月夜のアフターティーパーティー
クリーナーはつまらないとでも言うように、頭を元の位置に戻した。
「ふふふ。あなたの感情は、いつだってアタシ抜きでは成立しないのに。案外うぶなのね、ぺこちゃん」
僕はその指摘を無視しようと、荒い息を吐いた。そして、胸元に触れる。そこには、かつて兄の遺骨が入っていたーー空っぽのペンダントがあった。
「ママの涙で、ぺこちゃんの罪は流れたのかしら?それとも、また新しい罪を作って、永遠の共依存を誓ったのかしら?」
その言葉は、まるで無数の鋭い針のように、僕の心の奥底を正確に突いてきた。
クリーナーの多肢が、お茶の入った紙コップを手繰り寄せるように蠢く。その存在が実体を持たないことを、僕は必死で頭に叩き込む。でも、望みは叶わない。クリーナーは、幻影だ。
「……全部、聞いていたくせに。白々しい」
僕が毒づくと、クリーナーは心底楽しそうに笑った。その多肢が、歓喜するように波打っている。
「聞いてたわよ〜!もうばっちり!でも、アタシはやっぱり、ぺこちゃんの口から聞きたいの!どうせママから逃れられないとわかっていても!」
クリーナーは、ハッとしたように急に触覚を上に向ける。
「待って待って!やっぱりアタシ、わたらいちゃんのことが知りたい!」
興奮気味のクリーナーの首元には、僕がわたらいさんのために選んだ黒いシャチのシュシュが、まるで優雅な襟巻きのように巻かれている。
「こんな夜中に、一人寂しく無料のお茶を飲むなんて、醜い真実をこそこそ隠している証拠じゃない!」
「幻影なんだし、全部聞いていて、全部知ってるんだろ。なのに、僕が一体何を隠せるっていうの」
僕は紙コップの中のお茶を回しながら、クリーナーの方を見ずに答えた。
「あら、つれないわね」
クリーナーは、ベンチの背もたれに長い体を預けた。硬い甲羅の当たる音はない。その仕草には、どこか現実的な重みと、幻影特有の軽さが混ざっていた。
「それにしても、この襟巻き本当に素敵だと思わない?ぺこちゃんがわざわざ選んでくれたのよね?アタシ、気に入っちゃった!」
クリーナーがフリフリと身体ごと襟巻きを揺らす。
僕は反射的に「そのシュシュはわたらいさんにあげるものだ」と言おうとしたけど、言葉を飲み込んだ。
クリーナーがこのシュシュを身につけているということは、僕の献身が既にわたらいさんの世界で肯定されていることなのではないか?
僕の独占欲が醜く顔を出す。それでも、その献身が肯定されているという事実に、微かな優越感が湧いた。
悟られまいと、必死に険しい表情を作る。
「……ムシに褒められても嬉しくない」
クリーナーは僕の冷たい返事を気にせず、優雅に微笑んだ。
「ねえねえ!それより、わたらいちゃんってどんな子なの?アタシ、興味津々よ!どんな可愛い子ちゃんが、ぺこちゃんの心をこんなにぐちゃぐちゃにしてくれたのかしら?」
僕は、ふやけ始めた紙コップの縁を指でなぞりながら、絞り出すように言った。
「……変な子だよ」
第一声は、何を差し置いてもそれだった。
「明るいけど静かで……多分、いつも何かを我慢していて、醜いものを隠そうとしてる。でも、僕がそばにいると、急に泣き出したり、笑ったり、甘えたりする……」
僕は、そこで言葉を区切った。
「なかよしになるために、あの子は全部知りたいって言うし、本当に……僕には、全部見せてくれてると思うんだ。普通なら、誰にも見せない醜いところまで……なかよしだから、僕の特権なんだ」
ちらっとクリーナーに目を向ける。
意外にも何も言わず、ただ耳を(耳はあるのか?)傾けていた。
「だから、可愛いとか綺麗とか、そんな月並みな言葉じゃ、絶対に説明できない」
そこまで話すと、僕は再び沈黙した。
クリーナーは、僕の発言を咀嚼するようにしきりに顎を動かしている。
やがて、いつもの耳障りな声が聞こえてくる。
「やだ〜!そんなのぺこちゃんの思い込みかもしれないじゃない!」
クリーナーは甲羅を揺らしながら笑った。
「何度でも言うけど、わたらいちゃんは賢くてかわいい子なの。お家柄もいいのよ。それに釣り合うような頭が良くてカッコいい男の子と出会ったら、ぺこちゃんなんか勝ち目ないじゃない!」
僕の全身に、独占欲を失うことへの現実的な恐怖が電流のように走った。
お茶で得られたはずの温もりが、急速に冷えていく。動悸がした。
「……でも」
僕は、自分の心臓が異様な音を立てるのを誤魔化すように、なんとか声を絞り出した。
「キス、してくれたし……」
それは、ママへの反抗として使った上部だけの事実とは別の、誰にも汚されない僕だけの最も大切な真実。
彼女に組み敷かれて、餌付けの延長みたいな深いキスをされて。ずっとこのままがいいと、わたらいさんはうっとりと呟いていた。
他の誰でもなく、この僕と。
"ずっとこのままがいい"と。そして彼女は、おそらくそれを実行できるだけの、溶かして癒着させる呪いの力を持っている。
それを、不安に負けてつい口にしてしまった、子供じみた自慢だと自分でもわかっていた。
クリーナーは、一瞬その目を見開いたーーように思えた。驚愕と事態の重さをようやく認識したような、真剣な表情だった。
「それって……ぺこちゃんがいないと、わたらいちゃんは『わたらいちゃん』でいられないって……そう言いたいのね?」
クリーナーは、初めて焦燥を滲ませる声で尋ねてきた。
「ぺこちゃんは、あの子が『わたらいちゃん』で居られるためなら、離れられなくなってもいいというのね?」
僕はその言葉を聞いてもなお、険しい表情を貫こうとした。でも、どうにも耐えられなかった。
ほんの、ほんの一瞬。誰にも気づかれてはならない甘美な真実を噛み締めるように、僕の口角がわずかに、上へ引かれた。
クリーナーは、その微かな表情の変化を見逃さなかった。
「やだあ〜!!もう〜!!」
クリーナーは両手で顔を覆い、首に巻かれたシュシュの隙間から、嬌声をあげた。
それ以上、何も言葉が出ないようだった。
「……あら、ぺこちゃん、まだアタシのこと警戒してるの? 」
ひとしきり悶えた後で、僕の表情を見たクリーナーは、また真剣な顔つきに戻った。
「アタシ、嘘とか偽りとか大嫌いなのよ。深海には、誰にも見えない醜い真実しか存在しないの。アタシは、それを食べて生きてるんだから」
僕はクッキーをかじり、冷めてしまったお茶を飲み干す。
「ぺこちゃんが選んだわたらいちゃんは、あなたにとっての真実で、何よりも美しいんでしょう? だったら、その気持ちを醜いなんて思わないで。もっと自信を持って。抱えきれない時には、アタシに全部曝け出しなさいよ」
そして、クリーナーはまた愉快そうに笑った。
「シュシュでおめかししたアタシを見たら、わたらいちゃんきっとびっくりするわね!」
僕も、少しだけ笑った。
「ねえ、クリーナー。わたらいさんにあのプレゼントを渡したら、君にはもう会えなくなるの?」
自分でも意外だったが、僕はなぜかこの愉快な幻影との別れが惜しくなっていた。
「やだあ、寂しがってくれるの?ぺこちゃん」
クリーナーが冷やかすように笑う。
「でも残念。フィギュアなんてただの器に過ぎないんですからね!アタシはずーっとぺこちゃんの心の暗い深海に住み着いているんだから!」
僕は紙コップを握り潰して、ベンチに置いた。俯いて、足元を見る。
クリーナーは続ける。
「それに、全てはぺこちゃんが抱えている秘密に過ぎないの。だから、全部ぺこちゃんが決めていいのよ」
僕はハッと顔を上げる。
「それって、さ……」
心臓が、またどくどくと脈打つ。
「ねぇ、クリーナー……」
僕はほとんど泣きそうな声で、幻影に語りかける。
「兄ちゃんの、秘密……も……」
縋るように、クリーナーに目線を送る。
その触覚だけが、忙しなく動いている。
「僕が、どうする、のか……決め、て……いい……のかな……?」
なんの涙か分からなかった。それでも、涙が止まらなかった。
クリーナーは僕の涙に動じることなく、頷くように頭部を動かした。
「あったりまえでしょ、お馬鹿さん!」
僕は両手で顔を覆い、声を上げて泣きじゃくっていた。これで全てが許された訳でも、元通りになる訳でもないのに。
ほっとしてしまった。
ずっとずっと重たかった荷物を、ほんの一瞬だとしても、ようやく下ろせる。
それだけのことなのに。
「そろそろママが心配するわ。車に戻った方がいい」
クリーナーに諭されて、僕は何度も頷いた。
そして僕は長年の兄の呪いを断ち切るように、胸元の冷たい金属のネックレス静かに外し、ズボンのポケットに深く沈めた。




