第42話 聖母の檻
救急外来の処置室のベッドに寝かされた僕の両腕には、ガーゼと包帯が大袈裟に巻かれた。頬には、冷感のある軟膏が厚く塗られている。
左腕の包帯を掻い潜るようにして、点滴を打たれた。脱水症状を改善するための透明な液体が、一滴ずつ、僕の静脈へと吸い込まれていく。
点滴を目で追うのも飽きて、なんとなく廊下側に目をやる。
カーテンのせいで見えないが、僕らを運んでくれたタクシー運転手がまだそこにいるのが分かった。
処置室にはドアがないせいで、廊下での会話さえ丸聞こえだった。
「……それで、男の子が親御さんに連絡したようでしたが」
運転手の、低くて、どこか安堵したような声。
「ええ、綾瀬くんのお母様が今こちらに向かわれているそうです。お電話口でも本当に心配されていて……。運転手さんに、とても感謝されていました」
看護師の落ち着いた声。
「いや、いいんだ。子供のあんな大火傷見せられたら、放っておけるはずないからな。
帰りも足がないだろうし、お母さんが来るまでここで待たせてもらうつもりだったけど……なんだか、恩着せがましいかな」
「そんなことありませんよ。お母様もきっと心強いはずです」
運転手の照れ臭そうな声と、看護師の明るい笑い声。
何も知らない善意が、僕たちの嘘を真実として補強していく。
熱中症で倒れそうになったわたらいさんを、僕が支える形で熱いシャッターに腕を押し付けた。身動きが取れず、よろけた拍子に頬も焼きつけた。
それが、わたらいさんと2人で咄嗟に考えた言い訳だった。
医師は多少違和感を覚えたようだが、2人とも脱水症状の所見があり、最終的には納得したようだった。
「……ねえ、ぺこ」
隣のベッドから、わたらいさんが震える右手を伸ばしてきた。彼女も、左腕に点滴を打たれている。
わたらいさんは、包帯と点滴でぐちゃぐちゃの僕の左腕にそっと触れ、壊れ物を扱うような手つきでゆっくりと撫でる。
「私が言えたことじゃないけど……もう、あんなことしないで」
僕は黙って、包帯越しに伝わる彼女の指先の震えを感じていた。点滴針で不自然に膨らむ僕の薄い皮膚を慈しむ彼女の指先は、まるで共犯の証を確かめているようだった。
僕は寝返りを打つようにして、点滴の打たれていない方の手で彼女の指先をそっと包み込んだ。
「……私のせいで、全部ママにバレちゃうね。ごめんね」
指と指を絡め、お互いの体温を確かめ合う。
「……ごめんね、ぺこ」
わたらいさんが、掠れた声で囁く。
「私のせいで、バレちゃう」
「いいんだ。僕が選んだことだから」
僕は彼女の指を強く握りしめた。
その時、廊下の向こうから、あの規則正しく、冷徹な足音が響き渡った。
一歩、また一歩。
それは僕の心臓を直接踏みつけるようなリズムで、看護師さんの案内と共に、こちらへ近づいてくる。
やがて、控えめな挨拶をするママの声を掻き消すような、タクシー運転手さんの弾んだ大きな声だけが聞こえた。
「いやあ、本当に立派な息子さんですよ!お嬢ちゃんが倒れそうになったのを、熱いシャッターに押し付けられながらも支え続けていたって。あんな度胸、なかなか見られませんよ」
それに答えるママの声は、驚くほど穏やかで、慈愛に満ちていた。
看護師からも説明を受けているようだ。ママはなかなかこちらへ入ってこない。
それでも、僕の体は硬直した。
ふいに隣のベッドから、わたらいさんが身を乗り出す。
「……キスしようよ」
彼女の発言に、僕は息を呑む。
点滴のチューブが、チリ、と微かな音を立てた。
廊下からは、ママが誰かに挨拶する声が聞こえている。
カーテン一枚隔てた向こう側では、看護師と他の患者の話し声が聞こえた。
2人きりの空間では、決してない。
何より、この短時間にも、看護師が定期的に点滴の様子を観にきていた。
今、ここでそんなことをすれば、僕たちは取り返しのつかないところまで堕ちる。
分かっている。
それなのに、拒絶なんて考えもしなかった。
熱に浮かされたわたらいさんの、僕を試すような瞳。それに抗う術を、僕は持っていなかった。
「……いいよ」
僕は、点滴のチューブが突っ張るのも構わず、わたらいさんの顔へと身体を乗り出した。
早く、早く彼女に触れたい。
ママという現実がこの部屋を侵食し尽くす前に、僕たちの罪を確定させてしまいたい。
彼女の唇から漏れた熱い吐息が、僕の唇を撫でる。
触れる直前、処置室へ侵入してくる大人の足音が急速に大きくなった。
わたらいさんは、まるで最初からそうする予定だったかのように、滑らかな動作でベッドの中へと身を隠し、カーテンを戻した。
でも、僕は違った。
わたらいさんに吸い寄せられた身体の勢いを、止めることができなかった。
ベッドの端の、転落防止の柵に手を突き、上半身を隣の区画に大きく乗り出したまま。
重ねるはずだった唇を、頭を、突き出した無様な格好のまま。
僕は、硬直していた。
背後から響いたのは、乱暴に開かれたカーテンの音。
「颯……」
無防備に晒された僕の背後から、すぐにママの両腕が回された。
前傾姿勢のまま固まっている僕を、ママは後ろから、壊れ物を扱うような力で抱きしめる。
「なんてこと……。こんなに前屈みになるほど、痛いのね? 苦しいのね?」
ママは、僕が誰に向かって身体を動かしていたのか、気づいていない。
ママの掌が、僕のお腹を優しくさする。
僕の視線の先にあるのは、今やカーテンに遮られて見えなくなってしまったわたらいさんだけだった。
僕の心はわたらいさんに向けられたまま、身体はママの腕に閉じ込められている。
「颯、そんな姿勢でどうしたの? 痛いの? それとも、どこか行くつもりだったの?」
ママの困惑した声が耳元で跳ねる。
僕は、わたらいさんに向けて伸ばしかけた身体を、今一度ベッドへと沈めた。
「もしかして……トイレ? ああ、トイレに行きたかったのね? 腕がこんなだもの、一人じゃ無理よ。もう、どうしてすぐに看護師さんを呼ばなかったの?」
僕が止める間もなく、ママは枕元のナースコールを押した。
ママは考えもしないのだ。
わたらいさんに触れたくて、その毒に侵されたくて、自分から堕ちようとしていたなんて。
そんな考えは、ママの完璧な世界には存在し得ないのだから。
ママの掌が、僕の頭を優しくさする。
「ごめんなさいね、ママが遅かったから……。もう大丈夫よ。すぐに看護師さんが来てくれるわ」
僕は、ママの腕の中で人形のように今度こそ動けなくなった。
わたらいさんが今、カーテンの向こうでどんな顔をして笑っているのか、あるいは蔑んでいるのか、僕にはまるで分からなかった。
「……さあ、顔を見せてちょうだい」
ママの手が僕の頬に回る。火傷の軟膏が塗られたそこを、大切そうに撫でた。
「立派だったわね、颯」
ママの瞳は、僕の負傷を熱心に見つめている。僕の痛みを心配しているんじゃない。僕が正しい息子になれたことを喜んでいる。
「……本当に、立派なことをしたわね。颯」
ママは僕の包帯に巻かれた腕を、まるで神聖なものでも扱うような手つきで、誇らしげに撫でている。
ママの理想通りに正しく傷ついた僕を、ママは今、心の底から愛している。
僕たちの嘘が、ママの理想の息子像として受け入れられ、逃げ場のない檻が閉じようとしていた。
隣の区画を隔てるカーテンが素早く開く。
それから、ベッドで丸まっていたわたらいさんが、ゆっくりと体を起こした。
「……ハヤテくん」
乱れた髪の間から覗くその瞳は疲労のせいか、それとも別の何かのせいか、爛々と冴え渡っている。
「ハヤテくん」
わたらいさんが、掠れた声で僕を呼ぶ。「ぺこ」という愛称ではなく、「ハヤテくん」という正しい呼び名を使って。
「ごめんね。あんなに熱かったのに……。私が『火傷しちゃうから離して』って言ったら、もっと強く抱きしめてくれて。……全部、私のせいなのに」
わたらいさんは力なく呟いて、しおらしく項垂れている。
僕は息を詰めた。
これは、ただの謝罪じゃない。
こんな怪我なんてなんともないくらいに、ハヤテくんは、私のことが好きなんですよ。
彼女の言葉の裏側で、そんな声が聞こえた気がした。
わたらいさんは、顔を上げる。その先でママの視線を真っ向から受け止め、弱々しく微笑んでみせた。
「はじめまして、ハヤテくんのお母様。……ハヤテくんの火傷は、私を助けてくれた『しるし』なんです。一生、消えなければいいのにって、思っちゃうくらい。私は……嬉しいんです」
その言葉に、ママの指が僕の腕の上でピクリと止まった。
ママが愛でている正義の勲章を、わたらいさんは一瞬にして自分への執着の証へと塗り替えてしまう。
「……そう。そうね」
ママの笑顔は崩れない。僕を撫でる指先に、微かな力がこもった。
2人の女の視線が、僕の目の前で静かに、激しく火花を散らしている。
「綾瀬くーん、遅くなってごめんなさいねー」
ママの押したナースコールでようやく看護師がやってきた。
僕は無言で下腹部を抑える。
「あ、おトイレ?じゃあちょっと、行きましょうね」
看護師さんに点滴棒を転がされ、僕はゆっくりと歩き出す。
わたらいさんの方を振り返ることは許されなかった。
廊下へ出る直前、僕は突き出したまま何にも触れられなかった唇を、強く、強く噛み締めた。




