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おんなじだよね?

「残りのパイナップル、半分こね」


 彼女はそう言って、缶を僕に押し付ける。輪切りのパイナップルを、もう2切れ食べるよう僕に促した。


「シロップも飲んでいいよ。缶のフチで怪我しないようにね。……でも、ぺこはまだお腹空いてるでしょ?」


 その一言が、泥まみれのカレーパンの記憶を鮮明に呼び覚ます。彼女がくれた魚肉ソーセージもパイナップルも、空腹を満たすにはあまりにも足りない量だった。


「大丈夫、すぐにおいしいごはん食べさせてあげるから。今日はね、ハンバーグの予定なんだ。ぺこも好きでしょう、ハンバーグ」


 彼女は、僕の食欲をさらに刺激した。思わず、ぐうとお腹が鳴ってしまう。恥ずかしい。

 そんな情け無い僕を見つめる彼女のその瞳には、捨て猫に餌を与えるときのような優越感と自己満足が混ざった歪さがあった。


「そろそろパパとママが帰ってくるから。そしたらきっと、おいしい夜ご飯作ってくれるはず……私も手伝うし。ぺこも一緒に食べるでしょ。お腹空いてるもんね」


 何度も何度も、彼女は僕に空腹を自覚させる。僕は、目の前のわずかな餌を齧りながら、将来の食事の約束という支配の鎖を、ぼんやりと感じた。断ち切れない飢餓と、彼女の妙な眼差しが、僕の居場所を静かに固定していく。


 缶を傾けてシロップをあおると、毒を食らってみたいに痺れる甘さが体をめぐる。


 その時、ガチャリと玄関のドアが開いた。雨音が揺れて、部屋の空気がひやりと入れ替わる。玄関で傘をたたむ音がした。


「あっ、帰ってきた」

 彼女がぱっと立ち上がって、タオルをつかんで廊下へ駆けていった。その背中を、僕は食卓から見ていた。


「おかえりなさい、ママ。はい、これ」

 ここから玄関の様子は見えなかったけど、彼女の声ははずんでいた。


「ありがとう……もう、すごい雨。傘なんて意味ないわ。びしょびしょ」

 軽い笑い混じりの女性の声。すぐに、声の調子が変わった。


「あら……この靴、“あやせ”?」

 玄関に置かれた僕の靴。きっと、かかとの名前を見つけたのだ。


 一瞬、間があって、女性が呟く。

「……お友達、来てたの?」


 僕はあわてて立ち上がり、廊下に出た。

「は、初めまして。綾瀬颯っていいます。その……いろいろ、お世話になって……わたらい、さんに……」


 言葉の途中で、はっとした。

 僕は、彼女──わたらいさんの名前を知らない。


 視線を向けると、彼女は僕を見つめたまま、ほんの一瞬だけ黙ってから言った。

「あんなに濡れてて、放っておくの、かわいそうだと思ったから……だから、その……」


 わたらいさんの声は落ち着いていたが、目の焦点はどこか泳いでいて、笑ってはいなかった。


「まあ……」

 彼女のお母さんが息を呑み、小さく微笑む。

「偉かったわね。なかなかできることじゃない。ほんと、優しい子」


 「うん」とわたらいさんは短く答え、目を伏せた。


 不意に、バタンと音がした。


 今度の足音は重く、乾いた革靴の底が濡れた床に吸い付くように響いた。


「おかえりなさい、パパ!」

 わたらいさんの声が急に大きくなる。不自然に明るい。


 現れたのはスーツ姿の男性だった。目を泳がせたまま、返事を探しているようだった。

「……ただいま」

 低く、ため息のような声。そのまま、靴を脱ぎながら彼女の方を見ようともしない。


「今日はパパも一緒にごはん食べるの?」

「今日は“話し合い”のついでに、荷物を取りに来ただけよね」

 わたらいさんとお母さんの声がほとんど同時に重なった。


「ね?」とお母さんが畳みかけるように言うと、お父さんは「ああ」とだけ短く、そっけなく返した。


 しばらく、誰も口を開かなかった。傘をたたむビニールの音だけがやけに大きく響いていた。


 空気が絡み合わず、すれ違うだけの視線の隙間を、あの黒猫がしっぽを揺らして通りすぎた──ような気がした。


「今、お客さんが来てるの。“あやせくん”っていうの」


「そうか」

 お父さんは視線を逸らしたまま、無言で廊下を進んだ。僕はすっと身を引いたが、スーツの袖がかすかに僕の腕に触れた。濡れた布地の冷たさ。どこか薬品のような匂いが鼻に残る。


 彼は迷いなくリビングへと消えていく。その背中を、わたらいさんだけがじっと見送っていた。


 お母さんも、お父さんも、互いの顔を見ようとしなかった。そこに、目には見えない壁があるようだった。


 どうして、そんなに目をそらすんだろう。 見ることすら、怖いんだろうか。


 食卓には、食べかけのパイナップルの缶詰がひとつ。それはもう“食事”じゃなく、“儀式”のあとみたいだった。


 沈黙だけが満ちていた。テレビが天気予報を淡々と伝えている。お父さんがつけたのだろう。


「えっと……あやせくん」

 わたらいさんが急に声を出した。少し明るい声だった。二人きりのとき、そんな呼び方はされなかった。きっと、他人行儀にしているんだ。


「よかったら、晩ごはん、いっしょに食べてく?すっごくおいしいハンバーグ作るよ。ね、ママもいいでしょ?」


 その一言だけが、“家庭”のように聞こえた。

 お母さんは驚いたように僕を見て、それから微笑んだ。

「ええ。あやせくんがよければ……」

 でも、声の中身は抜け落ちていた。すぐに目をそらし、床を見つめた。


「ね、あやせくん。お腹、空いてるでしょ?」

 わたらいさんのその声が、わずかに震えた。

 僕は、その目を正面から見られなかった。

「ねえ、お腹空いてるって言ってたもんね? 一緒にご飯、食べるよね?」

 わたらいさんは、ほとんど泣きそうな声でそういった。


 僕はここに来て、ようやく彼女がなぜ僕を選んで招いたのかわかったような気がした。

 彼女はこの寂しい。だから食卓を誰かと囲みたかったのだ。


「ねえ?」

 彼女の涙声は、明確に助けを求めているとわかった。兄ちゃんもこのくらいわかりやすく助けを求めてくれたら、僕だって何かしてあげられたかもしれないのに。


 そう思いながら、かぶりを振るように視線をそらして僕は言った。

「うん……ありがとう。でも、帰らなきゃ。僕のママ、心配するから」


 人をつなぎ止める手段として、彼女が餌を与えていると言うことをうすうす気づきながら、僕はそう答えざるを得なかった。多分これが、彼女が言っていた「優しさ」ではなく、「自分のために」ということなんだと思った。


 僕は、ここにいられない。

 この優しさは、あたたかくなんてなかった。その奥にあるものが、透けて見えてしまったから。


「そっか……うん、そうだよね」

 わたらいさんはうつむいたまま、洗面所の奥へ消えた。ほどなくしてビニール袋を片手に戻ってきて、それを僕に差し出した。

「濡れた服、袋に入れといた。持ってって」


 差し出された袋は、ほんのり温かかった。 ──火が消えかけたストーブのような、かすかなぬくもり。

 それは、僕をこの場から解放するための、明確なサインだった。


「ありがとう」


 僕はびしょ濡れの靴を履き、玄関のドアを開けた。雨は止む気配もなく、横殴りで廊下に吹き込んでくる。


「体操服、必ず返します」

 返事はなかった。


 誰の顔も見たくなくて、僕は振り返らずに玄関を出る。

 指に食い込むビニール袋の重み。濡れた服から立ちのぼる、雨の匂い。


 ふと、振り返ってしまう。


 わたらいさんは、まだ玄関に立っていた。ドアを閉めないまま、影の中にいた。顔までは見えず、輪郭だけが雨音の向こうに浮かんでいる。

 何かを言いたげに見えたけど、僕は手も振れず、声も出なかった。


 ただ足早に廊下を歩こうとした。濡れたアスファルトを踏むたび、ぬめった音が耳に残る。

 胸の中でも、何かがぬるりと動いていた。

 空腹にも、後悔にも似ている。でも、どちらでもなかった。


 あの家は寒かった。でも彼女は、今もあそこで、何かをあたためようとしている。それが、どれほど痛い願いなのかも知らないまま。


 背後からわたらいさんの声と足音が追いかけてくることに気がついた。

「ねえ、なんで帰っちゃうの?夕飯、誘ってあげたのに!」


 僕は振り向かずに歩みを進める。どうしても、逃げ切りたい。


「待ってよ!」

 ふいに、彼女が僕の腕を掴んだ。その手には、雨宿りに誘われた時よりもずっと力がこもっていた。


 だから僕も、より強い力で振り払う。彼女はよろめき、その拍子に僕の肘に顔をぶつけた。


「うっ!」

 彼女の声と、鈍い衝撃。硬い骨が当たり、肘にツンとした痛みが走る。僕が思わず手を引き振り返ると、わたらいさんは顔を押さえてそのまましゃがみ込んでいた。


「ひどい……」

 彼女のその声は、泣き声に近かった。僕は動けなかった。咄嗟に謝ることさえできず、どうしてこうなってしまったのか、まるでわからなかった。


 わたらいさんは、呆然とする僕の腕にすがり、ゆっくりと立ち上がった。鼻をおさえている手の指の隙間から血が溢れるのが見えた。僕の腕から血が出ているわけじゃない。彼女が、鼻血を出している。


 僕が、彼女を傷つけた。


「ぺこは、そんなに、わたしのことが嫌いなの?」


 喉が詰まった。嫌いなわけじゃない。そんなことない。こんな僕にも親切にしてくれたし、変わっているけど、悪い子ではないと思う。

 でも、それとあの家であの食卓を囲むのとは話が別だ。


 僕は、ただ、早く帰ろうとしただけ。


「違う……そんなこと、ないよ……」

 僕の答えを聞くと、わたらいさんは小さく笑った。鼻を押さえていた手を離して、まっすぐに僕を見る。その目が、僕の心の奥底を覗いているようだった。


「知ってるんだから。ぺこは悪い子だって。だからぺこのママが、ぺこにごはんをくれないってことも」


 喉がきゅうっと締め付けられる。

 僕が怒られるのは、僕が悪い子だから。ずっと隠し通してきたはずのことを、誰かに知られていたことが、どうしようもなく恥ずかしかった。


「ねえ、私のパパ、出ていっちゃうの。きっと、私が悪い子だから。だからパパは私を置いていっちゃうの。……だから、私とぺこは、おんなじだよね?」

 わたらいさんは僕の顔を覗き込み、囁いた。


「……私、ぺこの恥ずかしいところ、見ちゃった。雨の中で、泥まみれのカレーパンを食べてるの。あんなとこ、本当は誰にも見られたくないでしょ?私、全部見てたんだよ……」

 彼女の声が震え、嗚咽に変わる。


「私も、全部、見せたのに……。パパとママに笑って欲しくて……あんなことしても意味ないって分かってるのに……馬鹿みたいな私を、誰にも見せたくない、こんな私を……」

 そう言って、彼女は泣きじゃくった。顔を両手で覆い、肩を震わせた。


「……なんで、帰っちゃうの?」

 その悲痛な声は、僕の胸をえぐった。


 その時だった。


「……っ熱い!」

 僕の指に食い込んでいたビニール袋が、急に熱を持った。摩擦熱みたいな、鋭く部分的な熱さに慌てて目をやる。

 見ると、雨で濡れた服を包んでいたビニールの持ち手部分が、アイロンでも押し当てられたみたいに指の形に沿って溶けてくっつき始めている。


 それはまるで、何かと何かを「くっつける」みたいに。

 熱い。火傷するかもしれない。反射的に手を離すと、びしゃりと重たい音を立てて袋が落ちる。

 ひりつく僕の指に、溶けたビニール袋が貼り付いていた。


「帰るなら、『颯くんが叩いた』ってぺこのママに告げ口するから」

 わたらいさんが泣き言を言う。


 僕が彼女を傷つけたのは事実だ。頭の中が真っ白になった。


「ごめんね、大丈夫……?」

 出血の具合を確認したくて、僕は彼女の方に手を伸ばす。


「やだ!帰るんでしょ?」

 わたらいさんは僕の手を払いのけて言った。


「帰れないよ。……だって、血が出てる」

 僕がそう言うと、彼女の顔が少しだけ驚いたように見えた。


「……なんで?心配してくれるの?」


「僕のせいだ……」

 それは、まるで呪いの言葉だった。僕のせい。兄ちゃんを助けられなかった罪悪感が、彼女を傷つけたという事実に結びついて、僕の心に重くのしかかる。


「ねえ、早く、とりあえず君の部屋に戻ろう。手当てしなきゃ。洗面所、貸して」

 僕の言葉に、彼女は小さく首を振った。


「それじゃあ……タオルだけ貸して。ハンカチでも、ティッシュでも……」


 鼻を押さえたまま、泣きながらわたらいさんは歩き出した。傍らのビニール袋を拾い上げた僕の腕を掴み、そのまま彼女の家へと引きずっていった。


「……血が止まったら、すぐごはんにするからね、ぺこ」

 鼻を啜りながら、わたらいさんが呟く。


「うん……」


「それじゃあ、これで仲直りできるよね?」


「でも本当に少しだけだよ。あんまり遅いと、ママが心配するから」


 彼女は嬉しそうに笑った。僕に抵抗する力は、もう残っていなかった。

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