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第32話 僕の深海に差し込む光


 夜が明けて、軽い身支度と簡単な朝食を済ませた僕らは、淡々と帰路を急いだ。


 僕はママと会話したくなくて、持ってきた単語帳を開いて眺めるフリをしていた。


 その行いを肯定するような発言を、ママがしていたように思う。でも、どうでもいいことだった。時折僕の方を見ては、その視線が単語帳にのみ注がれている事実に、ママは満足したようだった。


 兄の遺骨ネックレスが僕のズボンのポケットに押し込まれたことなど、知る由もない。




*****


 車がアパートの駐車場に入る。停車すると、ママが疲れたように車を降りた。


 僕はわたらいさんへのお土産を、改めて手に取る。助手席を出ると、ポケットの中のネックレスが微かに音を立てた。


 大した荷物はないので、それぞれがひとつずつ手に持つと、車のドアは閉じられた。

 駐車場を見回す。わたらいさんのお父さんの車は、なかった。


 日常への帰還。ただママの後ろをついて、自宅まで戻る。階段を登って、自宅のある階までたどり着く。


 僕の視線は数件先のドア、わたらいさんの家に釘付けになっていた。


 もう、待てなかった。


 ドアノブに鍵を差し込むためにもたついているママを放ったらかして、僕はそのドアに駆け寄る。


「ちょっと!」

ママは、鍵から手を離さずに、鋭い声で叫んだ。

「手伝いなさいよ!」


 僕は反応しない。その言葉は、もう僕の耳には届かなかった。僕の世界には、わたらいさんのドアしかなかった。


 そこに旅行前、ドアノブに下げたコンビニ袋とゼリーがなくなっている。と、いうことは……。


 僕はお土産の紙袋にしがみつくようにしながら、震える手でドアチャイムを鳴らした。


 すぐに、ドアの向こうでパタパタという、忙しない足音が聞こえた。わたらいさんの足音だ。


 鍵が開く音がして、ドアがわずかに開く。

 彼女が口を開くよりも早く、僕はその異変を察した。

 わたらいさんの瞳は涙に濡れ、数日前の穏やかさを失い、何かに対する焦燥と怯えに満ちている。


 わたらいさんは僕の顔を見るやいなや、まるで命綱に縋りつくように、半開きのドアから飛び出す勢いで僕の胸に飛び込んできた。


 紙袋がガサリと音を立てて足元に落ちる。

 彼女の腕は、僕の背中に深く絡みつき、その体は小刻みに震えていた。


 数件先のドアの前で、鍵でまだもたつくママが、何かを叫んでいるのが聞こえた。まるで遥か遠くのノイズのようだった。


 僕の意識は、目の前のわたらいさんの震えにしか集中していなかった。

 これまでのどの抱擁よりも強く、彼女は必死な様子だった。


 「わたらいさん……?」


 名前を呼ぶと、彼女は僕のシャツに顔を埋めたまま、熱い吐息だけで言葉を漏らした。


 「……会いたかった」


 その言葉には、僕のいない世界で味わった底知れない孤独と不安が詰まっていた。

 彼女の縋りつく強さが、彼女のいる世界が今、どれほど不安定になっているかを物語っていた。


 僕は、戸惑いながらも、すぐにその背中に腕を回し、力を込めて抱きしめ返した。


 胸元に、ペンダントの固く冷たい感触はない。僕はもう、兄の呪いには縛られていない。


 僕の全ては、目の前の不安に震えるわたらいさんのためにある。


「僕もだよ、わたらいさん」

 僕は、わたらいさんの耳元に唇を寄せた。

「会いたかった。会いたくておかしくなりそうだった。ごめんね、もうどこへも行かない」


 僕の胸元に頭を擦り付けていたわたらいさんが、「?」という顔をする。


「あれ……」


 その言葉とともに、彼女の手がまるで心臓の位置を確認するかのように、僕のシャツの胸元へ滑り込んできた。


 そして、その動きがある位置でぴたりと止まる。

 わたらいさんの指先が、いつもそこにあったはずの冷たい金属の感触を捉えられずに、シャツの布地を虚しく掴んだ。


「え……」


 彼女は一瞬、顔を上げた。その濡れた瞳は、驚愕と同時に理解の光を宿していた。


 変わらず「?」という顔をするけど、口に出していいのかどうか躊躇っているわたらいさんに、「そうなんだ」と僕はあっさりと告げる。


「ママは全然気が付かなかった。君が1番最初に気がついてくれたんだ。ありがとう。……そうなんだよ」


 わたらいさんは一瞬、息を飲み、その空っぽの場所に顔をを押し当てた。やがて、わたらいさんの身体が震え始める。


「う、うぅ……っ。ああ、あぁ……」


 泣いていた。わたらいさんの泣き声は、普段の気丈な彼女からは想像できないほど、幼く、壊れそうなものだった。


 そして、彼女の小さな拳が、ドンドンドンと衣服越しに僕の胸を叩き始めた。

 まるで、分厚い扉を前にした子供が、中に入れてほしいと懇願するようなノックだった。


 わたらいさんが泣いている。お腹の底から響くような声で、悲しみを叫んでいる。


 彼女が叩いているのは、きっと僕の心。僕の、罪悪感に逃げつづけた醜い心だ。


 僕は意を決し、震える声で告げた。

「ごめんね……恵」


 その瞬間、わたらいさんの身体が微かに跳ねた。おそらく、僕が「恵」という彼女の本当の名を、初めて呼び捨てで呼んだことへの動揺だ。


「君は……僕の光だった」


 僕がうわごとみたいにそう呟いたとき、彼女の身体がふっと脱力したように思えた。


「私……そんなに、綺麗じゃない、のに」

 嗚咽混じりの返事。


「でも、光は影を作るんだ」

 僕も喘ぐように答える。

「だから、"ひかり"。勝手に名前をつけちゃったけど、でも、ずっとそう呼んであげたかったんだ」


 その言葉が彼女の心に届いたのか、ノックが止まる。彼女の身体から、明確に力が抜けたのを感じた。


 わたらいさんはゆっくりと顔を上げた。その頬には、黒い髪が張り付き、熱い涙の筋がいくつも通っている。


 僕は戸惑いながら、流れる涙にそっと触れた。


 涙は筋を保ったまま、彼女の頬に張り付くように固着した。


「何これ……っ」


 彼女は困惑したまま自らの頬に触れる。指先に伝わるその違和感に、わたらいさんは喜びと混乱がない交ぜになった目で、僕を見上げた。


 僕は彼女の頬に、そっと手を伸ばす。張り付いた髪の毛を、剥がしてあげる。


「煮干し食べてから、変なんだ。君とおんなじようなことができる」


 ノックするのをやめたわたらいさんは、代わりに手のひらを胸元に強く押しつけた。

「……もう、誰も、ここにいないの?」


「うん」


 僕の即答に、わたらいさんは涙を堪えきれないような、ちぐはぐな笑みを浮かべた。


「よかったぁ……」


 彼女はそう呟くと、固着していた涙が再び流れ始める。僕の胸元に顔を埋めた。


「じゃあ……この場所は、全部、私のだね。 ぺこの、心臓のすぐ上の一番寒いところ。誰にも見えない、私のもの」


 嬉しそうなわたらいさんの声の後で、棲家を追われるクリーナーを少しだけ憐れに思った。

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