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第38話 行こうか

 僕が玄関で靴を履き終えると、わたらいさんがトートバッグひとつだけを持って現れた。


「それだけでいいの?」

 大荷物だとしても、僕が持ってあげるつもりだったのに。


 思わず僕が尋ねると、わたらいさんはバッグを抱きしめるようにしながら、どこか諦めたように笑った。


「うん、あのキャリーバッグは燃えちゃったし。鍵はたまたまポケットにあったけど……でも、必要なものはもう全部ここにあるから」


 そう言って、彼女はトートバッグからよじれのエサを少しと、懐中電灯をかざして僕に見せた。


 わたらいさんの言葉は、彼女に降りかかった悲劇のすべてを含んでいた。


 僕は敢えて何も言わずに、彼女が着ていたシャツの裾を、そっと指で引っ張る。

 わたらいさんも、すぐにその意図を察したらしかった。


 彼女はかざして見せたものをトートバッグに戻し、靴を履く。そして、鍵のかかっていないドアノブに手をかけた。


 そのまま彼女がドアを開けて外に出る。


 アパートの外廊下から通り抜けてくる真夏の風が、室内に充満していた甘ったるいシロップと、重苦しい告白の熱を一瞬で吹き払っていく。


「それじゃあ、行こうか」

 戸締りをしたわたらいさんが、空いたその手で僕の手を取り、強く恋人繋ぎにした。絡め取られたままのこの手は、もはや離れ離れにならないための呪いのようだ。


 外廊下を進む。階段を降りる手前で、わたらいさんが立ち止まった。


 僕の家のドアの前だ。


 わたらいさんは、不安げに僕を見つめた。

「いいの?勝手に出かけて」


 彼女の問いかけは、僕がママに許可を取ったかどうかの確認ではない。

 僕が日常を捨てて、彼女の狂気に付き合うという選択を、本当にしたのかどうかという最終確認だ。


 僕はママに一声かけることもなく、ここにいる。わたらいさんの隣。その選択の重さを知っている。この選択こそが、今、わたらいさんが最も必要としている裏付けだ。


「行こうよ」

 僕はそう答えた。言葉は簡潔に、しかし力強く。繋いだ手を強く握り直した。




 階段を降り、駐輪場の前を通って、車通りの多い道に出る。


「どこから探す?」

 僕が尋ねる。


「はっきり言って……どこにいるのか、検討もつかない」

 わたらいさんは、不安げに表現を曇らせた。

「事故の後、すぐに探しに行けたら良かったんだけど……念の為に検査入院させられたり、警察に色々話を聞かれたりしたから。でも、行けるところまで行くつもり」


 総じて、まるで手掛かりなしの現状に、わたらいさんが俯き、声を殊更小さくする。

「ごめん……付き合っていられないって思ったら、帰ってもいいから」


 僕は立ち止まることなく、繋いだわたらいさんの手を強く握り返した。

「僕はそんなことしないって、分かってるはずだよ。わたらいさん」


 彼女が顔を上げる。僕も彼女の目を見つめている。

「もしも帰ることになるとしたら、君も一緒に帰るんだ。そして次の日もその次の日も、何度でも一緒に探せばいい」


 わたらいさんは、言葉を失ったようにしばし呆然と僕を見つめた。やがてその瞳は安堵に満たされ、口角が緩く持ち上がった。


「それに、手掛かりが全く無いってわけじゃない。動物には帰巣本能というのがあるから、よじれは案外近くまで来ているかもしれないよ。だから、探すんじゃなくて迎えに行けばいいんだ」

 そう言って僕は、彼女を励ますように、繋いだ手を前後に揺らす。


「……ありがと、大好き」

 散々キスを交わした彼女の唇から、最も純粋な言葉が不意打ちのように発せられた。


 その告白に僕は一瞬、息の仕方を忘れてしまう。顔が熱い。繋いだままの手のひらが、熱を帯びたように汗ばむのを感じた。


 僕がいつまでも固まっているので、聞こえなかったと思ったらしい。顔を真っ赤にしたわたらいさんが、今度は誰にも聞かれないように、小さな息だけで囁いた。


「……好き」


 彼女のこの一言を、僕はどれだけ長く待ち望んでいたのだろう。


 目が眩むような多幸感に、気を抜いたらその場にしゃがみ込みそうだ。


 僕の喉の奥から絞り出されたのは、彼女の告白を上書きする、激情にも似た返答だった。


「僕もずっと君のことが好きだよ」


 わたらいさんの瞳は光に満ち、美しく輝いていた。悲惨な現実や、両親の事故さえも、この瞬間だけは意識から遠く離れ、ほんの些細なノイズになったように見えた。


「……うん」


 安堵と幸福が混ざったような、震える声。一瞬、感情に浸りかけたわたらいさんは、唐突に繋いだ手を軸にして僕の体に密着してきた。


「ずっとこうしていられたらいいのにね」


 切ない声でそう囁くと、彼女はすぐに表情を引き締め、体をそっと離す。


「ほら!早く行こう!行き違いになる前に、よじれを迎えに行こう!」

 そして、繋いだ僕の手を彼女が力強く引いた。

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