第39話 蘇生
もうすぐ夕暮れだというのに、照りつける太陽の熱を容赦なくアスファルトに溜めていく。
熱狂と多幸感に浸る僕らの肌さえ、焼けるようにひりついた。
「今日の夜には、おじいちゃんたちがこっちに来てくれることになってるから……あんまり、時間がない……」
溶かされるように汗をかきながら、わたらいさんが言った。僕らは車通りの多い道を、事故現場である役所周辺へと逆走する。
「そっか……それでも、行けるところまで行こうよ」
僕はそう答えた。
ここから役所に行くには、車で数十分はかかる。子どもの足で歩いていくのは、もっと時間がかかるだろう。
アスファルトの熱が、それをさらに困難にした。
「ここ……あの日も通ったの?」
僕が尋ねると、わたらいさんは顔を上げずに頷いた。
「うん。なんか、全部嘘みたい……」
傾きはじめた太陽を背負った僕らの前に、濃い影が落ちる。
わたらいさんは、まるであの日の熱に引き寄せられるように、無言でその影に近づいていく。そして、決して追い抜くことはできないその影を踏み越えるように、一歩、また一歩と歩みを進めた。
それは、トラウマへの接近であり、消えることない罪悪感を清算するかのようだ。
わたらいさんの顔色が悪い。
想像以上の暑さのせいか、それともトラウマによるものか。僕は敢えて尋ねなかった。彼女が抱える狂気は、すべて僕が受け止めてあげたかった。
わたらいさんは今、前に進むことだけに集中している。この瞬間だけは、本来の目的を忘れてしまったかのように、ただ足を動かしている。
僕もまた、その沈黙に倣い、ただ彼女の手を強く握りしめることに集中していた。
そのうち、わたらいさんは時折、足元や道端の植え込みに目をやり、微かな期待を込めて呼びかけてるようになった。
「よじれ……」
その声は、見失った猫を呼ぶというよりも、誰かに許しを乞うような切実な響きだった。
僕も思いつく限り、猫の好みそうな場所に目をやる。見つかるのは別の猫ばかりだった。
「猫には猫のコミュニティがあるっていうよね」
キジトラ猫を前にした僕が呟く。
人違いならぬ猫違いにがっかりしているわたらいさんの視線がこちらを向いた。
「僕たち、よじれって黒猫を探してるんだ。尻尾のところに、火傷の跡がある。見つけたら、家に帰るように伝えてくれない?」
僕は、当たり前のようにキジトラ猫に話しかけていた。自分の幻影と話していたことを思えば、なんでもない。
何より、少しでも彼女の不安を和らげてあげたかった。
キジトラ猫は、鬱陶しそうに目を細めてどこかへ行ってしまった。
今更ながら、気まずくなってきた。恐る恐る、わたらいさんを振り返る。
「……ぺこ」
案の定、彼女は驚きと戸惑いの入り混じった表情で僕を見つめていた。
なんの言い訳も浮かばずに、僕はただ口をぱくぱくさせている。
やがて、わたらいさんのその瞳にじんわりと温かいの光が満ちた。
「ぺこの、そういうところ、すごく好きだよ」
わたらいさんが嬉しそうに笑う。
「ぺこは優しいんだね。優しくて、かわいい」
彼女の視線が僕の顔から離れなくなった。その熱い視線に、顔が余計に熱くなる。
「やめてよ」
かわいいなんて、柄じゃない。猫の目線に合わせてしゃがみ込んでいた僕は、彼女の視線から逃れるように縮こまる。汗ばんで前髪を貼り付けた額を、微かにひんやりした風が撫でた。
「……あれ」
「どうしたの?」
日向にいるわたらいさんが、声をかける。
僕は道の端にいたキジトラ猫が隠れた、生垣の下の、日陰になった細い窪みを指差した。
「わたらいさん、ここ少し涼しいよ。風が吹いてひんやりしてる。きっとあの猫は、ここが涼しい場所だって分かってたんだ」
生垣から吹き上げる風に、人心地つく思いがした。
「……よじれも、こういう秘密の場所を知っていてそこで休んでいるのかもしれないね」
しゃがみ込んだ姿勢のまま、わたらいさんの方を振り返る。
わたらいさんの瞳が、僕の言葉に反応して一瞬、希望に輝いた。よじれが生存している可能性を示すヒントを得たことに、純粋な喜びを感じたのだ。
「すごい、ぺこ」
わたらいさんが夕陽を背負って、僕に影を落とす。
「それじゃあ、今度は涼しそうなところ……を、探すね」
変なところで言葉が詰まる彼女に違和感を覚えながらも、僕は特に指摘しなかった。
僕らに追い立てられたキジトラ猫が、窪みの少し奥のところで丸くなっているのが見える。
「ねえ、ここ涼しいよ。ちょっとこっちに来て休んだら?」
僕は立ち上がり、わたらいさんに歩み寄る。そして、汗ばんでしっとりした彼女の腕を掴み、日陰に誘う。
「……いいよ、私は」
わたらいさんは僕が掴んでいない方の手で、路肩の熱を溜め込んだ電柱に触れたまま、その影に近づこうとしない。
「大丈夫だから、私は。熱くても、平気だから」
彼女は、自分に言い聞かせるように呟いた。
さらに歩き、交差点で信号を待つ。信号機の細い柱がアスファルトに落とす、かろうじて身体を隠せるほどの細い影に、僕はまた彼女を誘った。
「ここ、ちょっと日陰だよ。おいでよ」
わたらいさんは、僕の誘いに反応しない。疲労からか、柱の反対側にある熱せれたガードレールに寄りかかっていた。
「ねえ、ぺこ。あそこの看板見える?いつのまにか、新しいお店ができたんだね。オシャレだけど、なんて書いてあるんだろう……」
彼女が、どうでもいい話題で僕の優しさを逸らしているように思えた。何かを恐れているみたいに。
信号が変わり、また歩き出す。
そこからさらに数分間、僕らは無言で歩き続けた。帰宅を急ぐ人も減り、街は夜の静けさに包まれ始めている。
歩いた距離にしたら、大したことはない。役所にはまだまだ遠い。
この暑さがずっと行く手を阻んでいる。
わたらいさんの足取りはもはやフラフラで、その体は辛うじて僕に寄りかかっている。彼女の体温が熱くなりすぎているのを感じていた。
僕は立ち止まった。
「わたらいさん、これ以上は無理しちゃダメだ」
それに、こんな状態で歩き続けても、捜索効率は悪い。
「やだ!まだ……まだ行けるっ!」
わたらいさんは僕の肩に顔を埋め、抵抗の声を上げた。幼児のようなわがままな抵抗だ。
「行こうよ、ぺこ……お願い。あと、少しだけ……」
彼女は、泣きそうな声で僕に縋る。
「違うよ。探すのを諦めるわけじゃない。今日は、ここまでにしようってこと。このまま行っても、暑さで君が倒れちゃう。それじゃあ、見つかるものも見つからない」
「暑くないもん……」
わたらいさんが小さく、うわごとのように呟く。
「……こんなの、まだ。パパとママはもっと……もっと熱かった、のに」
彼女の自己犠牲の理由が、あの事故の熱と痛みで自分を罰し続けていることだと、僕ははっきりと理解した。
「バカなこと言わないの、おいで!」
僕はわたらいさんの腕を掴み、無理矢理に、明かりが煌々とついたコンビニへと引きずり込んだ。扉が開き、冷房の寒いほどの冷気が二人を包む。
ほとんど引きずられるようにして店内へ入ったわたらいさんを、冷凍ケースの前に立たせる。僕は扉を開けて、さらに冷気を浴びさせた。
「……は、あ」
わたらいさんは冷凍ケースの中に入らんばかりに、吸い寄せられている。
「アイス、どれにしようか?」
僕は、周りの客に怪しまれないように出まかせを言う。ただアイスを選んでいるだけですよという雰囲気を出して、誤魔化す。
そして、冷気に目を細めてているわたらいさんの耳元にだけ、そっと囁く。「生き返るね、わたらいさん」
僕がそう言うと、彼女は素直に「うん」と答えた。
瞬間、はっと目を見開く。その言葉に驚愕していた。
文字通り、罪悪感から熱という死の淵へ向かっていた自分が、今、僕によって強引に蘇生させられたことを理解したのだ。
わたらいさんの唇が、震えている。寒いわけじゃないけど、僕は冷凍ケースの扉を閉めた。
「言って。わたらいさんも。生き返ったって、言って」
僕は促す。彼女の口から聞きたかった。
「……そんな、私……っ」
彼女はこれ以上は耐えられないと言わんばかりに、店内を足早に歩き、外へと飛び出した。




