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第53話 はいはい

 シャワーの飛沫が頭上から降り注ぐ。

 視界が水で歪み、息苦しさに胸が詰まっていく。


 リビングにいる彼女にも、この音が届いているだろうか。

 僕がママの手によって、無力な形に戻されていく、この音が。


 考えたくないのに、考えてしまう。

 わたらいさんは今、何を想像しているのだろう。




 浴室を出て、脱衣所へ。

 清潔なタオルで体中の水分を拭き取られる。

 今度は髪の毛の水気を取るために、タオルで乱暴に、けれど手慣れた調子で揉みくちゃにされる。

 その合間、洗面所の鏡が目に入った。


 曇っている。

 何も、見えない。


 それでも、僕は今、たぶん、さっきのわたらいさんよりもずっと酷い顔をしている。


 そう思った途端、リビングにいる彼女に、この姿だけは知られたくないと強く願ってしまった。


「……颯、どうかしたの? ぼーっとして」


 少し間を置いて、ママが続ける。


「……やっぱり、疲れが出たのね」


 頬を、しっとりと濡れたタオルで包まれる。 その手つきには、微塵の悪意もない。

 慈愛だ。それが、視界を大きく揺らがせる。


 

 不自由な手で、ほとんど潜り込むようにして、清潔な寝巻きに着替える。


 湿った空気の中に、僕が脱ぎ捨てた衣類の山があった。

 ママはそれを拾い上げ、いつもの癖のように、ポケットの中身を確かめる。


 その瞬間だった。


 カラン、と——場違いな金属音が、床の上に響いた。

 


 ママの動きがぴたりと止まり、床を凝視する。


 ズボンのポケットから滑り落ちたのは、銀の鎖。僕と遥兄ちゃんを繋ぎ、そして今も、僕とママを縛る命綱のような——あのネックレスだった。


「……颯」


 名前を呼ばれただけで、空気が変わったのが分かった。


「これ、何?」


 拾い上げられた銀の鎖が、ママの指先から垂れ下がる。

 それは兄ちゃんの一部であり、ママにとっての聖域だ。


「……どういうこと?ねえ、颯?」


 ようやく僕は、自分の失敗に気づいた。


 車中泊の最終日。

 クリーナーに、「全ては自分で決めていい」と言われたあの時、僕は意識してこのネックレスを外したのだ。


 兄ちゃんへの罪悪感を、いったん自分の手に戻し、あるべき形へと整理するために。


 それを、無意識のまま脱いだ服と一緒にしてしまった。それだけのことなのに。


「……あ」


 僕も洗濯機の前で固まる。


 ママは洗濯物にはもう目もくれず、ネックレスと僕を交互に見る。


「ねえ、颯。これは、何?」


 同じ言葉なのに、さっきとは意味が違う。


「……ごめん。間違えて、一緒に……」


「間違えた?」


 ママの声が鋭くなる。


「大切なお兄ちゃんを、あんた、こんな汚れたものと一緒に洗おうとしてたの?」


 喉が詰まる。

 やめて。わたらいさんに聞こえちゃう。


「病院で……検査の邪魔になるから、外せって言われて……それで……」


 嘘だ。これは、僕が決めたことだった。

 けれど、その事実を口にしてしまったら何が起こるのかを、僕はもう知っていた。


 ママは一度僕から目を逸らし、わざとらしいため息を吐く。


「髪……濡れたままだと風邪引くわよ」


 そう言って新しいタオルを広げるママが、そのまま僕の視界を塞いだ。

 理由が、唐突すぎて分からない。


 タオルをずらそうとした腕も、掴まれている。包帯を濡らさないために巻かれていたビニールが、いつの間にか、ママの手で解かれていた。

 解けているはずなのに、動かそうとすると絡みつく。


 引けば締まる。

 自分の腕なのに、焦れば焦るほど、思うように動かない。


「だから言ったでしょう。動くから」


 それは責める声じゃない。躾けるような、窘めるような、比較的穏やかな調子。


 かえってそれが、今は怖い。


 タオルで塞がる視界で、ママの指が絡まったビニールを一つずつ外していく感覚だけがある。

 触れられている。そのたびに、逃げるための余地が、確実に消えていく。


 抵抗しているつもりはない。逃げる意味も、多分ない。

 それでもただ、じっとしていられないだけ。


「……ほんと、似てきたわね」

 独り言のように、ママが言う。

 その視線が、僕ではなく、ちがうものを見ているのが分かる。


「お兄ちゃんはね、足が速かったから」


 懐かしむ声が、足元に落ちた。

 その先で、僕は足を撫でられている。


「怪我したのが足じゃなくて、本当によかった」


 その言葉で、はっきりした。


 心配されているのは、僕の身体じゃない。

 評価されているのは、僕の無事でもない。


 ママの中の兄ちゃんの記憶に、僕のパーツが合致しているかどうかだ。


 ここにいる限り、僕は“颯”として扱われない。


「……遥」


 確認するように、その名前が、再び少し上から落ちてくる。


 息が、止まった。


 ぐっと顎を持ち上げられる。

 ずれたタオルの隙間から視界が開けたのに、怖くて目をつぶってしまう。

 首元に空気が触れ、次の瞬間、冷たい金属が、喉の下に当たる。


 鎖が、肌の上に置かれる。

 まだ繋がっていないのに、その重みが僕をここに縫い付ける。

 留め金が、首の後ろ。ママの指の間で探られている気配。


「ほら……」


 ママの声は、あくまで穏やかだった。正しいことを、当然のように続けようとする。


 それが閉じられたら、終わる。僕はもう、“戻れない”。


「……っ!」


 声にならない息が漏れる。

 逃れるために首を引こうとして、鎖が肌をざらりと擦った。

 その感触だけで、十分だった。


「や……やだ……っ」


 言葉になったのは、拒絶じゃない。ほとんど悲鳴だった。


 反射的に腕を振った。めちゃくちゃに。視界も、言葉も、理屈も、全部払いのける。


 何かが、指先から弾かれる感触がした。次いで、金属がどこかに当たったような、乾いた音。

 どこに行ったのか、分からない。見たくもない。


 ママの動きが止まる気配。探す声、低い音。

 その隙に、僕は床を掴んでいた。


 ここにいたら、僕は完全に別の名前になる。


「いや、だ……っ」


 自分でも驚くほどの声が出た。

 立てない。

 力を入れようとしても、足が言うことを聞かない。床に膝を擦りつけるだけで、身体が前に進まない。


 ——立てないんだ。ママ。

 あんなに大事そうに撫でていた、「兄ちゃんの足」で。

 速かったって、誇らしそうに言ってた、その足で。


 今、僕は立てない。


 呼吸が、浅くなる。胸がひくひくと鳴って、空気が入ってこない。


 それなのに。

 背後では、ネックレスを探す音が続いている。タオルが動き、ママは僕を無視して洗濯機の陰を覗いている。


 僕じゃない。

 倒れている僕じゃなくて。

 なんで。なんで、そっちなんだ。


 なんで、立てなくなった僕より、今ここにいない兄ちゃんの、その中身の欠片みたいなネックレスの方が、大事なんだ。


 声にしたら全部壊れてしまいそうで、代わりに喉の奥から、ひゅっと変な音だけが漏れた。


 気づけば、脱衣所の外へ床を掴みながら這い出ていた。


 息が、吸えない。浅く、速く、喉を乾かすような熱だけが喉を通る。


 まだ、首には何もない。

 僕だ。まだ、僕だ。

 その間に、僕でいられるうちに早く。

 早く、ここから離れなくちゃ。

 そうじゃないと、次は、間に合わない。


「う、あっ……」


 立ち上がろうとして、また失敗した。

 四つん這いから膝に力を入れたはずなのに、床を押し返す感触がない。


 ——違う。立つ、ってどうやるんだっけ。

 膝の関節が笑い、ただガクガクと床の上で無様に跳ねる。


 息が、細かく刻まれる。

 吸っているのに、胸の奥まで届かない。


 背後の気配から、目を逸らすように、僕は身体を伏せて、床に腕を伸ばした。


 匍匐前進。

 そんな言葉が、頭の隅をかすめる。

 掌と前腕で、湿った床を掻くと、腹と太腿が擦れて、ぞわりと冷える。

 情けない。でも、立てない以上、もうこれしかなかった。


 自分の部屋が、やけに遠い。

 腕一本分進むたびに、息が乱れる。包帯が滑ると、その下で傷ついた皮膚が引き攣り、痛む。

 腕。腕。


 思えば、折檻されるのはいつも腕だった。


「あ、うう……っ」


 呼ばない。名前は、呼ばない。


 助けを求められる立場じゃない。

 何より、わたらいさんにだけは——。


 こんな姿を。

 床を舐めるようにして逃げるところを。

 声も出せずに、ただ壊れた呼吸音を立てて這うところを。


 ——見られたくなかった。


 リビングの方から物音がしないか、神経が勝手に澄まされていく。耳鳴りが、やけに大きい。


 お願いだから、誰も来ないで。


 自分の部屋に戻るだけ。

 一人になれる場所まで、ただ戻るだけだ。


 戻れさえすれば、考えなくていい。名前のことも、足のことも、ネックレスのことも。


 でも、その代わりに。

 多分また、あの子のことばかり考えてしまう。


「……っ、たらぃ……さん……」


 床に額が触れた。腕も限界に近い。

 それでも、止まれなかった。


 僕は、声を殺したまま、ただ廊下を這い続けた。


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