第33話 支配の純度※
※刺激的な描写あり
「……中に入ろう、ひかり」
僕はそう呟くと、縋りつくわたらいさんの体を決して離さないまま、少し身体をずらしてドアを開けた。わたらいさんは抵抗せず、僕に抱きついたまま部屋の中へ滑り込む。
ドアがカチャリと静かに閉まった音は、外のノイズを完全に遮断する、二人の世界の始まりの合図だった。
ようやく、誰にも邪魔されない。
二人で廊下を行く。
わたらいさんは、僕の服を強く掴んだまま、横並びで僕についてきた。
その足取りはまだ覚束ない。僕のシャツの裾を掴む彼女の指先に、まだ力がこもっているのが分かった。
僕は彼女の部屋の壁際に着いたところで、ゆっくりと立ち止まった。そして、壁にもたれる形で腰を下ろす。
この場所なら、もう外界の音も、ママの視線も、何ひとつ届かない。
わたらいさんも隣に腰を下ろす。その瞳は、まだ安堵と恐怖がない交ぜになっている。
僕は、涙で濡れる頬に手を伸ばす。彼女は、頬に触れる寸前の僕の手をパチンと払った。
わたらいさんの顔が強張るのを見て、素直に手を引くべきだったのに、ほとんど反射的に、僕を拒絶した彼女の腕を、強い力で掴み返していた。
その瞬間、わたらいさんの表情が安堵と恐怖がない交ぜになったものから、確かな高揚を伴うものへと変化したのを、僕は見逃さなかった。
ああ、そうか。彼女が求めているのは、僕の優しさや慰めじゃない。
弱さを見せれば、彼女はまた隙を見せたことで僕が離れていくのではないかと怯えている。
彼女は、僕の絶対的な支配を求めているのだ。その強い力だけが、彼女を救うのだ。
両腕を捕らえて、その勢いのまま、わたらいさんの身体を背後の壁へと押し付ける。
「……っ!」
両腕を押さえつけられ、壁という逃げ場のないものに背中を預けさせられた瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
瞳は驚愕と恐怖で限界まで見開かれ、呼吸はまるで水中で息を止めたかのように完全に詰まった。
両腕の筋肉は一瞬で弛緩し、抵抗の意志を伴わない、ただの重りになった。
しかし、その恐怖は一瞬で、すぐにわたらいさんの瞳の奥に闇のような深い歓喜が灯った。
ああ、これだ。彼女の肉体が叫ぶのが分かる。
この強い力こそが、彼女を襲う全ての不安から永遠に守ってくれる盾であると、本能が悟ったのだ。彼女の表情はショックから一転し、恍惚とした笑みを浮かべた。
わたらいさんは抵抗する力を完全に失っていた。文字通り、彼女の全てを僕に預けようとしている。
その明らかな表情の変化に、僕は自分の過ちを悟り、心臓を鷲掴みにされたように慌てて掴んでいた手をほんの少し緩めた。
彼女の両腕のほのかに赤くなった皮膚が、僕の理性を失った衝動の跡を、生々しく物語っていた。
そして、衝動のままに動いた両手を、今度は戸惑うわたらいさんの頬に添える。
「……っ、あ」
顔という部位への急な接触に、彼女の表情は、先ほどよりもさらに痛々しく硬直した。
目を大きく見開いている。それは、驚きではなく、純粋な怯えだった。
彼女の口元は、微かに引きつり、呼吸は浅いまま止まっている。
「……っ」
わたらいさんは小さく息を呑み、全身の筋肉を硬くしたまま僕の両手から逃れようと、逃げ場のない壁へと僅かに身を引いた。
その微かな抵抗が、「お前の献身は、結局、彼女を支配するための暴力なのではないか」と問うていた。
僕は自分の指先が、彼女の顔に触れていることを理解した。この接触が、彼女を怯えさせている。しかし、なぜなのかは全くわからない。
この怯えは、きっと、僕の支配が唐突すぎたからだ。弱っている時に、僕の全てで制圧しようとしていると彼女が直感したからだ。
そうだとしても、優しさはもう通用しない。中途半端に手を緩めても、彼女の不安は増すだけだ。
それなら、やるべきことは一つ。
「大丈夫……」
僕は、すぐに言った。
「びっくりさせてごめん。わたらいさんの嫌がることは、二度としない。絶対に。……だから、安心して、『ひかり』」
そのままお互いの鼻を、そっと、触れ合わせる寸前で止める。
「ただ、伝えたいんだ。言葉じゃなくて……僕の心をあげるってことを」
頬に触れていた両手を、そのまま耳へと滑らせる。指先で、わたらいさんの耳介の端を優しくなぞる。
「……っ」
彼女は怯えの表情を崩さないが、その接触を拒絶はしなかった。諦めたように、目を閉じている。
「ねえ、わたらいさん。よく、自分の耳を触ってるでしょ」
僕がそう問いかけると、彼女の目が再び大きく見開かれた。
「どうして……っ」
彼女の耳の縁は、いつも他の皮膚よりもわずかに赤く、小さな癖で擦れたような、薄い痕があった。
「何かを聴きたくないから、耳を塞いでいたの?」
そういう風にしてできた傷とは思えなかったが、僕はあえて口に出した。
わたらいさんの瞳に、再び涙が滲んだ。
両親の不仲という、彼女の孤独の原点を、正確に指摘されたからだ。
「……違う。そうじゃ、なくて……っ」
わたらいさんは、必死に何かを否定しようとしている。
この抵抗を、僕は許さない。
僕は両手の指先で、彼女の耳介全体を、強めに、しかし丁寧に揉み始めた。
「ひ……っ、ん……ぅ」
わたらいさんの硬直していた体から、空気が抜けるような呻き声が漏れた。
「こうすると、副交感神経が、優位になって……っ」
わたらいさんの言葉は、熱を帯びた震える吐息に変わっていく。それは明らかな悦びのサインだった。
科学的な説明をしようとしながらも、彼女の身体は、僕の支配的な接触に抗う術もなく降伏していた。
「リラックスできるんだって……パパが、言ってた……っ。でも、うまく、できなくて……っ」
僕はその悲しい論理を慈しむように、しかし冷酷に受け入れた。
「うん。そうだね」
わたらいさんの両肩の緊張が、まるで氷が解けるように、緩んでいくのを感じた。
「副交感神経が優位になるまで、僕が、ずっとこうして揉んであげるから」
その言葉と指の温もりがよほど響いたのか、彼女の全身から、一気に力が抜け落ちた。
理性を守るための自衛行動が、安らぎとして他者によって初めて与えられた戸惑いは、見る影もない。
わたらいさんは、壁に背中を擦り付けるように、ずるずるとその場に沈み込んだ。
僕は床にあぐらを組んで座った。彼女をそのままにせず、そっと手を引く。
そして、抵抗する力のない彼女を、まるで赤ん坊を抱き上げるようにして、僕の膝の上に向かい合って跨がるように座らせた。
わたらいさんは、自分の身体が僕に密着していることすら認識できないほど、完全に脱力していた。
僕の膝の上に跨がる彼女の腰が、微かに、もぞもぞと動き始めた。
目をつむり、僕の肩に頭を預けている。それは意識的な行為ではなく、耳揉みによる快感と幼児的な安堵が、反射的な依存として腰の動きに出たものだろう。
僕は今、彼女を救済しているのか、それとも、ただ悪戯にこの悦びを求めているだけなのか。その境界線が、彼女の吐息で曖昧になる。
「……かわいい、恵」
思わず心の声が出てしまう。すっかり僕の膝でとろけている。あまりにも無防備だ。
「かわいいっ……」
「……う、ん」
彼女からも嗚咽混じりに、幼い声が漏れた。それは、安心感に対する、心の最も素直な返事だった。




