第61話 探る指先
ママは満足げにトーストを咀嚼し、いつのまにか注いだ冷めたコーヒーの2杯目を最後の一滴まで飲み干した。その所作はどこまでも優雅で、首元に鎖を戻された僕の絶望など、最初からなかったかのようだった。
「大変、もう会社行かなくちゃ。……お皿、洗ってくれるわよね?」
ママは時計に目をやると、立ち上がって、シンクに洗い物を運んだ。
そのまま、自分の部屋へ向かおうとする。
ママの腕に、僕は反射的に縋り付いた。
「待って、ママ! 僕、『戻った』んだから……だから鍵を返して!」
「ダメよ。恵ちゃんもあんたも病み上がりなんだから、今日はお家で大人しくしてなさい」
ママは動きにくそうにしながらリビングの扉を出て、廊下を行く。
「それに、今日も恵ちゃんのご祖父母さまと入れ違いになったら大変でしょう?」
ママの発言は正しいことばかりだ。
「でも……!」
それでも僕は、ここで引くわけには行かない。
「返してよ!今日は大人しく留守番する。いい子にするから!お願い、返して!」
ママが、自室の前で立ち止まる。
「返すも何も……あんたがママに『預かって』って渡したんじゃない。忘れたの?」
ママの瞳が、凍てつくような無情を湛えて僕を射抜く。
僕が、渡した……?
そんなはずはない。
きっと、またママが僕を丸め込もうとしているんだ。
僕は負けじとママの目を見る。それなのに、ママに縋りつく僕の腕から、少しずつ力が抜けていく。
ママの目を見ていると、自分の記憶の方が脆く崩れていく感覚に陥る。
そんな……そんなはずは……。
その時、僕の脳裏に断片的な映像が浮かんだ。
兄ちゃんを亡くしてから、まだそんなに日が経っていない頃。
泣きじゃくる僕。
こんなものいらない、乗りたくないと自転車の鍵をママに押し付ける僕。
ママの困ったような顔。
これが確かな記憶なのか、僕のいつもの空想癖なのか、確かめようもない。
呆然とする僕をすり抜けて、ママは自室へ滑り込む。
「着替えるから、閉めるわよ」
ママが顔を覗かせたその僅かな隙間から、部屋の隅に置かれた、黒い金属製の骨組みが目に入った。
きっと最新の健康器具か何かだろうけれど、そんなことを考える余裕は今の僕にはなかった。
パタン、とママが自室のドアを閉める。
ほどなくして、完璧な身なりに整えたママが部屋を出て、玄関へ向かう。
「……返さないとは言ってないでしょう?お仕事が終わったら、渡すから」
これ見よがしに僕の鍵をかざしたママが、それを自分のカバンの奥へとしまい込む。
そのまま、出勤するつもりなのだ。
「行ってきますのキスは?」
ママが言う。そんなの、一度もしたことない。
僕が無視して玄関に立ち尽くしていると、玄関のドアが閉まる。次いで、カチャリ、と外から鍵をかけられる音が、静まり返った廊下に冷たく響いた。
僕は、自分の家の中に閉じ込められたんだ。
「……ぺこ?」
そう呼びかけられるまで、どのくらいそこに立っていたのか、自分でも分からない。
扉が開く音と同時に、背後から眠気の残る掠れた声がした。
振り返ると、兄ちゃんの部屋の前、まだ部屋着姿のわたらいさんが、目をこすりながら立っていた。
「なんか……口の中がぱさぱさする……」
僕はたまらず、彼女の方へ駆け出す。
決して狭くはない廊下に肩をぶつけながら、彼女の細い腕の中に飛び込んだ。
「……お水、すぐ持ってくる」
そう言ったのに、身体が言うことを聞かない。腕は、しがみつくように彼女の服を掴んだままだ。
どうして、こんなことを言ったのかは自分でも分からない。口が先に動いただけだった。
どんなに縋りついても、ネックレスの銀の鎖が、僕と彼女の間に挟まって固く冷たく存在を主張する。
「どうしたの、そんなに震えて」
わたらいさんが、僕の背中に手を添える。
「僕、自転車に乗れないんだ……。鍵があっても、乗れない。あの日からずっと……」
幼い頃の、あの記憶。
自転車で兄から逃げた、罪悪感。
情けない告白に、わたらいさんは僕の背中を優しく撫でながら、拍子抜けするような声を上げた。
「……え、そうなの? 補助輪、まだ外してなかったとか?」
あまりに場違いなそのおとぼけに、僕の心臓の早鐘が、ふっと緩んだ。
「……補助輪?」
思わず聞き返すと、わたらいさんは僕を抱きしめたまま、真面目な顔で頷いた。
「そう。私も補助輪外すとき、この世の終わりみたいに泣いたから」
わたらいさんが僕の肩に顔を埋める。
「パパと練習したんだけど……こんなの絶対無理って思ったもん……」
わたらいさんが身体を離して、僕の目を見る。
「ずっとパパと二人乗りするから、もう乗れなくてもいいって、私、泣いたの」
わたらいさんは、僕の首元には一切触れなかった。
代わりに、服の背中だけを掴んでいる。
「ぺこ、朝ごはん食べた?」
「……まだ。一緒に食べたい」
「うん」
どちらともなく手を繋いだ。
「……僕の兄ちゃんも、そうだった」
僕は呟く。おかしくて、悲しくて、なんだか懐かしくて、鼻の奥がツンとした。
「自転車の練習も、二人乗りも。兄ちゃんの自転車はいつも、風を切って、どこまでも僕を連れ出してくれた……」
あの暗いクローゼットから引っ張り出してくれた日もそうだった。
僕はあの後、宣言通りにガチャガチャをやらせてもらった。
それからフードコートでご飯を食べて、兄ちゃんは、おもちゃコーナーで珍しくプラモデルを買っていた。
帰宅してから、プラモデルは兄ちゃんが作り、僕にシールを貼らせてくれた――。
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「ママは、俺の部屋は全部調べるけど、おもちゃの中までは見ないだろ?」
兄ちゃんが、飾り棚の下段の、作りたてのプラモデルを指差す。
「いいか、颯。ここに隠しておくからな」
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僕の思考をずっと縛り付けていたママの呪縛に、まるで小さな亀裂が入ったみたいに。
その指先が示していた方向を、今の僕の脳が、猛烈な勢いで復元し始める。
脳内で、昨夜の過呼吸の瞬間に見た映像が、修復されていく。
あの時、兄ちゃんの幻影が指差していたのは、シャボン玉でも、死にかけていた僕でもなかったとしたら――。
「プラモデル……」
僕は思わず呟いていた。
そうだ。
きっと、あそこだ。
わたらいさんの体温に触れながら、ママが植え付けた嘘の記憶がパリンと音を立てて割れた。
泣きながら鍵を返した記憶なんて、どこにもない。
あの日、兄ちゃんは僕をクローゼットから引っ張り出して、笑ってこう言ったんだ。
――これは、お前を、いつか助けてくれる。
「……わたらいさん、ちょっと待ってて」
僕は彼女の腕をすり抜け、兄ちゃんの部屋に飛び込む。
棚の下段のプラモデルへと手を伸ばした。
――どうせ、いつか壊すんだから。
これは、ほとんど賭けだった。
本当に、この中に隠されているという保証はない。
僕の記憶違いかもしれないし、本当に隠されていたけれど、ママが既に取り除いた後かもしれない。
「何してんの?ぺこ」
わたらいさんが首を傾げる。
僕は答えず、プラモデルの比較的脆い関節部から、取り外していく。
トルソーみたいな状態から、わずかな隙間に爪を差し込んで、胴体をこじ開ける。
無理矢理開くと同時に、バキッ、と修復不能な音がして、わたらいさんが「あっ、壊した」と小さく漏らす。
目視するのが怖くて、こじ開けた隙間からそっと指を突っ込んでみる。探る僕の指先に、剥き出しの、本物の金属の冷たさが触れた。




