表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/70

第66話 めぐちゃん

 いただきますの声を合図に、食器と箸が触れ合う音が、やけに大きく響いた。


 涼しげなガラスの器に盛られた冷やし中華には、鮮やかで繊細な錦糸卵に、瑞々しいきゅうりとハムが乗っている。


 ご馳走だ。手間暇をかけて作られたものであることは、目に明らかだった。


「んふふっ、美味しい……!」

 冷たい麺と色とりどりの具材を一緒に頬張る彼女が、笑う。

「ね、美味しいね。ぺこ」


 隣に座っているわたらいさんは、ずっと口角が上がっている。かつて彼女の両親と囲んだあの食卓で浮かべていた、貼り付けたような笑顔とはまるで違う。


「あ、はい……すごく、美味しいです」

 僕は、わざと向かい側に座るお祖母さんに向けて返事をした。


「……お口に合うかしら? ハヤテくん、足りなかったら言ってね」

 お祖母さんの笑顔に、わたらいさんの面影が重なって見えて、すぐに目を伏せた。


 自分の器に盛られた麺を、ただ無心に啜る。


 錦糸卵は驚くほど甘い。卵の風味が消えてしまいそうなほど贅沢な甘みは、今の僕には喉を焼くような異物感となって迫ってきた。


 口に合わないわけじゃない。けれど、この美味しさが僕を追い詰める。


 この食卓に漂う、正しい家族の匂いが強すぎて、さっきまで僕の家のあの暗い廊下で、縋るように抱きしめていた彼女の感触が、急速に書き換えられていくようだった。


「……ねえ、めぐちゃん」

 ふと、お祖父さんが彼女を呼んだ。

「お父さんたちのところ、午後から行く予定だけど……めぐちゃんはどうする?」


 ”めぐちゃん“――その親しげな響きに、僕の箸が止まる。

 わたらいさんの箸も、ぴたりと止まった。


 お祖父さんが取り繕うように、慌てて言葉を続ける。

「このところ色々あって疲れているだろうし、もちろん、めぐちゃんはお家でお留守番していてもいいんだよ」


 “めぐちゃん”――。

 その言葉を聞くたびに、僕の胸の奥で、どす黒い感情が鎌首をもたげた。


 このまま、彼女がこの温かい家に留まる。


 “わたらいさん”じゃなくて、僕の知らない”めぐちゃん“として、綺麗な現実だけを食べて生きていく。


 それは彼女にとっての幸せなのだろう。

 分かっている。

 分かっているのに、僕は――。


 わたらいさんは、箸で細いきゅうりを持ち上げては下ろした。


「私……私は、ぺこと一緒に……」


 彼女の口からそこまで言葉が出た瞬間に、僕は遮るように声を出していた。


「『めぐちゃん』はさ、病院行きなよ。おじいちゃんとおばあちゃんと」


 自分でも驚くほど、冷たく棘のある声が出た。

 呼んでみたかったはずの名前を、汚すように混ぜてみる。


 食卓から、音が消えたように一瞬で静まり返る。

 お祖母さんの箸が止まり、お祖父さんの穏やかな眉が、わずかに動く。


 すぐに、やってしまった、と思った。

 看病に明け暮れる老夫婦に向かって、なんて無神経なことを言ったんだ。


 でも、言わずにはいられなかった。

 見ていられなかったのだ。


 隣で笑っている、幸せそうな彼女を壊してしまいたかった。

 どうせ僕の知らない世界へ行ってしまうなら、もうすっぱり嫌われたかった。


「……病院、ね」

 わたらいさんが、呟くように繰り返す。

 僕は彼女の顔を見る。

 ゆっくりと箸を置き、彼女も僕を見た。

 

 怒られると思った。

 あるいは、泣かせてしまったかもしれない。


 けれど、彼女はふにゃりと、変わらずあどけない笑みを浮かべた。


「行かなくちゃいけないの、”めぐちゃん“も、分かってるよ。でも、今はまだ、ぺことやりたいこといっぱいあるんだもん」


 彼女は、テーブルの下、僕の太ももあたりをそっと指先で突っついた。

 二人だけの秘密の合図のように。


 その笑顔には、僕のすべてを見透かしたような慈愛が混ざっていた。


 ヤキモチを妬いた僕のちっぽけな独占欲さえも、今の彼女には届きもしない。


 彼女はもう、僕が守ってあげなければ壊れてしまう“わたらいさん”ではないのだ。


「もう、ぺこ。そんな顔しないでよ。冷やし中華、のびちゃうよ?美味しいうちに食べちゃおうよ」


 僕は視線を落とし、甘すぎる錦糸卵を無理やり口に押し込んだ。

 鼻の奥が熱くなる。



******




 食卓を片付けるお祖母さんの背中を見送ってから、僕たちは吸い寄せられるように、また僕の家へと戻った。


 僕が彼女を抱きしめていた、あの薄暗い玄関の影の中。食卓での和やかな会話の残響が、耳の奥でざらつく。


 僕も彼女も、何も言わなかった。

 けれど、この静寂に耐えられなかったのは、他でもない、この僕の方だった。


「……ねえ、わたらいさん」

 僕は、ポケットの中で熱を持ったあの鍵を取り出す。

「もう、思いつかない。鍵穴の場所」


「……まだ決まったわけじゃないでしょ」

 鍵を握ったまま固まっている僕を見て、わたらいさんはそう言った。


「建物の中だけじゃないし。外の駐輪場もあるし」

 少し考えてから、彼女はさらに続ける。

「フェンスとか。ガスメーターのとこに、変な鍵ついてることもあるし」


 僕は何も言えずにいる。


「全部試してみないと、わかんないじゃん」

 彼女はそう言って、鍵を見た。

「……せっかく、ここまでして、お兄ちゃんが残してくれたんでしょ」


 わたらいさんが、今度は僕の目を見る。

「意味なかったって決めるの、早すぎ」


 僕は軽くため息を吐いた。

「確かに、そうかも」


 僕は彼女の前に、そっと自分の左手を差し出す。

「ここの鍵穴、まだ見てないし」


 わたらいさんは、不思議そうに僕の手元を覗き込んだ。


「……ぺこ、それ、手じゃん」

 彼女の声色は、戸惑いを隠しきれていない。


「わたらいさんも。グー、作ってみて」


 僕に言われるがまま、彼女が小さな拳を作る。

 指と指が噛み合う、不格好で、けれど確かな隙間。


「ほら、ここ」

 僕は、彼女の指の合わせ目に、親指側から鍵の先端をそっと宛がった。


「えっ、ちょっ……」

 わたらいさんが、くすぐったそうに眉を寄せた。


 反射的に引こうとする彼女の腕を、僕は優しく引き寄せる。

「……力抜いて」


 もちろん、そこは鍵穴ではない。

 深く差し込めるはずもなく、鍵は彼女の指を少しだけ押し広げたところで、すぐに止まる。


「思ったより、かたい。……ちょっと、痛い」


 わたらいさんが語気を強めたので、僕は素直に鍵を引き抜いた。


「……入んない」


 分かっていたはずなのに、僕の指先はほんの一瞬だけ、期待してしまっていた。



 僕は、何度も違う隙間を探しては、彼女に鍵を当てる。


「合わない。全然、型が違う」


 どこに当てても、鍵はただ虚しく弾かれるように、音もなく床へ滑り落ちそうになる。


「ふふっ……無理だよ、ぺこ。だって、そこ、最初から鍵穴じゃないもん」


 わたらいさんが、ついに声を上げて笑い出した。


 それは、さっきまでの”めぐちゃん“の慈悲深い微笑みじゃない。


 僕を馬鹿にして、僕の突拍子もない行動に呆れている、僕の知っている“わたらいさん”の笑い声だ。


「バカだよね……本当、バカだ」

 僕も、つられて笑った。


 そうだ。僕はバカなんだ。

 正しい鍵穴がどこにあるかなんて、本当はどうでもいい。


 ただ、この無意味な金属を、無理やり彼女の体の一部に定義して、彼女がそれを笑って受け入れてくれる。


 この歪な儀式さえあれば、僕はまだ、あの眩しい食卓の正しい世界から逃げていられる。


「次はこっち」

 今度は、僕が自分の右手をグーにする。

「わたらいさんも、刺してみて」


 わたらいさんは、床に落ちかけた鍵を拾い上げると、「えい」と僕の拳の隙間にそれを押し当てた。


「あ。ここ、ちょっと入るかも」

 わたらいさんがはしゃぐ。

「宝箱、開いちゃうかな」


「本当だ……何が出てくるかな」


 二人で顔を突き合わせて、どう考えても合わない隙間に、鍵を押し当て続ける。


「……今!」

 わたらいさんが息を弾ませた。

「カチャ、って言った。ね、今、開いたよね?」


 僕は答えられなかった。


 ただ、変な笑いが込み上げてきて、目尻に滲んできたものが、何なのか分からなくなる。


 僕たちは、狂ったみたいに笑い続けた。


 そうしていないと、僕たちの特別が、あまりにもあっさりと踏み潰されてしまいそうだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ