第52話 みすと
浴室の椅子に座っている。
目の前にある鏡は湯気で曇って、僕の顔は輪郭すら分からない。
「じっとしていて。あんたは昔から、すぐにふらつくんだから」
背後からママの声が聞こえる。
泡立てられたタオルが肩に触れ、胸をなぞる。
お腹から、その先へと下りていく途中で、反射的に身体をよじる。
無駄なことと頭ではわかっていた。
「ほら、動かないの」
触れられたくない境界線を、ママはお世話という免罪符を持って平然と越えてくる。
抵抗は許されない。これは介助であり、正しい親子の形なのだから。
屈辱で頭がのぼせていく。目眩がした。
どこを洗われているのか、途中から分からなくなった。
ママの手がどこに触れようとしているのか。
そもそもなぜこんな状況になったのか。
何も分からなくなる。
分からなくなっていることが、いちばん怖い。
怖いのに、ママはずっと優しい。
僕の身体を撫でる手つきも、かけてくる声の調子も。
懐かしい。
僕が、疑わずに好きでいられた頃の優しかったママみたいで。
ねえ、そんなに?
そんなにこの傷はママにとって特別なの?
目の奥が、急に熱くなった。
瞬きをした拍子に、涙が一粒、頬を伝って落ちる。
どうして泣いているのか、自分でも分からない。
分からないことが怖くて、でも、そのままではいられなくて。
「……っ」
喉が鳴る。
ママに気づかれる前に、僕は理由を用意しなければならなかった。
「……泡、目に入っただけ」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「ほらもう。だから言ったでしょう、動かないでって」
ママは少しだけ呆れたように言って、シャワーの角度を変え、温度を自分の手で確認してから、僕の目元を丁寧に流す。
心配している。
ちゃんと、正しく。
それがいちばん苦しい。
涙は止まらない。
シャワーで流れた水と混ざっていく。
シャワーの音に紛れるように、ママがぽつりと呟いた。
「……お兄ちゃんに、似てきたわね」
悲しいからじゃない。
屈辱だからでもない。
泡が、目に入っただけ。
そういうことにしておかないと、いよいよ僕はここにいられなくなってしまう気がした。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいします。




