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溶けて、くっついちゃうの


「いらっしゃい」

 わたらいさんがわざとらしく、芝居がかった仕草で扉を開く。今の今まで鼻血を出して泣いていた癖に。


「ねえ、君のママにはなんて説明するの?帰ったはずの僕がまた居たら、変に思われるよ」

 返事はなく、僕は強引に部屋へ押し込まれる。ふたりで廊下を進み、鼻血の手当は洗面所で行われることになった。


「タオルか、何かない?手についた血を洗った方がいいよ」

 そう声を掛けても、彼女は返事をしない。僕を鏡のついた洗面所の蛇口の前に連れて行き、流水で流しながら、僕の指に貼りついた溶けたビニールを丁寧に剥がし始めた。


「いいよ、いいよ。こんなのなんでもないよ。僕は大丈夫だから。君は血が出てるんだから」


 それでも、彼女は僕の指先を気にしていた。さっきの一件もあり、僕も振り払うことはできなかった。ビニールは容易に剥がれたが、指先には熱を持った赤みが残った。


 「……ごめんなさい」と、わたらいさんがつぶやいた。

 彼女が何に対して謝っているのか、僕にはまるで分からない。蛇口から流れる水が排水口に吸い込まれ、溺れるような音だけが響く。


「時々、こういうことが起きるの」

 わたらいさんは蛇口を止めて、僕の手を乾いたタオルで包んだ。


 僕が「こういうことって?」と聞くと、わたらいさんは「溶けて、くっついちゃうの」と答えた。


 それから彼女は、鏡に映る自分の姿でようやく鼻血を思い出したようで、水で顔を洗ったり、タオルで押さえたりしていた。


「ちょっと……私、あんな顔で喋ってたの?」

 恥ずかしいと小さく呟いたその顔は、少し頬が赤くなっていたように見えた。


「ごめん、僕が……」

 謝罪の言葉は、最後まで言えなかった。鼻を押さえた白いタオルには、血が微かに滲んでいる。その小さなシミが、まるで僕の胸に開いた穴のように感じられた。


「大丈夫だよ、血はもう止まったから」

 わたらいさんは、僕の目を見てそう言った。


 タオルを洗濯機に押し込むと、わたらいさんは僕の方に向き直った。いつもの、貼り付けたような笑顔がそこにあった。

「それじゃあ、いよいよごはんだね。ママのお手伝いしないと」


 僕はただ頷いた。台所へ向かう彼女の後を大人しく着いていく。


 台所では、エプロンをつけたわたらいさんのお母さんが無表情でひき肉を捏ねていた。僕たちが入ってきても、視線一つ寄越さない。


「玉ねぎ、私が切るね」

 わたらいさんは慣れた様子で冷蔵庫から玉ねぎを取り出し、お母さんの隣に立った。


「あやせくんが忘れ物しちゃって、戻ってきたの。せっかくだから、一緒にごはん食べるって」

 彼女はお母さんに近づき、小声で事務的に告げた。


 お母さんは、肉を捏ねる手を止めず、「そう」とだけ答えた。それ以上、何も言わない。


「あやせくんは、そこで座ってて。すぐできるから」

 彼女は、僕をリビングの隅にあるソファに座らせた。


 部屋には大型のテレビがつき、その画面をわたらいさんの父親が、やはり無表情で見つめていた。僕と目が合っても、彼は何の反応も示さない。あまりの居心地の悪さに、消えてしまいたいとすら思った。


 それでも、ここから逃げられない。逃げてはいけない。わたらいさんは、助けを求めていた。今度こそ、僕が救えるかもしれない。


 頭ではそう考えているけれど、台所から聞こえる玉ねぎを刻む鈍い音と、テレビから流れる聞き取れないニュースの声、それらの現実の音が僕の思考を麻痺させた。


 そして、遠い昔の記憶を呼び覚ます。



*********************


 あの日のことを、今でもときどき思い出す。忘れろという方が無理な話だった。


 リビングの空気が針金みたいに張りつめて、ママの顔がひきつっていた。テレビも消えていて、時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。

 あの日の一部始終を覚えている。けれど、なぜか怒鳴られた理由は思い出せない。


 些細なことだったと思う。英語のテストの単語を一つ間違えたとか、たぶん、それくらいのこと。 怒鳴り声も、叩かれる手も、いつも通りだった。


 ほんの、何かの弾みだったんだと思う。ママが物差しで僕の手の甲をピシャリと打ちつけた、その拍子だった。


 僕の胸元から、カチャッという軽い音がした。 細いチェーンが切れて、小さな銀色のカプセルが勢いよく弾けた。兄ちゃんの遺骨を散らしながら、ネックレスが床に転がった。


 中に入っていたものが床に、その目地に、細かくこぼれた。


 「あ」と僕が呟いた。時間が止まったように、ママの動きが硬直した。 「あああああっ」とママが叫んだ。


 僕は叩かれるのも忘れて、這いつくばった。指の腹で、一粒ずつ、一粒ずつ。 白くて、軽くて、柔らかい塵のようなもの。それが何か、子どもでも知っていた。


 兄ちゃんの骨。焼かれたあと、ママが「形見だから」って、いつも僕の首にかけていた。


「退きなさい!」


 ママは僕の手を払いのけて、自分も床に伏せた。涙も見えなかった。震えていた。


「ごめんなさい……」

 僕が謝るのも取り合わず、ママは指の先で床をこすっていた。


「ごめんなさい、ママ……」

 これがどれだけ悪いことなのか、子供心に分かっていた。お仕置きが怖くて、僕は泣いてしまう。


 ママは何も言わない。


 床に這いつくばっていたママは、指先じゃ足りないとでも思ったのか、やがて——口をつけた。こぼした辺りに、すがりつくみたいに、何度も、そっと唇を押しつけた。


 その姿が、怖かった。


 そのうち、落としたものを舌先で確かめるみたいに。何度も、何度も——。


 僕は怖かった。


 あのとき、ママは完全に壊れた。そう思う。 兄ちゃんの骨を探して泣いたママは、本当に兄ちゃんを愛していたんだ。


 そして、壊れたママはそれでもなお兄ちゃんを手放せなかった。


 だから、ママあのネックレスを僕に託した。


 ママ自身がつけてしまえば、自分の胸元に隠れて見えなくなる。

 けれど、僕が身につけていれば、いつも目に入る。目の前に、生きていた兄ちゃんの証が確かに存在する。


 ママは僕を見ながら、兄ちゃんを想っている。そしてきっと、心のどこかでいつも僕に問いかけていた。


 ——颯は、遥の代わりになれるの?


 僕は首を振る。できるわけがない。

 それでも僕はママの望みを叶えたくて、奪ってしまったものの埋め合わせがしたくて、今日も単語帳を開く。


 ママだけが間違っていたとは、思えなかった。


 壊れたのは、ママの心だけじゃない。おそらく僕らは家族まるごと、もうとっくに壊れていた。


 僕はその欠片を抱えて、生きているだけだ。


 兄ちゃんの骨が入っていたネックレスを、僕は今日も首にかける。

 本当は重いし、怖いし、辛い。


 ママが見ているのは、僕じゃない。僕のなかの兄ちゃんだけだ。

 だったら、せめて。兄ちゃんの代わりのふりをしてでも、僕を見てほしいと思った。


 いつか、ママの目が、その奥にある僕自身に届く日を。

 僕はずっと、ずっと待っている。


「ママ、僕はここにいるよ」


 そう言いたいのに、声には出せないまま。


*********************




 僕の指先に残ったひりつきが、あの日の熱と記憶を否応なく結びつけた。


 わたらいさんも、きっと同じなんだ。彼女はお父さんとお母さんのその目が、彼女自身に届く日を待っているんだ。


 居心地の悪いソファが僕を絡めとるように沈む。テレビの音を起点にだんだんと悪夢みたいな現実へ引き戻す。


「もうすぐできるよ!」


 わたらいさんの不自然な明るい声が、「たすけて」に聞こえた。

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