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第50話 想像してごらん

 僕の家。

 いつも通り掃除の行き届いた、清潔で、逃げ場のない、僕の家だ。


 ひとつだけいつもと違うのは、あのわたらいさんが、同じ屋根の下にいるということ。


 ただし、僕は自室にほとんど隔離されていた。入浴中のわたらいさんと生活動線が被ることのないように、というママの徹底した配慮によって。


 自室のベッドに横たわり、天井を見つめる。 しんと静まり返った家の中で、浴室から届く微かなシャワーの音だけが、耳障りなほど鮮明に鼓膜を叩いた。


 壁をいくつか隔てた先で、脱衣所の扉がスライドする乾いた音が響く。

 見えなくても察しはついた。浴室のすぐ外、脱衣所の狭いスペースに、ママが入ろうとしている。


 棚からバスタオルを取り出す衣擦れの音。

 隙のない、ママ特有の足音。

 それだけで、僕の脳内にはその光景が立ち上がってしまう。


 脱衣所から浴室にいる彼女へ、ママが声をかける。


「恵ちゃん、替えのバスタオル、ここに置いておくわね」


 廊下を伝って届くママの声は、反響して、いつもより高く澄んで聞こえた。


 完全に無防備なわたらいさんが、心底動揺したような声で返事をする。


 監視にも近いママの完璧なお世話にうんざりしながらも、僕は浴室のすりガラスの向こう側にいる、裸の彼女を想像してしまう。


 タイルの上。

 湯気に包まれた彼女。

 ママが用意した清潔な泡で、柔らかく白い肌を撫で、清めているであろう肢体。


 想像してはいけないと思えば思うほど、像は鮮明になる。


 生野菜を口に押し込むために手掴みした、あの両手。

 必死にママの正しさを処分するために膨らませた、あの頬と喉。

 恐る恐る口を開けた僕の唇に、触れんばかりにピザを押し込んできた指先。

 興奮に任せて、必死に僕に吸いついてきた、あの唇。


 さっきまで僕たちが貪り合っていた甘い毒が、今、無慈悲なお湯に溶かされ、跡形もなく流されていく。


 ママが一人の大人として彼女を救い出し、その身を清めさせているだけだと、頭では分かっている。


 それでも僕には、あの子と繋がっていた確かな何かを、一枚ずつ、生身の皮膚ごと剥がされていくように感じられた。


 しばらくの間、二人の雑談のようなものが続いていたが、シャワーの飛沫に紛れて内容は聞き取れない。


 不意に、シャワーの音が止んだ。

 浴室の扉が乱暴に開く音。

 それと同時に、悲鳴に近い彼女の声が届く。


「いえ、そんな……! 下着まで洗っていただくなんて、本当に申し訳ないです! 汚れたままでいいので、何か、袋に……。自分で、洗えますからっ!」


 顔を真っ赤にして、自分の衣類を必死に守ろうとする姿が、容易に浮かぶ。


 ママにとっては単なる洗濯だ。 いつもより一人分多いだけの、なんでもない作業。


 けれど、僕たちの間に漂っていた熱っぽさや、分かち合った毒まで、気づかれてしまう気がした。


「恵ちゃん、前にハヤテに体操服を貸してくれたでしょう? あの時はありがとう。あの時のお礼だから、今日は。本当に気にしなくていいのよ。お互い様なんだから」


「お礼なんて、そんなつもりじゃ……いいんです。あの時、颯くんは雨で濡れていて……そうした方がいいと思って、私……」


 声は震え、今にも泣き出しそうだった。

 必死に、自分たちの小さな聖域を守ろうとする抵抗。


 けれどママは、それを遮ることもなく、むしろ慈しむような溜息まじりの声で言った。


「ええ、そうね。だから今、私もそうした方がいいと思っているのよ。恵ちゃん」


 空気が、一瞬で冷えた。


「困っている子を助けて、清潔にしてあげる。あなたが颯にしてくれた『正しいこと』を、今度は私があなたにしてあげたいの。


……それとも恵ちゃん、私にだけは、借りを作ったままでいろって言うのかしら?」


 ずるい。

 そんなの卑怯だ。


 僕は自室で一人、歯を食いしばる。




 ――僕は助けに行けない。

 見えない場所で起きていることを、勝手な想像で埋めて、それが一番ましな形だと思い込むしかない。

 流れに身を任せている間だけ、考えずにいられる。




 ママは、わたらいさんの善意を人質に取ったのだ。


 こうなれば、彼女はもう何も言えない。 親切の皮を被った侵略を、拒むことはできない。 彼女自身が持っていたはずの優しさや正当性までも、所詮はお節介だったのだと、塗り替えられてしまう。


 すりガラスの向こうで、彼女は項垂れ、顔を赤くして、唇を噛み締めているはずだ。

 無防備な裸のまま。

 意思も、思い出も、身に着けていた下着の所有権さえも。

 すべてが、ママの圧倒的な正しさという濁流に押し流されていく。

 プライバシーという最後の砦を明け渡した彼女は、泣いてしまうかもしれない。




 ――見えないというのは、安全だ。

 見えなければ、どんな顔をしているかも、どこまで奪われたかも、想像で済ませられる。

 想像は、いつだって、現実よりも都合がいい。




 弱々しく浴室の扉が閉まり、シャワーの音が再開する。

 話はこれでおしまいと言わんばかりに、ガタン、と洗濯機の蓋が閉まる音が聞こえた。


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