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第55話 ゆめうつつ

 ふと目が覚めたとき、天井が遠すぎた。


 ――あ、床だ。


 さらに気づく。すぐ隣に、わたらいさんがいる。


 床に直接横たわる僕らの上に、かろうじて掛け布団が広げられていて、彼女は横向きに眠っていた。


 兄ちゃんの部屋の、朝になりきれない薄い光の中。


 寝息は静かで規則正しく、長いまつげは、伏せられたまま微動だにしない。


 わたらいさんが、眠ってる。


 それだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 昨夜のことを、思い出す。

 呼吸。シャボン玉。


 僕の名前を呼ぶ彼女の声を思い出しただけで、喉の奥が熱くなる。


 動いたら、壊れそうだった。

 今の距離も、温度も、全部。


 だから、ただ見ていた。


 わたらいさんの髪が、頬にかかっている。赤ちゃんみたいな寝顔が無防備だ。


 もう、二度とないかもしれない。彼女が、僕の隣で眠ってくれることなんて。

 

 そう思った瞬間、彼女が小さく身じろぎをした。布団の中で、もぞもぞと近づく気配の後に、ぐっと顔の位置が近づく。


 その瞬間。


 ……ふ、と、柔らかいものが、唇に触れた。声にならなかった。心臓が跳ね、息が止まる。


「……っ」


 触れたというより、瞬きするよりも短い、ほんの一瞬、当たっただけ。


 わたらいさんは、何も知らないまま、また静かな寝息に戻っている。眉も、口元も、さっきと同じ。


 夢なのかな。


 そう思いたかったのに、唇に残るわずかな温度は、どうしても消えなかった。


 動けない。動いたら、全部が終わってしまいそうで。


 布団の中で、指先が震える。愛おしくて、仕方なかった。


 こんなふうに眠っている人が、昨日、僕の名前を呼んでくれた。助けてくれた。

 それだけで、十分なのに。


 声にしなかった言葉が、胸の中で膨らむ。


 ずっと一緒にいたい。どこにも行かないでほしい。


 そんなことをひとりで考えるのは、きっと、ずるいことだ。


 わたらいさんが、寝ぼけたまま、少しだけ眉を寄せた。


「……ん……」


 小さな、寝言。意味のない音。それなのに、胸がいっぱいになる。


 僕は布団の端をそっと掴んで、頭までそれを被り、目を閉じた。


 これ以上、何も起きなくていい。この朝が、ただ、静かに過ぎてくれればいい。


 もう一度眠ろう。起きたときも、彼女はまだ無防備に隣に眠ってる気がした。


 部屋の外の気配なんて、もうどうでもよかった。






******


 数分だったのか、数十分だったのか。再び意識が浮上したのは、布団が動いたからだった。


 隣で、わたらいさんが小さく身じろぎをしている。寝返りというには、何か目的があるような動き。


「……はや、て……」


 名前が、溢れた。はっきりとした発音ではなくて、喉の奥で転がしたみたいな柔らかい音。


 心臓が、ぎゅっと縮む。


「……ハヤテ……」


 今度は、さっきよりも少しだけ強く呼ばれる。


 次の瞬間、布団の中で、腕が伸びてきた。探るみたいに空を掴んで、それから、僕の服の肩の辺りを掴む。

 

 そのまま、ぎゅっと引き寄せられた。


「……っ」


 声を出しそうになって、慌てて息を殺す。

 わたらいさんは、目を閉じたまま完全に、寝ている。


 それなのに。

 彼女は、僕の肩に顔を埋めて、服の端をきゅっと歯で噛んだ。


「……ん、んむ……」


 ……噛んでる。

 引っ張るでもなく、ちょっと困ったみたいに甘噛みしている。


 ――なに……?なんか、食べる夢……?


 状況が可笑しいはずなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 僕を逃がす気は、まったくないらしい。ずっと、しがみついている。


 急に噛んでいた力が抜けて、口がぱっと離れる。唇が微かに震えていた。


「……やだ……」


 震えている、小さな声。


「……よじ、れ……っ」


 彼女の飼い猫の名前。

 夢の中でも会えないのだろうか。

 泣きそうな声で、彼女の指が僕の服をさらに強く掴む。今度は僕の胸に額を押しつけてきた。


「……ハヤテ……!」


 また、僕の名前。

 今度は、縋るみたいに呼んでいる。


 喉の奥が、きゅっと鳴った。


 ――ああ。

 僕は、今、守られているんじゃない。必要とされている。


 それが、こんなにも、安心できることだなんて。


 彼女は、眠ったまま、泣いていた。声は出さない。ただ、まつげの端が濡れていく。


 僕は、そっと、彼女の背中に手を回した。

 抱きしめる、まではいかない。ただ、彼女が僕にしてくれたように、そっと、手を置く。

 

「……大丈夫だよ」


 聞こえないと分かっていて、それでも囁く。


「ここにいるよ」


 わたらいさんの呼吸が、少しだけ落ち着いた。服を掴む力が、ほんのわずかに緩むけど、離れはしない。


 まるで、本当に僕がいなくならないか、確かめているみたいに――。


 可愛くて、どうしようもなくて。

 僕は、動かないまま、朝を待つことにした。

 

 この重さも、この温度も。

 全部、今、生きている証みたいだった。


 わたらいさんが目を覚ましたら、自転車の鍵を探そう。そして、今度はもっと遠くまで、一緒によじれを探しに行くんだ。


 だから……もう一度、眠ろう。


 重たいまぶたの隙間で、視線がふらふらと部屋を泳ぐ。

 

 僕らの足元に、兄ちゃんの棚がある。

 ママが磨き上げた遺品たちに、場違いな物が混ざっていた。


 兄ちゃんが中学生の時に作り、五歳の僕がでたらめにシールを貼った、不格好なプラモデル。


 手足は妙に短く、関節の位置もどこか頼りない。胴体だけが、ずんぐりと膨らんでいる。


 両腕の付け根には、用途の分からない丸い膨らみがあって、頭部は低く、目らしい部分だけが横に広がっていた。


 格好いいはずの兵器なのに、どこか生き物みたいで、深い海の底を、音もなく這いずる奇妙な生命体のようにも見えた。


 ママが毎日丁寧に埃を払うせいで、剥がれかけたシールの隙間にノリが白く固着している。


 ……ふと、僕は思う。

 

 もしかして。

 さっきの、兄ちゃんのあの指は。

 僕でも、シャボン玉でもなくて。

 

 ――アレを、指差していたの?

 

 確かめる気力もないまま、意識が暗転する。




*********************




「どうせ、いつか壊すんだからさ」

 兄ちゃんはそう言って、できたばかりのプラモデルに目を向けた。

「悲しくならないやつが、いいだろ?」


「……こんなの、かっこ悪い」

 そう言いながら、幼い僕はさっきまで夢中でシールを貼っていた。


 兄ちゃんは笑った。

「じゃあ、俺が預かってやる」


 棚の一番下にそれを飾る。

「俺は、これ好きだよ」


「でも、弱そうじゃん」


「だからだろ」

 まだ文句を言う僕の頭を、兄ちゃんがポンポンと撫で付ける。

「これは、お前を、いつか助けてくれる」


 僕は改めてそのプラモデルを見た。

「……かっこ悪い」


「そうか」


 少しだけ間があって、兄ちゃんは笑った。

「俺は、好きだよ」




*********************




 ――ママには、内緒な。


 耳の奥で、そんな声がした気がした。


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