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第63話 与餌れ(よじれ)


 兄ちゃんがあの日、プラモデルに入れていた「僕を助けてくれるもの」。それは、僕を外へ逃がすための自転車の鍵ではなかった。


 僕は、冷え切ったトーストを口に運ぶ。

 無理矢理塗りつけた溶けないバターの塩気も、パンの乾いた食感も、砂を噛んでいるみたいに現実味がない。


 二人で一緒に食べる、たぶん、最初で最後の朝ごはん。

 

 わたらいさんは、時折時計を気にしながら、ゆっくりと咀嚼している。


「あのね、ぺこ。もうすぐ、おじいちゃんたちが来るかもしれない。お礼言いたいって。昨日、留守電で言ってたの、すっかり忘れてた」


 その言葉を聞いた瞬間、喉の奥がキュッと詰まった。


 彼女が、この家から居なくなってしまう。

 時間は無情に過ぎていく。


 朝食を一緒に食べたい。本当は昼食も、夕食も。その次の朝食も。

 この束の間の家族ごっこを、僕は少しでも引き延ばしたかった。


「……コーヒー、もっと飲む?」


 僕は、わたらいさんに声をかける。

 彼女は、コーヒーカップの縁を指でなぞっていた。


「砂糖も、牛乳もあるよ。それとも、紅茶の方が好きだった?」


 わたらいさんは、静かに首を振った。


 僕らは向かい合って、ママの用意した冷めた朝食を食べる。

 わたらいさんは冷めたトーストを、まるで自分に言い聞かせるように一口一口、丁寧に咀嚼していた。


「……ぺこは、いつもこういうご飯を食べてるの?」


 ずっと俯き気味だったわたらいさんが、ふいに顔を上げて僕を見た。


 そこに、責めるような響きはない。

 ただ、少しだけ困ったように、けれど優しく何かを諭すように、僕をじっと見つめている。


「あ……」

 僕は慣れっこだから、全然気がつかなかった。どう考えても、食べ始める前に、もう一度温め直すべきだったのだ。


「ご、ごめんねっ。冷めちゃったから、おいしくなかったよね。今からでも、トースターで……」


 僕は、わたらいさんのトーストを皿ごと回収しようと、慌てて手を伸ばした。


「そうじゃないよ」


 わたらいさんは、その皿を静かに自分の方へ引き寄せた。


「……それじゃあ、苦手なものがあった?うちにあるものなら、なんでも食べていいよ」


 席を立ち、冷蔵庫を開けようとした僕を、わたらいさんは止めた。座るように促され、僕は姿勢を正す。


 わたらいさんは、僕が口に運ぼうとしていたトーストを指差した。


「……おいしいよ、これ。でもね」


 彼女は少しだけ身を乗り出して、僕を覗き込む。


「ねえ。いつか、私の家でハンバーグ食べたの、覚えてる?」


 もちろん、覚えている。


 あの時、彼女がキッチンで焼いてくれた、湯気の立つハンバーグ。

 肉の焼ける匂いと、熱さで口内を焼きながら、みっともないくらいに夢中で食べた、あの味。


「あの時、ぺこ、なんて言ったか覚えてる?」


 わたらいさんが、懐かしそうに目を細めた。


「『すごく美味しいよ。だから、あったかいうちにちゃんと食べて』……そう言ってくれたんだよ」


 僕は頷く。ちゃんと、覚えている。


「あの言葉に、嘘はないよね?」


 わたらいさんの声は震えていた。


「私も、ぺこに……あったかいご飯、ちゃんと食べて欲しい」


 彼女は目の前の冷めたトーストに視線を落とした。


「こんなふうに……餌みたいに作ってただ置いておくのは、ご飯じゃないよ」


 僕は、声も出なかった。

 トーストを持ち上げたその姿勢のまま、動けない。


「……私、ぺこには、ママと一緒にあったかいご飯食べて欲しい。……いつか、ちゃんとね」


 トーストから手を離す。

 ハンバーグの熱を思い出したせいで、余計に今のトーストの冷たさが際立つような気がした。


 温め直せばいい、と思っていた僕の考えは、彼女の言うご飯とは決定的に食い違っていた。


 彼女は食事の味ではなく、そこに宿る時間の話をしているのだ。


 ママと一緒に、あったかいご飯。


 そんなささやかな日常の光景すら、今の僕にはあまりにも突飛な絵空事に思えた。

 

 ママが用意するのはいつも、僕の食欲とは関係なく並べられた冷めるのを待つだけの食事か、あるいは全く与えられないかのどちらかだ。

 

 わたらいさんの言葉は、優しくて、正しくて、だからこそ今の僕には酷く残酷な呪いのように響いた。


 彼女はもう、自分がこの食卓に座ることは二度とないのだと、暗に告げているのだ。

 

 必死になって、ここへ引き止めようとした自分が恥ずかしくなる。


「……それでも」

 僕は苦し紛れに呟く。

「冷めてもいいから、僕は、君と朝ごはん食べたかったんだ」


「本当は、美味しくないんでしょう?」

 その言葉は、僕の胸を一番深く、鋭く抉った。

「お腹が減るよりはマシって、そう思っているんでしょう」


 彼女は少しだけ言い淀んだあと、僕を真っ直ぐに見つめて付け加えた。

「……やっぱり、貰おうかな。紅茶。あったかいの、一緒に飲もうよ」


 

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