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第54話 うたかた

「……ごめんなさい、遥。今度は、もっとちゃんと守ってあげるから。もう二度と、こんな汚い思いはさせないわ……ねえ、遥」


 まだ脱衣所にいるママの唇が、僕の名前ではなく、死んだ兄の名前を呼んでいる。


 その度に肺が、酸素を取り込むことを拒絶する。ヒクッ、と喉の奥で変な音が鳴り、視界がチカチカと明滅し始めた。


 ママは依然として僕の中に兄ちゃんを探し、僕という存在を、透明な余白として扱っている。


 苦しい。

 吸っても、吸っても、空気が喉を通らない。


 まだまだ自室には遠い。その手前の兄ちゃんの部屋の前にようやくたどり着いたところで、僕は力つき、突っ伏したまま小刻みに震えた。


「——ぺこ!」


 視界が暗くなっていく。

 その静寂を破ったのは、リビングにいたはずの彼女の、鋭い声だった。


 わたらいさんが、薄れゆく僕の意識の隙間に飛び込んでくる。


「……こないで……見ないで……大丈夫、だから……」


 過呼吸の激しい喘ぎの中で、僕は必死に彼女を遠ざけようとした。


「ぺこ……!」


「……はやて。ぼくは……はやて……」


 ママの心の闇に呑まれて、兄の身代わりとしてしか存在を許されない僕の、無様な姿。

 何より、さっき彼女の尊厳を守れなかった僕が、彼女に助けられるなんて——あってはならない。


「……そうだね。ごめんね、ハヤテ」


 わたらいさんは、そう言って、床に蹲る僕の肩を持ち上げるようにしてそっと仰向けに転がした。


 視界に彼女の顔が割り込むと、脱衣所から漏れる光が、僕に影を落とした。


「苦しいよね。でも、大丈夫。酸素、吸いすぎてるだけ」


 彼女の瞳が、至近距離で僕を射抜く。

 どこか冷たいほどに静かで、確かな眼差し。それなのに、僕に何も強要することはない。


「シャボン玉を吹くみたいに。……ゆっくり、吹いて」


 彼女の細い指が、僕の頬を包み込む。

 医者の両親を持つ彼女には、この異常な呼吸の正体が分かっているらしい。


「大丈夫。私を信じて」


「……しな、せて」


 僕は途切れそうな意識の淵に辛うじて引っかかる自意識から懇願する。


「ずっと……くるし……やだ……っ」


 これ以上、情けない姿は見られたくないのに、それでも涙が溢れて止まらない。


「……ひゅ……うっ……」


 わたらいさんの眼差しは変わらない。


「ママのせいなの?」


 彼女は、僕の返事を待たなかった。

 手首を掴まれ、身体が床を擦る。


「開けるよ。この部屋に、隠れたいんだよね?」


 わたらいさんは兄ちゃんの部屋のドアを開け、僕をその中へ滑り込ませた。


 すぐにドアが閉まる。それだけで、ママの気配が、ふっと途切れた。


 ダメなのに、この部屋は——。


 背中側に回ったわたらいさんが僕の脇に手を差し込み、床に落ちないよう身体を支えた。そのまま僕は、兄ちゃんの部屋の壁際まで引きずられた。


 ベッドには載せられず、その横の床——頭側に机、足元に兄ちゃんの遺品を置いた棚がある場所で、彼女は僕の背中をそっと床に触れさせるように寝かせた。


 わたらいさんは、僕のすぐ傍で正座に近い姿勢になった。僕の顔を静かに見下ろす。


「今度こそ、ほら。シャボン玉……ゆっくり、吹いて」


 わたらいさんは自分の手で小さな筒を作り、僕の唇の前にそっと当てた。

 触れているか、触れていないか分からないくらいの距離。


「ここから、ふー、って出すだけ」


 それだけ言って、すぐに手を離す。


 そうしたいのに、口が「あ」の形のまま固まってしまって動かない。


 彼女の両手が、再び僕の頬を包み込む。


 両頬が、彼女の手でゆっくりと寄せられていき、「う」の形に近づけられる。


「……たんぽぽの綿毛でもいいよ。遠くに飛ばすみたいに。ふー、って。ゆっくり……」


 彼女の声が、リズムとなって僕の荒れ狂う肺に染み込んでいく。


「ふ、うっ……うううっ」


 肺を丸ごとひっくり返すようで、吐息とは程遠い。

 それでも、彼女は否定しない。


「上手。もっと作ろう。シャボン玉」


 彼女自身も、静かに息を吐く。ふぅ、と、音にならないくらいの呼吸。


 その動きに縋るように、僕も息を吐く。


 兄ちゃんの部屋が、見えないシャボン玉で満たされていく。

 割れても、また生まれる。


 それでも、まだ、苦しい。


 視界が揺れて、意識が遠のく。


 身体を丸めるようにして、僕はわたらいさんの膝元に縋る。彼女の膝のあたりに指先をひっかけるようにして掴んだのは、彼女の脚そのものじゃなくて、肌を覆う薄い部屋着だった。


 丸めていた身体を開いて、今度はわたらいさんの顔を見上げる。


 見上げていた、はずなのに。


 その輪郭が滲んだ瞬間、視界の隅で、何かが静かに動いた気がした。


 わたらいさんの頭の少し上に、ふわりと浮かぶ、透明な膜。そのすぐ傍に、誰かの指先が、ひとつ伸びている。


 触れようとしているのは、シャボン玉なのか。それとも、ただ、そこにある何かなのか。


 分からないまま、僕の中で、その輪郭が今はっきりと重なった。


——兄ちゃんだった。


 何も言わない。呼びかけもしない。

 ただ、静かに、触れようとしているだけ。


 それが本当にシャボン玉に向けられた指なのか、それとも、こちら側に取り残された僕へ伸ばされた手なのか、もう、分からなかった。


「……っ」


 喉の奥が、ひくりと鳴る。

 消えたくない。連れていかれたくない。


 思わず、わたらいさんにしがみついてしまう。膝に逃げ込むように頭を押し付け、身体を丸める。


「……シャボン玉……いっぱい、作るから……」


 声が、途中で途切れて震える。

 彼女の腰に腕を回す。


「……ぼくの名前……呼んで……」


 わたらいさんの身体が、一瞬だけ強張る。

 僕が求める名前が「ぺこ」なのか「颯」なのかを、測りかねている。


「ぺこの名前……?」


 わたらいさんは、僕を抱きしめなかった。

 代わりに、腰に回された僕の腕の内側へ、そっと手を差し入れる。

 僕の背中、触れるか触れないかの場所に、ただ、手のひらを置いた。


 それから、ほんの一拍の間が空いて。


「……ハヤテ」


 その一言で、兄ちゃんの触れかけていたシャボン玉が、音もなく弾けたのが分かった。


 彼女の声が、僕を縛っていた幻影を鮮やかに、闇より深く濃く、塗りつぶしていく。


 兄ちゃんの幻は、もうそこにはいない。


 確かめるように恐る恐るまぶたを開き、暗がりを確認する。


 残ったのは、彼女の体温と、ゆっくりと戻ってくる自分の呼吸の感覚だけだった。


「……すきぃ……」


 整い始めた呼吸と一緒に、本心が漏れてしまう。


「……だいすき……」


 背中に添えられていた彼女の手が、宥めるようにぽんぽんと動く。


「うん、分かってる……」


「……わたらい、さん……」


 名前を呼んだ瞬間、自分が、ちゃんとこの部屋に戻れた気がした。


 全身から力が抜け、視界が急激に重くなる。彼女の体温が心地よくて、もう一秒も、意識を繋ぎ止めていられなかった。


「んん……ねむい……」


 何もかも忘れて、安心してしまう。


 そのまま、滑り落ちるように床に崩れた僕に、わたらいさんがくすっと笑った……気がした。


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