第51話 君の番だよ
ドライヤーの、低く唸るような機械音が廊下を伝って響いてくる。わたらいさんが入浴を終えたのだ。
彼女の艶やかな黒い髪が、ドライヤーの風に靡いている姿を思う。洗面所の鏡の前で、普段なら、鼻唄の一つでも歌うかもしれない。
けれど、今のわたらいさんがそんな軽やかな音を零すはずがないことを、僕は知っている。
彼女は今、自分の輪郭が書き換えられていくような恐怖の中にいるはずだ。
鏡に映る自分を見て、彼女は何を思うだろう。
僕と分かち合ったあの熱が、残らず消えてしまったことを確認して、絶望しているだろうか。
それとも、僕らの過ちが塗りつぶされたことに安心しているのだろうか。
どちらにせよ、その光景を僕は見ることができない。
ドライヤーの音が止んだ。
突如として訪れた静寂に取り残されたように、耳鳴りが鼓膜に張り付く。
ママが、わたらいさんをと誘導する声。
スリッパが床を擦る音が僕の部屋とは真反対のリビングに向けて遠ざかる。
扉が開く音。
家中のあらゆる音が、僕と彼女を引き離すための障壁のように思えた。
今度は布が擦れる音やクッションを整える微かな物音がした。
ママはリビングのソファを簡易的なベッドとしてわたらいさんに当てがうつもりらしい。
ママは、決してわたらいさんを空いている部屋には通さない。
それは家族としての受け入れを拒絶し、
ゆくゆくは彼女までもを管理すべき対象として置くための――そんな気がしてならなかった。
遥――死んだ兄ちゃんの部屋を使わせれば、彼女だってソファの上で丸まって寝るような真似をしなくて済むはずなのに。
けれどママにとって、あの部屋は愛する家族の記憶が封印された神殿だ。部外者である彼女を一歩でも踏み込ませることは、ママの潔癖さが許さないのだろう。
「颯、出てきていいわよ。恵ちゃんの準備は終わったわ」
入れ違いを告げるママの声。
僕は自室の扉を開け、一直線に脱衣所へと向かう。
これは、囚人が一時的に独房を出ることを許されたにすぎない。余計な動きは一切許されないのだ。
それでも通り過ぎる際、一瞬だけリビングの方を見てしまう。ママはリビングを出て、僕と浴室へ行くために、半開きの扉の前に立っている。
「二人とも、おやすみなさいは?」
ママが、扉を開けた。
リビングにいるわたらいさんが見える。
もう安心していいはずなのに、彼女はどこか魂を抜かれた人形のようにソファの端に腰掛けていた。
一瞬だけ、視線が交わる。
彼女は、ママに言われるまま自室へ戻り、そこから持ってきた着慣れたTシャツと短パン姿だった。
驚いたように肩を強張らせ、慌ててTシャツの裾を引き、膝を寄せる。
見られる準備なんて、していなかったのだ。
それでも何も言わない。
言えないのかもしれない。
「ほら、颯。おやすみなさいは?」
ママの声に促されて、僕は視線を床に落としてから、小さく言った。
「……おやすみなさい」
返事がなかなか返ってこない。
無理もない。
でも、このままでは扉は閉まらない。
「お、おや……おやすみ……なさい……」
後半のなさいは、消えそうなほど小さくてほとんど聞こえなかった。
それでも扉は閉められた。許された。
脱衣所に入ると、そこには彼女を洗い流した後の、湿った熱気が澱んでいた。
鏡は白く曇り、シャンプーの匂いが空間に充満している。
ついさっきまで、ここに別の人間がいた痕跡が、あまりにも生々しく残っていた。
僕は包帯を巻かれた不自由な手で、もどかしく服を脱ぎ捨てる。
布が肌から離れるたび、無防備になっていく。
僕は洗濯機の蓋に手をかけようとして、止めた。
この蓋の向こうに、わたらいさんが必死に守ろうとした恥じらいが、閉じ込められている。
今、ここで僕が彼女の羞恥に触れることは、ママがしたことと同じ、あるいはそれ以上に彼女を絶望させる気がした。
僕は脱いだ衣類をそのまま洗濯機の蓋の上へと置いた。
その重なりの中に、外してズボンのポケットに滑り込ませたままの兄ちゃんの遺骨ネックレスが紛れ込んでいることにも気づかずに。
背後で、脱衣所の扉が開く音がした。
ママだ。
「……何?」
振り向かずに言うと、溜息が返ってきた。
「何じゃないわよ。そんな手じゃ、できないでしょう」
言い終わる前に、ママは近くにいた。
逃げ場はない。
「洗ってあげるから。ほら、早く」
リビングのわたらいさんにも、聞こえているのだろうか。
「さあ、颯。腕を見せて。濡らさないように、ビニールを巻くわね」
包帯を巻いた僕の両手は、不自由な棒切れのようにママに差し出される。
脱衣所の湿った床の上で、僕はただの肉体となって、ママの介助に身を委ねるしかなかった。




