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泥の味

 カーテン越しに、朝の光が容赦なく差し込んでいた。まぶしさに目を細めながら、僕はいつもより少し遅く目を覚ます。


 部屋を出ると、ママはもう出勤していて、家の中はしんと静まり返っている。


 空腹を抱えてたどり着いた食卓の隅には、閉じたままのスクラップブック。今朝、ママが必死に読み返した跡が、くっきりと残っていた。

 それ以外には、何もなかった。


 冷蔵庫を開ける。昨夜ラップをかけた皿が、そのまま残っていた。けれど、触れる気にはなれなかった。


 前に一度、勝手に食べてしまい、かえって罰が長引いたことがある。


 《帰ってきたら再テスト》


 冷蔵庫に貼られた付箋のボールペン文字。紙は歪んでよれ、インクは裏まで滲んでいた。


 喉の奥で空気が詰まり、声にならない息が漏れる。


 あきらめて部屋に戻り、机に向かう。けれど、空腹でまるで集中できない。昨夜叩かれた手も、まだじんじんと痛んだ。


 英単語も、テキストのイラストも、全部、食べ物に見えてくる。無理やり机に向かえば向かうほど、気持ちはどんどん遠ざかっていった。

ペンを握るたびに、ママの顔が浮かぶ。


 ──「がんばれば、できる子なんだから。あんたが今から頑張って、必死に勉強して、兄ちゃんが行けなかった高校に通えれば、きっと……」


 その言葉が呪いのように頭をまわって、息が詰まりそうだった。


 そのとき、電話が鳴った。


 霧散していた意識が、はっと自分に戻る。慌ててリビングに駆け、受話器を取った。


「もしもし、綾瀬です」


「あっ、颯?」ママだった。「ママの会社の近く、急に雨が降ってきたの。けっこう強くて……そっちは、まだ降ってない?」


 その時になってようやく、僕は窓の外の雨に気づいた。「あっ、本当だ。降ってきたね」


「ほんと? 悪いんだけど、洗濯物、取り込んでおいてくれる?」


 仕事中のはずなのに、ママの声は不思議なほど優しかった。まるで、あの頃のママみたいだった。


 僕はそのまま、ずっと話していたくなった。

「うん、わかった。……ねえ、ママ。早く帰ってきてね」


 あの頃のママが、もう一度、僕の前に現れてくれるような気がして。でも、きっと、僕の真意は伝わっていない。伝わるはずがなかった。


「うん。それじゃあ、お願いね」

 ママはそれだけ言って、あっさり電話を切った。


 しばらく受話器を耳に当てたまま、呆然として動けなかった。窓を叩きつける雨音がどんどん大きくなっていく。ようやく耳から受話器を引きはがし、電話機に戻した。


 何の感情かもわからないまま、心の中はぐちゃぐちゃで、ぼんやりとベランダまで歩いた。


 洗濯物を取り込んでいると、階下の人たちが慌てて外から戻ってくるのが見えた。大人も子どもも、皆一心不乱に屋内を目指している。本当に突然の雨だったらしい。


 このアパートは三階建てで、もともとは病院職員の社宅だった。今は空き部屋を近所の人にも貸している。


 普段はあまり人の気配がなくて、本当に僕とママ以外に誰かが暮らしているのかなと思っていたけれど、こうして見ると結構たくさんの人がいるんだなぁと思う。こんなときだけ、人がいるのが不思議だった。


 ママは「教育にいい環境」だと知り合いに話していたけど、たぶん見栄だろう。もし家賃がもう少し安ければ、ママが毎日くたくたになるまで働かなくて済むはずなのに。


 部屋に戻ろうとしたとき、下から子どもの泣き声が聞こえた。たぶん転んだのだろう。買い物袋を持った女性が急いでその子を起こしていた。


 親子はそのまま足早に立ち去った。けれど、親子がいた場所に、何かが残されていた。


 もしも、それが食べ物だったら──。


 考えるより先に、僕は走り出していた。

 なんとか靴だけは履いて、傘も持たずに階段を駆け下りた。建物の外に出る。


 さっき見ていたベランダ側の、ちょうど真反対だ。目の前には住居者用の駐輪場。ほとんど乗らなくなった、僕の自転車が停まっている、駐輪場。それを通り過ぎて、アパートの外周をぐるっと回る。屋内を目指す人並みを、僕だけが逆走していた。


 近づくにつれ、泥にまみれた紙袋の輪郭がはっきりしてくる。雨に濡れて破れかけた袋の中から、中身が少しだけのぞいていた。


 周囲を見回す。誰もいないわけじゃない。アパートの敷地の外はすぐ大通りに面していて、雨が続く限り、帰路を急ぐ人が定期的に通るはずだ。


 ──何より、もしあの親子が戻ってきたら……?


 心臓が早鐘のように鳴る。


 これは、悪いことじゃない。僕はただ、ゴミを拾うだけ──。


 そう言い聞かせながら、紙袋を、誰かに見られる前に奪うように掴んだ。


 駆け出す。濡れたシャツが肌に張りつき、容赦なく顔を叩く雨粒で息が苦しい。


 アパートの屋根付きの駐輪場の、比較的人目のつかない場所で袋を開ける。現れたのは泥まみれのカレーパン。まだ、ほんのり温かい気がした。


 胃がきしみ、手が勝手に動く。少しでもきれいなところを探して、かぶりついた。


 じゃりっ。砂が歯に噛み、苦い唾が口いっぱいに広がった。奥歯が軋む。


 ──こんなもの、食べたくなんかないのに。


 でも、身体は止まらない。泥と雨を吸ったパンを、貪るように食べていた。食べたかったのは、こんな味じゃないのに。


 喉が詰まる。胸が苦しい。吐き気と空腹がせめぎ合う。体は、生きようと必死だった。でも心は、もう終わってほしかった。引き裂かれるようだった。


「……おえっ」


 泥水を含んだそれを、とうとう吐き出した。

 胃の奥底まで泥が染み込んだようで、喉が凍りつく。声帯も、呼吸も、嚥下も担うこの細い器官が、いまさらながら限界だと悲鳴を上げていた。


 カレーパンを、紙袋ごと雨に投げた。びちゃっと音がして、脆くなった袋が破れる。


 泥と雨にまみれた手で、胸元のネックレスをぎゅっと握った。何かに縋らないと、その場でしゃがみ込んでしまいそうだった。


 息が詰まり、喉の奥がつかえているのに、それでも嗚咽が漏れる。


 声にならない。けれど、頬を伝う涙が、冷たくて苦しかった。


 ──助けて、兄ちゃん……。


 それが空虚な祈りだと、分かっていた。優しいママも、死んでしまった兄ちゃんも、食べてしまったカレーパンも、全部もう戻らない。


 祈りは雨音にかき消され、アパートの壁に、地面に、空へと溶けていった。


 何も返ってこなかった。ただ、冷たい雨だけが、僕の頬と心を打ち続けていた。


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