第66話 めぐちゃん
いただきますの声を合図に、食器と箸が触れ合う音が、やけに大きく響いた。
涼しげなガラスの器に盛られた冷やし中華には、鮮やかで繊細な錦糸卵に、瑞々しいきゅうりとハムが乗っている。
ご馳走だ。手間暇をかけて作られたものであることは、目に明らかだった。
「んふふっ、美味しい……!」
冷たい麺と色とりどりの具材を一緒に頬張る彼女が、笑う。
「ね、美味しいね。ぺこ」
隣に座っているわたらいさんは、ずっと口角が上がっている。かつて彼女の両親と囲んだあの食卓で浮かべていた、貼り付けたような笑顔とはまるで違う。
「あ、はい……すごく、美味しいです」
僕は、わざと向かい側に座るお祖母さんに向けて返事をした。
「……お口に合うかしら? ハヤテくん、足りなかったら言ってね」
お祖母さんの笑顔に、わたらいさんの面影が重なって見えて、すぐに目を伏せた。
自分の器に盛られた麺を、ただ無心に啜る。
錦糸卵は驚くほど甘い。卵の風味が消えてしまいそうなほど贅沢な甘みは、今の僕には喉を焼くような異物感となって迫ってきた。
口に合わないわけじゃない。けれど、この美味しさが僕を追い詰める。
この食卓に漂う、正しい家族の匂いが強すぎて、さっきまで僕の家のあの暗い廊下で、縋るように抱きしめていた彼女の感触が、急速に書き換えられていくようだった。
「……ねえ、めぐちゃん」
ふと、お祖父さんが彼女を呼んだ。
「お父さんたちのところ、午後から行く予定だけど……めぐちゃんはどうする?」
”めぐちゃん“――その親しげな響きに、僕の箸が止まる。
わたらいさんの箸も、ぴたりと止まった。
お祖父さんが取り繕うように、慌てて言葉を続ける。
「このところ色々あって疲れているだろうし、もちろん、めぐちゃんはお家でお留守番していてもいいんだよ」
“めぐちゃん”――。
その言葉を聞くたびに、僕の胸の奥で、どす黒い感情が鎌首をもたげた。
このまま、彼女がこの温かい家に留まる。
“わたらいさん”じゃなくて、僕の知らない”めぐちゃん“として、綺麗な現実だけを食べて生きていく。
それは彼女にとっての幸せなのだろう。
分かっている。
分かっているのに、僕は――。
わたらいさんは、箸で細いきゅうりを持ち上げては下ろした。
「私……私は、ぺこと一緒に……」
彼女の口からそこまで言葉が出た瞬間に、僕は遮るように声を出していた。
「『めぐちゃん』はさ、病院行きなよ。おじいちゃんとおばあちゃんと」
自分でも驚くほど、冷たく棘のある声が出た。
呼んでみたかったはずの名前を、汚すように混ぜてみる。
食卓から、音が消えたように一瞬で静まり返る。
お祖母さんの箸が止まり、お祖父さんの穏やかな眉が、わずかに動く。
すぐに、やってしまった、と思った。
看病に明け暮れる老夫婦に向かって、なんて無神経なことを言ったんだ。
でも、言わずにはいられなかった。
見ていられなかったのだ。
隣で笑っている、幸せそうな彼女を壊してしまいたかった。
どうせ僕の知らない世界へ行ってしまうなら、もうすっぱり嫌われたかった。
「……病院、ね」
わたらいさんが、呟くように繰り返す。
僕は彼女の顔を見る。
ゆっくりと箸を置き、彼女も僕を見た。
怒られると思った。
あるいは、泣かせてしまったかもしれない。
けれど、彼女はふにゃりと、変わらずあどけない笑みを浮かべた。
「行かなくちゃいけないの、”めぐちゃん“も、分かってるよ。でも、今はまだ、ぺことやりたいこといっぱいあるんだもん」
彼女は、テーブルの下、僕の太ももあたりをそっと指先で突っついた。
二人だけの秘密の合図のように。
その笑顔には、僕のすべてを見透かしたような慈愛が混ざっていた。
ヤキモチを妬いた僕のちっぽけな独占欲さえも、今の彼女には届きもしない。
彼女はもう、僕が守ってあげなければ壊れてしまう“わたらいさん”ではないのだ。
「もう、ぺこ。そんな顔しないでよ。冷やし中華、のびちゃうよ?美味しいうちに食べちゃおうよ」
僕は視線を落とし、甘すぎる錦糸卵を無理やり口に押し込んだ。
鼻の奥が熱くなる。
******
食卓を片付けるお祖母さんの背中を見送ってから、僕たちは吸い寄せられるように、また僕の家へと戻った。
僕が彼女を抱きしめていた、あの薄暗い玄関の影の中。食卓での和やかな会話の残響が、耳の奥でざらつく。
僕も彼女も、何も言わなかった。
けれど、この静寂に耐えられなかったのは、他でもない、この僕の方だった。
「……ねえ、わたらいさん」
僕は、ポケットの中で熱を持ったあの鍵を取り出す。
「もう、思いつかない。鍵穴の場所」
「……まだ決まったわけじゃないでしょ」
鍵を握ったまま固まっている僕を見て、わたらいさんはそう言った。
「建物の中だけじゃないし。外の駐輪場もあるし」
少し考えてから、彼女はさらに続ける。
「フェンスとか。ガスメーターのとこに、変な鍵ついてることもあるし」
僕は何も言えずにいる。
「全部試してみないと、わかんないじゃん」
彼女はそう言って、鍵を見た。
「……せっかく、ここまでして、お兄ちゃんが残してくれたんでしょ」
わたらいさんが、今度は僕の目を見る。
「意味なかったって決めるの、早すぎ」
僕は軽くため息を吐いた。
「確かに、そうかも」
僕は彼女の前に、そっと自分の左手を差し出す。
「ここの鍵穴、まだ見てないし」
わたらいさんは、不思議そうに僕の手元を覗き込んだ。
「……ぺこ、それ、手じゃん」
彼女の声色は、戸惑いを隠しきれていない。
「わたらいさんも。グー、作ってみて」
僕に言われるがまま、彼女が小さな拳を作る。
指と指が噛み合う、不格好で、けれど確かな隙間。
「ほら、ここ」
僕は、彼女の指の合わせ目に、親指側から鍵の先端をそっと宛がった。
「えっ、ちょっ……」
わたらいさんが、くすぐったそうに眉を寄せた。
反射的に引こうとする彼女の腕を、僕は優しく引き寄せる。
「……力抜いて」
もちろん、そこは鍵穴ではない。
深く差し込めるはずもなく、鍵は彼女の指を少しだけ押し広げたところで、すぐに止まる。
「思ったより、かたい。……ちょっと、痛い」
わたらいさんが語気を強めたので、僕は素直に鍵を引き抜いた。
「……入んない」
分かっていたはずなのに、僕の指先はほんの一瞬だけ、期待してしまっていた。
僕は、何度も違う隙間を探しては、彼女に鍵を当てる。
「合わない。全然、型が違う」
どこに当てても、鍵はただ虚しく弾かれるように、音もなく床へ滑り落ちそうになる。
「ふふっ……無理だよ、ぺこ。だって、そこ、最初から鍵穴じゃないもん」
わたらいさんが、ついに声を上げて笑い出した。
それは、さっきまでの”めぐちゃん“の慈悲深い微笑みじゃない。
僕を馬鹿にして、僕の突拍子もない行動に呆れている、僕の知っている“わたらいさん”の笑い声だ。
「バカだよね……本当、バカだ」
僕も、つられて笑った。
そうだ。僕はバカなんだ。
正しい鍵穴がどこにあるかなんて、本当はどうでもいい。
ただ、この無意味な金属を、無理やり彼女の体の一部に定義して、彼女がそれを笑って受け入れてくれる。
この歪な儀式さえあれば、僕はまだ、あの眩しい食卓の正しい世界から逃げていられる。
「次はこっち」
今度は、僕が自分の右手をグーにする。
「わたらいさんも、刺してみて」
わたらいさんは、床に落ちかけた鍵を拾い上げると、「えい」と僕の拳の隙間にそれを押し当てた。
「あ。ここ、ちょっと入るかも」
わたらいさんがはしゃぐ。
「宝箱、開いちゃうかな」
「本当だ……何が出てくるかな」
二人で顔を突き合わせて、どう考えても合わない隙間に、鍵を押し当て続ける。
「……今!」
わたらいさんが息を弾ませた。
「カチャ、って言った。ね、今、開いたよね?」
僕は答えられなかった。
ただ、変な笑いが込み上げてきて、目尻に滲んできたものが、何なのか分からなくなる。
僕たちは、狂ったみたいに笑い続けた。
そうしていないと、僕たちの特別が、あまりにもあっさりと踏み潰されてしまいそうだった。




