、ズレて落ちる。わたらいさんの顔を見る余裕もなくなっていた。


 だめだ。閉められる。

 頭が真っ白になって、でも、口だけが勝手に動いた。


「……い、いん……!」


 喉がひっくり返る。

 ママに散々やらされた、あの大嫌いな英単語帳のページを、頭の中で必死にめくる。


「……いん、まい……まい、ふれんど!!」


 通じているかなんて、分からない。トイレを表す単語を思い出せない。それでも、叫ぶしかなかった。


「へるぷ、みー!! ぷりーず!!」


 ママが僕の口に、頭に、無理やり詰め込んできた忌々しい単語。テストのためだけに覚えさせられた無機質な記号が、今、彼女を守るための唯一の武器になるなんて、皮肉すぎて吐き気がした。


 男が舌打ちをして、もう一度、強く扉を押した。

 腕が痺れる。指が、滑りそうになる。

 それでも僕は、声が潰れるまで叫び続けた。意味なんて、どうでもよかった。

 ただ、閉めさせちゃいけない。

 それだけだった。



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