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第37話 私だけ生きててごめんね※

※刺激的な描写あり


「待ってて」

 わたらいさんは立ち上がると、台所から冷やされたパイナップルのゼリーとスプーンを一つ持ってきた。そして、再び僕の傍に座り込む。


 ゼリーのフタをひと想いに剥がし切ると、「舐めてもいいよ」と悪戯な笑みを浮かべ僕に差し出した。


 僕はそれをじっと見つめる。フタから溢れるシロップが、彼女の腕を伝っている。


 僕は、フタを差し出したままのわたらいさんの手首を掴み、その腕を僕の顔へと引き寄せた。そして、彼女の白い腕を伝う冷たいシロップを、ゆっくりと這わせるように舌の先で舐め取った。


わたらいさんは、まるで全身に甘い毒がまわったみたいに、身体を微かに震わせた。瞬きを忘れたように、ただ僕を見つめている瞼の縁が、微かに震えていた。


 視線だけが僕の顔、その舌の動きを追う。


「あ……っ」


 彼女の口から漏れたのは、羞恥とも興奮ともつかない、か細い吐息だった。僕が手首を離しても、しばらく動けずにいた。腕に残る感触すべてが、彼女を支配している。


「……っ、そんなつもりじゃなかった……」

 恥ずかしそうにわたらいさんが呟く。


「じゃあ、どうするつもりだったの?」

 今度は僕が甘えるように、わたらいさんに抱きついて頬や首筋に唇を何度も押し当てる。


 「早く食べて」と促すと、わたらいさんがくすぐったそうに笑った。

「揺れてるから、食べにくいよ」


 仕方なく僕は彼女の首筋に顔を埋めるようにして、じっと抱きしめるだけに留めた。


 その隙に彼女がスプーンですくったゼリーを、口の中に運ぶ。微かに吸い込むような音の後で、咀嚼する微かな振動を感じた。


「生きてるね、わたらいさん。ちゃんとここにいるって感じがする」


 僕はどんなに渇望しても抱きしめられなかった、あの夜の幻影を思い出していた。


「ごはん食べて、心臓が動いていて、あったかい……ちゃんと、生きてるんだ」


「何?急に……」

 わたらいさんが呟く。その声が突然冷たくなったことに僕は驚いて顔を上げた。


「ごめんね、私だけ生きてて……」

 わたらいさんの表情が、みるみるうちにこわばっていく。

「……誰から聞いたのか知らないけど……そっか。ぺこも、全部知ってたんだ」


 その言葉は、彼女との抱擁の甘さをすべて洗い流した。


「ぜんぶ、って何のこと?」

 僕は、あえてそう問い返した。彼女を救うには、今、わたらいさん自身に全てを吐き出させる必要があった。

「僕、本当に何も知らないよ。急にどうしちゃったの?」


 僕はゆっくりと抱擁を解き、彼女を落ち着かせるために離れる。


「全部だよ。車両火災でパパとママが、車ごと燃えちゃったこと」


 わたらいさんは、その瞳に狂気の光を宿していた。


「火傷で皮膚がくっついてるほどの大怪我で、ICUに入ってる。


ニュース、見てない?しばらく、通行止めになったんだよ。


……見たとしても、本当のことは全部放送できないか」


 わたらいさんの声が震え、涙は出てこないのに、嗚咽だけが喉の奥で詰まっていた。


「離婚届を出しに役所に行くっていうから……私もよじれとついて行ったの。


よじれのキャリーと私が後部座席に座れば、パパとママは運転席と助手席で並んで座るでしょう?」


 わたらいさんは思い出したように、ゼリーとスプーンを床に置いた。


「本当に、本当にそれだけだったの。『パパとママが離れ離れにならないように』って……


『溶けてくっつく』とは、思わなかったの。私のせいだよね?」


 わたらいさんが、膝を抱えるような姿勢で縮こまる。両手で自分の髪の毛を掻きむしるようにするその手を、優しく掴んだ。


「触らないでっ!」

 半狂乱のわたらいさんが、僕の腕を強く叩き落とす音が鋭く響く。


 彼女の告白は、その願いが歪な形で叶った瞬間に、すべてが燃え落ちたという残酷な現実を語っていた。


「ねえ、ぺこ……」


 彼女は無理矢理気分を落ち着かせるように、両手で雑に自分の耳を触り始めた。


「私ね、事故直前に車から出たんだよ」


 彼女は、残っていた罪悪感の塊を吐き出すかのように、その言葉を絞り出した。


「信号待ちしてた時に、よじれが唸り声を上げたから、様子を見るためにキャリーの入り口を開けたの。


そしたら、よじれが停車中の車の窓から、外へ飛び出して逃げた。私は、それを追いかける形で……外に出た。そのすぐ後だった。


赤信号で速度を落とさなかった大型車両が、停車していたうちの車に突っ込んできて、衝撃と同時に炎が上がった。


突っ込んできたのは、大型のタンクローリー。積荷は、ガソリンに近い引火性の高い工業用溶剤だったって、後で知った。


私は結果的に助かったんだ」


 わたらいさんが、僕に縋りつくように服を掴んで、すぐに離す。


「ねえ、ぺこ……溶けたんだよ。パパとママが並んで座っていた車が、大きな火の塊になって……パパとママは溶けてくっついたの」


 僕の目の前で、わたらいさんの手が、罪の重さで震えているのがわかった。


「私……もしかしたら、逃げる黒猫を選んで、パパとママを見捨てたのかもしれない。パパとママが私を選ばなかったみたいに……私も、パパとママを選ばなかった……っ」


 幼い頃の選ばれなかったトラウマと、事故による自ら選ばなかった罪悪感が結びつき、彼女の精神は崩壊の淵にあった。


「ちがう、それは見捨てたんじゃないよ」


 僕は静かにわたらいさんを見つめていた。


「わたらいさんは、『誰も選ばないもの』を選んだんだ。雨に濡れた手負いの黒猫を助けた時から、君はずっと変わらないよ。当然だ、よじれを選んであげられるのは、ずっと君だけなんだから」


 ほんの一瞬、予想外の肯定にわたらいさんの表情が緩んだ気がした。


「でもっ、私、最低だよ……こんな状態になっても、まだ早くよじれを探しに行かなきゃって思ってる。


パパとママが早く目を覚まして欲しいとか、そんなことより、自分のことばかり考えてる。


もうすぐおじいちゃんとおばあちゃんが、私とパパとママの様子を見に、遠くから駆けつけてくれる。


おじいちゃんもおばあちゃんも、優しいから大好きだよ。でも……このままもしパパとママが目を覚まさなかったら……そのままおじいちゃんたちと暮らすことになるって……警察の人が言ってた。


私、ぺこと『離れ離れになりたくない』よ。


だから、よじれを探さなきゃ。そうじゃないと、私……っ」


 湧き上がる感情を抑えきれないわたらいさんが、一息に話す。


 それは、破滅への誘いだった。


 彼女は、自分の両親を「溶けてくっついた」状態にしたのと同じ熱量で、僕との関係を永遠のものにしようと求めている。


 わたらいさんが、僕の片手を絡め取るように強く恋人繋ぎにした。


「ねえ、一緒に探してくれるよね?」


 僕は答えの代わりに、絡め取られた手を離さぬまま、彼女の震えてる唇に、自分の唇を、そっと触れさせた。

「くっつくなら、このままがいい」


 彼女は、僕のキスが離れるのを許さず、さらに深く、自分から吸い付くように僕の唇を求めてきた。


 片方の手は繋いだまま、自由な方の僕の手が彼女の背中に導かれる。彼女の片手は、僕の後頭部に回されている。


 僕は、その激しい要求に戸惑いながらも、こそばゆい気持ちに少し笑ってしまった。この子が背負う罪の重さと、僕が得た幸福の軽さが、あまりに対照的だったからだ。


 どちらともなく身体を離す。絡めた手をそっと解いて、その隙に床に置かれたゼリーとスプーンを拾い上げた。


「これ食べたら探しに行こう」

 僕はパイナップルのゼリーをスプーンでたっぷりとすくい上げ、口に含んだ。


 すかさず、わたらいさんがゼリーのシロップで濡れた唇に吸い付く。


 咀嚼する前のゼリーを舌でそっと押し出すと、わたらいさんがその甘さを全て貪り尽くすように、僕の口からゼリーを奪い去った。

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