第36話 誰にも選ばれないもの
彼女は、「なぜ、これを?」という至極真っ当な問いを呑み込み、僕の顔を見上げた。その瞳には純粋な喜びは微塵もなく、今目の前で起きていることへの困惑だけが宿っていた。
「水族館で色々なものを見たけど……これだけが、一番、わたらいさんに似ているって思ったから」
僕は、躊躇なくそう言った。
わたらいさんは、僕の言葉をどう受け取るだろう。いらないと拒絶される可能性も、もちろん頭にあった。
それでも僕は醜い感情を肯定するという、僕自身の罪の熱に突き動かされた。
「一番、似ている……?」
わたらいさんの唇が、小さく、そして皮肉な形に歪んだ。
「ぺこには、私はこんな風に見えているんだ?」
彼女は必死に自分のペースを取り戻そうとしている。発言こそ挑発的に茶化してはいるが、その瞳は変わらず戸惑いに揺れている。
僕は、彼女の瞳が揺らいでいるのを見つめたまま、微動だにしなかった。そして、わたらいさんの手のひらから、ダイオウグソクムシのフィギュアをそっと取り上げ、自分の手のひらに載せる。
「うん。深い海の底にいるところとか、何を考えているか、誰にも分からないところとか」
僕はフィギュアの冷たい甲羅の造形を指先でなぞった。
「硬い甲羅に隠している、か細い無数の脚とか。……でも、見た目なんて本当はどうでもいいんだ。だって、世界で一番、僕が深く愛しているのは……」
その先がどうしても言えなくて、僕はフィギュアを彼女の目の前に差し出した。彼女の空虚な手のひらにそっと押し付けるようにして、返す。
「僕は……本当は君の心の奥が冷たくて、誰にも理解されないことを知っている。それでも美しいと断言できる。僕はマトモじゃないけど……だから、安心できるでしょう?」
フィギュアを載せたまま開かれている彼女の手のひらに、そっと触れる。
「僕も、君もおんなじだもんね?」
言い切った後、僕はわたらいさんの目から視線を逸らさなかった。
「僕は……こういう、誰にも選ばれないものが、一番、大切だと思ったんだ。これが、君の一番欲しいものだと思った……だから、僕が選んだ」
その瞬間、わたらいさんの瞳に宿っていた警戒と戸惑いの膜が、一気に引き裂かれた。その奥で歓喜と、それを上回る恐怖が光る。
彼女の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「ねえ、ぺこ」
わたらいさんが、僕の名を呼んだ。
「……プレゼントのセンス、ないね」
彼女は少しだけ口角を上げて、泣き笑いのような顔になる。
「こんなのもらっちゃったらさ……もう、他のプレゼント、何にも嬉しくなくなっちゃう……」
散々泣いてしまった彼女の目からもう涙は出てこない。声が震えている。
「……怖いよ」
僕は一瞬だけ、目を閉じた。
そして、目を開けて、涙の跡が残る彼女の頬に、自分の手の甲をそっと押し当てた。
「うん、怖いよ。僕も怖い」
僕はそう言って、静かに微笑む。
その言葉に、わたらいさんが「なぜ」と問うことはなかった。
「だから、ずっとなかよしでいようね」
僕は彼女の頬から、手を下ろす。
わたらいさんはフィギュアを握りしめた。その小さな甲羅が、彼女の皮膚に食い込んでいるのが見えた。
「……変なの」
フィギュアを見つめたわたらいさんが、改めて率直な感想を口に出す。
「でも、大切にするね。ぺこがくれたから」
彼女の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。そしてすぐに、その口角が下がる。
「……ぺこ」
「何?」と僕が応えるとわたらいさんは、その重い秘密を絞り出すように口を開いた。
「あのね。……あのゼリー、まだある」
僕の呼吸が、一瞬止まる。
「それって、僕が熱を出した君のために、玄関のドアノブにかけていったやつ?」
わたらいさんは恥ずかしさからか、再び顔を伏せようとしたが、僕はそれを許さなかった。
両手で彼女の頬を優しく掴み、顔を上げさせる。
「パパに……『危ないから捨てなさい』って言われたけど、……私、こっそり冷蔵庫の奥に隠してたの」
彼女は、一見何の変哲もないゼリーを、僕からの唯一の贈り物と信じて、父親の命令に背いて守り通したのだ。
「わ、あ……」
その告白に、僕の胸の奥で、歓喜と支配欲が揺らめいた。
「ああ……やっぱり……わたらいさんは、それを僕からのものだと分かってくれたんだね」
僕は安堵の吐息と共に囁く。
わたらいさんはにっこりと笑った。
「だから……食べよ。今」
わたらいさんは、吐息混じりに、幼い声で要求した。




