第57話 檻の中の鍵
出すものを出して、クリアになった頭に、一瞬でいろんな考えがよぎる。
今、ここでトイレの水を流してしまえば、音でママに気がつかれてしまうのではないか。
僕はトイレのレバーに指を引っ掛けたまま、それ引くのをためらっていた。
リビングのママは相変わらず鼻歌が続いていて、着々と朝食の準備が進んでいくように、食器の擦れた音、何かを焼く油の弾ける音が聞こえてくる。
いつも通りの朝。
ママは昨夜のことをすべてなかったこととして、いつも通りの朝を始めようとしている。
僕の気持ちも存在も、完全に透明化されていく。それが、たまらなく悔しくて、ぐっと下唇を噛み締めた。
僕は強い決意を込めて、トイレのレバーを引いた。ママがそのつもりなら、僕だっていつも通りの朝を始めてやる。
僕はここにいる。
どんな顔してこっちに来るのか、望むところだ。
勢いよく流れる水の音が、静かな朝の廊下に大きく響き渡る。
リビングからの鼻歌が、ぴたりと止まった。
リビングのドアが開いて、スリッパが廊下を叩く音が近づいてくる。押し潰されそうな緊張感に、僕は鍵をかけたままドアノブを握りしめた。
足音は、トイレの扉のすぐ向こう側で止まった。薄いドア一枚を隔てて、ママの気配が確かにそこにある。
「おはよう、よく眠れたかしら?」
それは、受け取る相手を図りかねているような、曖昧な挨拶だった。
ママは今トイレの中にいるのが僕だと特定しているわけではないようだ。
だから、僕に向けられているようでもあり、わたらいさんに向けられているようでもある。
「朝食の用意ができているから。支度が済んだら、リビングに来なさいね」
返事を待つこともなく、足音は軽やかにリビングへと戻っていく。
今起きてトイレに居るのが誰かなんて、ママにはどうでもいいのだ。
「おはよう」を言う誰かがそこにいれば、ママの完璧な朝は成立してしまう。
だったら、好きにすればいい。
僕はママの気配が完全にリビングに消えるのを待ってから、できるだけ静かにドアを開けた。
向かうのはリビングとは逆方向、自分の部屋だ。
物心ついた時から身体に染みついた防衛本能が、僕の思考が追いつくよりも先に身体を動かしていた。
心臓の音が、うるさいほどに鳴り響いている。
難なく自分の部屋に滑り込み、ドアを閉める。一息つく間もなく、僕は部屋中の引き出しを開け、片っ端から漁り始めた。
ない。ない。ない。
どこにもない。僕の自転車の鍵。
最後に乗ったのはいつだっけ?
その時、鍵はどこへしまったっけ?
思い出せない、何ひとつ。
何か嫌な気持ちを封じ込めるかのように、僕自身を守るかのように、どうしても自転車とその鍵に対する記憶が戻ってこない。
必死に掻き回した引き出しの奥。空っぽの指先が、虚しく空を切る。
不意に、視界の端でクローゼットの扉が揺れた気がした。
クローゼット。
ああ、そうだ。
あそこに閉じ込められていた時も、僕はこうして、真っ暗闇の中で出口を探して爪を立てていたんだ。
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怒られたきっかけが、何だったのかも思い出せない。でも、どうせ些細なことだろう。
お仕置きと称して、部屋のクローゼットに閉じ込められて、暗闇の中、僕はただ泣きながら許しを乞うしかなかった。
「ハヤテ、大丈夫か」
そんな絶望の隙間から差し込んだ強い光。久しぶりの光が眩しくて、目を細めてしまう。
光を背負う兄ちゃんが、クローゼットを開けてくれたのが分かった。
「ママは仕事に行ったからさ、そんなとこに居るの退屈だろ?遊びに行こうぜ」
そう言って、兄ちゃんは僕を暗闇から引っ張り出してくれた。
「……え、学校は?」
僕が聞いても、兄ちゃんは答えなかった。
「僕が泣いていたせいで、行けなかったの?」
「違う、サボった」
兄ちゃんは短く答えた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった僕の顔を、ティッシュで拭いてくれる。
「どうせママは、お前がおとなしくここに隠れてると思ってるから、大丈夫。な?遊びに行こう」
「そんなのダメだよ」と、最後まで抵抗した僕を自転車の後ろに乗せて、兄ちゃんは風を切って走った。
「イオン行くか?ガチャガチャ、いっぱいやっていいぞ」
荷台に2人乗りでしがみつく僕に、兄ちゃんが言う。
「ねえ、自転車の鍵が家になかったら、ママに気づかれちゃうよ」
泣きそうな声で僕は訴える。
「やっぱり、帰ろうよ」
そんな僕の不安を吹き飛ばすように、兄ちゃんは高らかに笑った。
「大丈夫だって!これは合鍵だから。本物の鍵はいつもの鍵置き場に置いたまま。
こういう時のために、ママでも絶対に見つけられない場所に隠してあるんだ」
「それって、どこ?」
遠い記憶の中の兄ちゃんが、いたずらっぽく笑ってその場所を得意げに話す。
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思い出せない。
もう少しで、全部思い出せそうなのに。
まるで、ママが望む完璧な息子になる過程で、その支配に都合の悪い記憶など消されてしまったみたいに。
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「……合鍵?ねえ、それじゃあ自転車は?」
僕の声が聞こえているはずなのに、兄ちゃんは何も答えない。
僕はふと、足元の自転車を見つめる。
「ねえ、自転車は一台しかないよ? 駐輪場にこれがないって気づいたら、やっぱりママは怒るよ」
兄ちゃんの笑いが、ぴたりと止まった。
「……あ」
自信満々だった兄ちゃんが、間の抜けた声を出す。
鍵を二つ用意することに全神経を注ぎすぎて、肝心の自転車本体が消えるという物理的な矛盾に、今の今まで気づいていなかったのだ。
改めて僕は尋ねる。
「ねえ、自転車……」
「……うるせぇ」
兄ちゃんが呟く。
「それ以上言ったらもう一度クローゼットに押し込むからな」
照れ隠しの乱暴な言葉。
兄ちゃんも完璧じゃない。僕と同じ、ただの子供なんだ。
その事実が、なんだか可笑しくて、僕は兄ちゃんの背中に顔を押し当てて小さく笑った。
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ドアを隔てた廊下から、ママの足音が再び近づいてくる。
「何度も呼ばせないで。ふたりとも、朝食が冷めてしまうわ」
逃げ場のない、僕の部屋。
抜け出すための鍵が見つからない。
かつて兄ちゃんが僕を救い出してくれたあのクローゼットの扉を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。




