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第68話 プリンの帽子

 家に洗濯物を置きに戻ったわたらいさんを、僕は共用玄関で待つ。


 夏の日差しが、相変わらず容赦なく照りつけている。


 前回の猫探しの教訓から、僕は野球帽を被ってきた。特段贔屓にしている球団というわけでもない。多分メジャーリーグのロゴマークで、それがなんとなくカッコよく見えた。


 手持ち無沙汰で、意味もなく家のポストを開けたりするが、チラシの一枚すら入っていなかった。


 集合ポストの下には、不要チラシを捨てるための共用ゴミ箱がある。雑に押し込まれたチラシの一枚が不自然に折れて、どこかの貸し倉庫の写真がちらっと見えた気がした。


 それも一瞬のことで、階段を降りてくる軽やかな足音に気づくと、すぐにそちらに意識を持っていかれてしまった。


「お待たせ」


 わたらいさんはまたトートバッグを肩に下げていた。洗濯物が減った分、いくらか薄くなっている。


 彼女は自宅の鍵を、自分の部屋番号のポストの中に押し込みながら、「おじいちゃんとおばあちゃん、家に入れなくなっちゃうから」と、聞いてもいないのに呟いた。


 わたらいさんも帽子を被っている。名前は知らない、変わった形の帽子。


「プリンみたいだね」

 僕は思わず口に出していた。

「カラメルソースかける前の、プリン」


 彼女は被っていた帽子を脱いで、まじまじと見ている。髪はシュシュでひとつ結びのままだった。


「なんか、薄いベージュ色だし」

 僕は、自分が知っている中で、一番近い色に例えた。


「これはね、ベージュじゃなくて生成り」

 わたらいさんが帽子を深く被り直す。


「きなり?」


「うん。白に近い布の色」

 彼女は帽子のつばを、指で軽くつまんだ。

「形は……確かにプリンみたいだけど」


 僕は、心の中でプリンの帽子と呼ぶことを決めた。


「バケットハットって言うんだよ。バケツをひっくり返したみたいな形だから」


「……本当だ」


 わたらいさんは、プリンの帽子の本当の名前を教えてくれた。




 猫探しと同じルートを、敢えて選んで歩き出す。隣同士並んで歩くけれど、今回は手を繋がなかった。


 僕は手のひらの中に鍵を、彼女はトートバッグの持ち手を握り込んでいる。


 日陰を探して歩いていても、熱はどんどん籠るように思えた。


「ねえ……」


 僕は、手のひらの中で温もる鍵を確かめながら、ずっと彼女に聞こうと思っていた話題に、初めて触れることにした。


「わたらいさんはさ、やっぱり、将来はお医者さんになりたいの?」


 なんで今こんなことを聞いたのか、自分でもよく分からなかった。

 夏の暑さのせいで、頭がどうにかなったのかもしれない。


 わたらいさんの顔を覗き込む。

 怯えたような目が見つめ返してきた。

「……お医者さん? やだよ」


 そして、彼女はすぐに目を伏せる。


「誰かを助けるなんて、そんな立派なこと……今の私にできるわけないじゃん」


 わたらいさんは吐き捨てるようにそう言って、プリンの帽子のつばをさらに深く下げた。


「私ね、本当は、壊す方が得意なんだと思う。……パパやママの期待も、自分の将来も。ぺこの日常も、全部」


 彼女の指先が、僕の手の甲に触れ、すぐに離れる。


「ぺこも、全部見てたでしょ?」


「見てたけど……それでも、壊す方が得意とは思わないよ」


 僕の言葉を否定するように、わたらいさんは強く首を横に振った。


「お医者さんになって、誰かの病気を治すくらいなら。……私は、一生治らない病気みたいに、誰かに……」


 その先は言わなかった。

 彼女の顔を覗き込んでいた僕の方へ、彼女はゆっくりと顔を寄せる。


 お互い、呼吸が荒い。

 

「……本当はさ、壊れてないって、確かめたかったんじゃないの?」

 

 僕がそう囁いても、わたらいさんは止まらなかった。


「はじめから壊れてるって思ってたら、わたらいさんだって……わざわざそんなこと、しない気がする」


 怖いと思った。

 同時に、そんな彼女の病を一生、僕だけが抱え込んでいたいと願う自分もいた。


 彼女の顔が、近すぎて、見えない。


「少なくとも……わたらいさんは、楽しくて壊してたんじゃないと、僕は思う」


 脳裏に、僕を折檻するママの冷徹な表情や、兄ちゃんの最期の笑顔が浮かんでは消える。


「そういう人は、そんな顔しないよ」


 街の日陰の中で、さらに薄い僕らの影が重なる。


 どこかで鳴いている蝉だけが、けたたましく刹那の魂を叫んでいる。


「それでも私は……“めぐちゃん”だから」


 わたらいさんが、そっと身体を離した。


「“めぐちゃん”は、お医者さんにならなくちゃ。みんなの期待に応えなくちゃいけないの」


 その言葉は、真夏の湿った風に乗って、僕の耳の奥に泥のように沈み込んだ。


 僕らは再び歩き出す。


 僕は、手のひらの中で鍵を握り直した。

 プリンの帽子を深く被った彼女の横顔は、影になっていてもう見えない。


 遠くに、いつかのコンビニの看板が見えていた。


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