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第62話 試してみる?


 引っかかりをなぞるようにして、ゆっくりとそれを引き出す。


 きっと、僕の自転車の鍵だ。


 これがあれば、どこまでも行ける。

 自転車のロックを外して、昨日探したところより、さらに向こうまで。


 ぽとり、とスキマから落ちたそれを、僕の掌に乗せた。


 鍵だ。けれど、ママがカバンの奥にしまい込んだ僕の自転車の鍵とは違っていた。


 一回り大きく、黒ずんだ、重みのある鉄の塊。持ち手のところにオレンジ色のラバーがついていて、何か刻印されている。

 

 いつのまにか近くにいたわたらいさんが、僕の手元を覗き込む。


「……鍵? なんでそんなところから」


「……兄ちゃんが隠してたんだ。これ、僕を助けてくれるって」


 僕はそれを強く握りしめた。鍵の形を覚えるほど強く。


「それを、今、思い出したの」


 僕は、改めて手の中の鍵を見る。


「……自転車の合鍵だと思ってたんだけど、違った」


「それじゃあ、何の鍵なの?」


 わたらいさんが尋ねる。

 僕は首を横に振った。


「分からない」


 しばらく真剣な顔で鍵の先端を凝視していた僕の前に、「それ、ちょっと貸して」と、わたらいさんの手が伸びてきた。


 手渡すと、わたらいさんもまじまじとそれを見る。グリップ部に持ち替えて、差し込むための「鍵穴」を探すように部屋を見回した。


「あっ……」

 わたらいさんが呟く。


 次の瞬間、鍵の冷たい先が、服の上から僕の脇腹に押し当てられた。


「え、ちょ、なに……っ」


 ぐり、と力を込められて、意味もなく全身に力が入る。


「なになになになに……っ」


「鍵穴、ここじゃない?」


 わたらいさんは僕の顔を覗き込み、くすくすと笑った。


 くすぐったいのと、何よりその発想があまりに突飛で、僕は思わず吹き出してしまった。


「そんっ、なわけないでしょっ!」


 自分でも、声が変なところで裏返ったのが分かった。


「なんだー、違ったかー」

 心底楽しそうに、彼女は言う。

「人間の身体にはさ、穴がいっぱいあるでしょ」


「……え?」


「だから、可能性としては――」

 わたらいさんが、思いついたままの顔で鍵を構える。

「おへそ、とか」


「やめっ」

 おへそ目掛けて、ぐり、と押された瞬間、お腹に変に力が入り、僕は思わず放屁してしまう。



 一瞬の沈黙。

 お互い、理解が追いついていない。



 先にわたらいさんが、南国の鳥みたいな声を出してひっくり返った。お腹を抱えて笑っている。


「やだ〜!」


 ゲラゲラ笑いながら、彼女はまだ僕のおへそに鍵を押し付けてくる。


 くすぐったくて、恥ずかしくて、可笑しくて、僕も笑う。

 

「違っ……じっ……事故、だから……!」


 可笑しい。恥ずかしい。

 顔が熱い。

 多分、耳まで真っ赤なはずだ。


「やばー、もう……息……できなっ……」


 笑いすぎて、わたらいさんが泣いている。


 お腹が痙攣したみたいになって、息が吸えない。

 それでも、笑いは止まらなかった。


「あー無理無理、面白すぎるっ」


 わたらいさんは、笑いすぎて過呼吸になりかけている。


「……っ」


 わたらいさんの動きが、急に止まった。


「っは、ちょ、無理……っ!」


 腹を押さえたまま、彼女は半歩下がる。


「やばい、やばい、だめ……!」


「な、なにが……!」


「笑いすぎ……てっ、出る……!」


「何が!」


「色々!」


 そう叫んで、わたらいさんは笑い声を撒き散らしながら、ほとんど転げるように廊下を駆けていった。


「ちょ、待って、なになにどうしたのっ?説明して!」


 追いかけるけど、返事はない。


 彼女が飛び込んだトイレのドアが、目の前でバタンとしまる。


 すぐに内側から、断末魔みたいな笑い声が聞こえてきた。


 僕は、鍵を握ったまま、廊下で固まる。


「……全部、この鍵が悪い」

 誰に言うでもなく、僕は呟いた。


 腹の奥が、まだひくひくしている。

 笑いすぎて、息が苦しい。


 馬鹿だ。

 朝から。

 ほんとに。




 兄ちゃんの部屋に戻って、床に座る。


 さっきまであんなに笑っていたのに。

 笑い声が止むと、首元の銀の鎖がまた急激に冷たさを取り戻したような気がした。


 しばらくすると、トイレの水を流す音がして、戻ってきたわたらいさんも隣に座った。

 

「なんか、ごめん……」

 真顔のわたらいさんが呟く。


「……朝ごはん、食べてないからだ」

 僕も呟く。


「私、寝起きだし」


 僕は鍵を掲げる。

「全部、この鍵が悪い」


「人をバカにする鍵」

 わたらいさんが鍵を指差す。

「呪いの鍵じゃん」


「兄ちゃんの呪い」

 僕は吐き捨てるように言う。

「ネックレスも、なんかムカつくし」


 二人して、大きくため息をついた。


「全部兄ちゃんが悪い」


 僕の発言に、わたらいさんが真顔で頷く。


「何、偉そうに人を指差してたんだ」

 僕は昨夜の過呼吸のことを思い出す。

「次出てきたら、中指、立ててやるから」


 飾り棚に向かって、実演までしてみせる。


「やるじゃん」

 わたらいさんも真似した。


 それから、二人で顔を見合わせた。


「もう一回隠そうか」

 僕は鍵を持て余し、高く放り投げてはキャッチする。

「たぶん、だめなやつだ。これ」


「一緒にプラモデル買いに行く?」

 わたらいさんが鍵の動きを目で追う。

「でも、自転車ないよ。徒歩では遠すぎるし」


「……」

 僕は絶句して、絶叫する。

「んんああああああ!!」


 二人で頭を抱えて、どちらともなく笑った。


「ママが帰ってきたら、自転車の鍵を返してくれるって言うし……」

 それを信じていいのかどうかは、正直言って僕にも分からない。


「それでも……やるだけやって、試してみてもいいんじゃない?」

 わたらいさんが言った。

「気になる、それ。なんの鍵なのか」


 僕は鍵を構えて、わたらいさんに一歩詰め寄る。


「試してみる?」


 そう言った瞬間、わたらいさんは笑いながら身を翻した。


「きゃー、やだやだっ」


 廊下に足音が跳ね、二人で駆け出す。

 僕は、彼女の背中を、脇腹を、二の腕を、手当たり次第に鍵の先で突いた。


「あはは!やだやだ、やめてぺこ」


 その一瞬だけ、僕は首元の鎖の重みを忘れていた。


 僕たちはそのまま、家中を巡った。

 リビングの窓のサッシ、キッチンの収納、洗面所の戸棚。挙句の果てには玄関を飛び出し、マンションの駐輪場にある他人の自転車のロックまで、片っ端からこの魔法の鍵を差し込んで回った。


 けれど、どこにも合わない。

 

 カチリ、とも言わない。

 差し込むことすらできない。

 僕の自転車の鍵穴にも、当然、それは合わなかった。

 

 ――気づいたら、僕たちは立ち止まっていた。

 

 もう、笑っていない。

 何事もなかったみたいに、静かにリビングへ戻った。

 光が差し込む食卓には、ママが残した冷めた朝食が置かれたままだ。


 二人とも、それを無心で噛み締めた。


「……全然、見つからないね」

 咀嚼したトーストを飲みこんだわたらいさんが、ぽつりと呟く。


 僕は頷き、改めて鍵を見る。

 持ち手のところにオレンジ色のラバーが被せられていて、見たことがないロゴが刻まれていた。

いつも読んでいただきありがとうございます。

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