第41話 無力な熱
わたらいさんの表情が、強張る。彼女は、ペットボトルを持っている僕の腕を見ていた。
僕も視線を落とす。右肘から手首にかけての広い範囲が、赤く熱を持ち、所々、水ぶくれが浮き始めている。頬はずっとヒリヒリしていた。
わたらいさんは絶句した。一旦収まった自己罰の衝動が、今度は怪我をした僕への罪悪感へと姿を変えて戻ってきたらしい。
彼女が何か言うより先に、「平気だよ」と僕は微笑む。
わたらいさんは飲みかけのペットボトルを慌てて閉めると、その冷たい表面を僕の頬、火傷の患部に押し当てた。
「痛そう、ぺこ……。ごめんね、私、自分のことばっかりで……」
彼女はもう、自分の熱などどうでもよくなっているようだった。
「腕はもう水膨れが出来ちゃってるけど……ほっぺはまだ赤いだけだから急いで冷やせばまだ間に合うはず……」
わたらいさんの真剣な表情を、僕はまじまじと見ている。なんだか、全てが他人事みたいな変な気持ちだ。
「だめ、もっと冷やさなきゃ。これじゃ、足りない。しっかり冷やして、軟膏を塗らないと」
わたらいさんが、ずっと独り言を言っている。
「待ってて、ぺこ」
彼女は僕の頬から慌ててペットボトルを離すと、またコンビニへと駆け込む。冷凍ケースから凍ったペットボトルを掴み出すと、レジへ向かうのが見えた。
彼女が自分のわずかな財産を、僕の治療のために使おうとしている。
レジを終えたわたらいさんは、凍ったペットボトルをハンカチで包むと、僕の火傷の患部に強く押し当てた。その冷たさが、焼けた皮膚にじわじわと染み渡る。
「今日は、家に帰ろう」
わたらいさんが、当然のことのようにそう言った。さっきまで、子どもみたいに駄々をこねていたのに。
「でも、よじれがまだ……大丈夫だよ。僕は」
彼女が献身的に患部に当て続けるペットボトルを、自分で持ち直す。
「だめ。ここじゃ、ちゃんと冷やせない。薬も塗らなきゃ」
彼女は僕に言い聞かせるような強い口調で、きっぱりと告げる。
僕が彼女を死の淵から強引に引き止めたように、彼女は僕の安全を支配することで応えようとしている。
「帰ろう。そして明日、自転車で行けば、もっと遠くまで行ける」
わたらいさんの発言に、僕はハッと顔を上げた。
「自転車……?」
「うん」
僕の喉の奥に、鉄の味が広がる。
兄ちゃんが死んで以来、僕は自転車に乗ることを避けてきた。
僕は、わたらいさんに気づかれないように、ペットボトルを押し当てる手のひらをわずかに震わせた。
わたらいさんは僕のその震えには気づかず、瞳を輝かせた。
「ね、自転車。もっと早く、広い範囲を探せる」
彼女の瞳は光に満ち、再び希望に火が灯った。
「だからね、ぺこ。今日は帰って、明日に備えて手当てをするの」
僕の心臓が、早鐘を打ち始めている。それはこれまでのような恐怖ではなかった。
宣戦布告だ。
この子が求めるのなら、僕は、あの痛みを乗り越えてみせる。
そうだ。クリーナーの言葉を思い出せ。
全ては、僕が生み出した幻に過ぎないんだ。
「……わかった」
僕も素直に頷いた。火傷の痛みも増している。
わたらいさんは、コンビニの駐車場へ目を向けた。
「ぺこ、あれ」
彼女が指差したその先には、一台のタクシーが停車していた。目を凝らすと、運転手は車内で新聞を読んでいるのが見える。
わたらいさんは全財産のお札を握りしめると、僕を連れてタクシーに近づいた。
「あの……すみません」
彼女が窓をノックすると、運転手が怪訝そうに顔を上げた。
少しだけ窓が開く。
わたらいさんはその隙間にさらに顔を近づけながら、その場で僕の火傷の腕を指差した。
「友達が、怪我をしました。早く家に帰って手当したくて……家は、すぐそこのアパートなんですけど……これだけあれば、行けますか?」
彼女は詳しい住所を告げながら、手に握りしめた全財産を、窓から運転手に差し出した。
運転手は、目の前の女の子が差し出す、どう見ても多すぎるであろう大金を見て、一瞬、目を見開く。次いで、水膨れができ始めている僕の腕を見る。すぐに状況を理解したようだった。
「ああ、それは大変だな。大丈夫、ここからだったら、二千円もあれば余裕で着くよ。そんなに出さなくていい。とりあえず、早く乗りな」
運転手はすぐに後部座席のドアを開けてくれた。僕たちはタクシーに乗り込む。
しかし、タクシーは動き出さない。
わたらいさんは僕の横で、凍っていない自分の飲みかけのペットボトルを僕の腕に当て続けている。
「しかし、君たち、こりゃひどい火傷だ。家に着いたってどうにもならん。素人じゃ、最悪痕になるぞ。お嬢ちゃんのお金は病院代にも使えるのか?」
運転手が尋ねると、わたらいさんの顔が一気に青ざめた。彼女は運賃のことは考えていただろうが、病院の費用がいくらかかるかなど、知る由もなかった。
「……わかりません。でも、私……これしか、本当にこの分しか、お金がありません」
運転手が後部座席を振り返る。
「病院は先払いしなくていい。親御さんが来てからでいいんだ。とにかく、こんな火傷は素人じゃ治せん。このまま一番近い救急病院に行くぞ。いいな?」
運転手は真剣な顔で僕たちを見た。
僕たちは顔を見合わせる。
もはや抵抗できなかった。大人一人の正しい判断の前では無力だった。
タクシーは静かに走り出す。家に向けた道ではなく、救急病院へと向かった。
「痛いか?痛いよな。待ってろよ、病院に着いたら、親御さんに連絡するんだぞ。どっちの親に連絡する?それとも、もう連絡したのか?」
助手席の運転手が、僕たちに声をかける。
「俺のでよければスマホ貸すから、連絡するといい」
運転手が、スマホを差し出してくる。
「あ、あの……」
それを受け取ったわたらいさんが、震える声で運転手に言った。
「私の……両親は、事故で治療を受けていて……祖父母はそのためにもう病院にいるはずです。
来てくれるかは分かりませんけど……彼の……綾瀬くんのお母さんに連絡させてあげてください」
彼女は、僕の緊急事態という建前で、来てくれる確証もない僕のママをこの異常な世界に引きずり込むことを選んだのだ。
家に着くはずだった時刻、夜の九時少し前。僕たちが降りたのは家ではなく、夜間救急の入り口だった。
タクシー運転手が親切に、外来受付に事情を話してくれている間に、僕は借りたスマートフォンを握りしめていた。
その手が制御不能なほど震えている。
僕の明らかな異変に、わたらいさんは気づいた。
兄ちゃんの事故以来、救急外来の待合室は、僕にとって、一人で待つ自己罰の記憶そのものだった。
わたらいさんは、僕の震える左手を、そっと自分の右手で包み込んだ。
「……こんなに怪我したぺこのことも無視してひとりぼっちにするママだったら、殺す」
わたらいさんが、僕の耳元で囁く。
「本気だから」
僕は繋いだ彼女の手に縋るようにして、ママに電話をかけ始めた。




