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第60話 空っぽの確認


 ママがゆっくりと姿勢を戻し、椅子に深く座り直す。

 僕の喉が、ひくりと鳴った。


「……返して」


 その声は、自分でも驚くほど小さかった。

 お願いとも命令ともつかない。偶然漏れてしまった音みたいだ。


 言っても無駄だと分かっているけれど、それでも言えば何か変わるかもしれないから。


 ママは一瞬、きょとんとした顔をした。

 それから、笑ったときみたいに、ゆっくりと目を細める。


「何を?」


 分かっているくせに。

 そう思ったけれど、言葉にはできなかった。

 ママが自分の方へ引き寄せた鍵を見たまま、僕はもう一度だけ口を開く。


「……それ」


 ママは鍵を指先でつまみ上げ、光に透かすみたいに眺めた。


「これ?」

 わざとらしいほど、穏やかな声。

「どうして?」


 僕は瞬時に頭の中で考えを巡らせる。

 正直に話したところで、ママの正論に潰されて終わりだ。


「お礼、言いに行きたくて……」


 火傷を見て、病院まで送ってくれたタクシー運転手さんにお礼を言いに行きたい。

 会えるかどうかはわからないけれど、今日も近くのコンビニで客待ちしてるかもしれないから、そこへ行きたい。


 僕はもっともらしい理由を必死に並べた。


 ママは口を挟むこともなく、黙って聞いている。


 だから、自転車の鍵を……と僕が言いかけた時に、ママがぽつりと言った。


「猫ちゃん、見つかってないんだものね」

 ママが僕の目をじっと見つめる。

「『わたらいさん』も一緒に、でしょう」


 ママの口からその呼び方が出たことに、嫌悪感すら覚えたが、堪える。


「……わたらいさんが、一緒に着いてくるかどうかは、分からないけど……とにかく、僕は直接お礼が言いたいんだ」

 僕は声が震えないように、ぐっとお腹に力を込める。

「それが、そんなにおかしいことなの?」


 ママの口元が緩やかな弧を描いた。


「そうね、『それ』は何もおかしくないわ。ママが教えた通り、世間に顔向けできないような無礼な真似はしたくないってことだものね」


 ママは僕を食卓に座るよう促した。

 向かい合わせに座る。


「ちゃんと、いつもの颯だって、ママに見せて」


 ママが、僕のコーヒーカップにコーヒーを注ぐ。すっかり冷めてしまって、湯気は立たない。ここにあるすべての料理がそうだった。


 完璧だった一瞬も、今や過去のものになりつつある。


「心配だから。確認させて」


 ママは僕の顔をじっと見ながら、自分のコーヒーを飲んだ。


 僕はその言葉の意味が分からないまま、それでも自分のコーヒーカップを持ち上げる。


 手が震え、コーヒーが暴れた。

 僕が一口飲んだのを確認すると、ママはゆっくりと立ち上がり、僕の背後に回り込んだ。


 それが何を意味するのか。これから何が起こるのか。それは、頭ではまだ理解できていない。

 それなのに、身体だけが先に何かを察して、じわりと力を失っていく。


 コーヒーカップがひどく重く感じられた。やっとの思いでソーサーに戻すとき、ガチャッと大きな音を立ててしまった。


 背後に立ったママの気配が、近い。吐息が、首筋にかかるほど。


 逃げたい。立ち上がろうとしたはずなのに、足に力が入らない。腰を浮かせることもできない。


「大丈夫よ」


 耳元で囁くママの声は、なだめるみたいに優しい。

 肩を揉むみたいに両手を置かれて、その手が少しずつ僕の首へ上ってきた。


 手はすぐに離れていく。


「じっとしてて。すぐ終わるから」


 何が始まるのかも分からないまま、僕は小さく息を詰めた。


 背後から、微かに金属が擦れるカチャ、と小さな音がした。

 次いで、何かが外される気配。


 僕はこの音を知っている。

 このままではダメだと分かるのに、身体がまるで言うことをきかなくなる。


 ママの手がこちらに回され、胸にチェーンの微かな重みが確かに触れる。


 喉の奥が、引き攣る。息ができない。


「……颯」


 名前を呼ばれている。僕の名前。


「これで、いつもの颯に戻れるわよね?」

 これが確かに今、僕の身に起きている出来事だと無理矢理認識させるように囁かれる。

 冷たい感触が、首元に触れ、音もなく巻きつく。


「……っ、あ……」


 ネックレスの留め具の音が止まると同時に、首元に冷たさだけが残った。


 外せるかどうかは、考えないようにした。


 息を吸おうとしているのに、胸がうまく膨らまない。背もたれに体重を預けないと、座っていることすら辛かった。


 それでも、ママは何も言わない。

 ママの頬が、僕のこめかみのすぐ横にある。触れられていないのに、逃げ場がなかった。


「ほら、苦しくないでしょう?」


 ママが、食卓の自分の席に戻る。少し離れた場所から、僕を一度だけ眺めた。


「……うん」


 それだけだった。

 納得したみたいに、小さく頷く。


「ちゃんと戻ってる」


 そう言って、ママは何事もなかったようにカップを持ち上げた。もう冷めたコーヒーすら入っていない、空っぽのカップ。それを一口飲むように、動かした。


「それじゃあ、朝ごはんを食べましょうか。ママは仕事に行かなくちゃ。時間がなくなってしまうわ」


 鍵は、まだママの手の届くところにある。

 僕はそれを見ていることしかできなかった。


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