離れていかないわよね?
その言葉は、まるで車内の空気を瞬時に凍らせる劇薬のようだった。分かっていたけど、効果は絶大だった。
運転席のママはかろうじて路肩に停車して、ハザードを焚くと、そのまま硬直した。
やり場のないママの指先は、カーナビ上のショッピングモールの映画館のアイコンを指した。そのまま、微動だにしない。
何の映画を観る?
その呑気な問いかけが、今や遠い過去の残響のように思える。
沈黙が重力を増して、このままこの退屈な車内を圧し潰せばいい。
僕は、その沈黙の中で、紙袋を抱きしめた腕の力を緩めなかった。
この一瞬だけは、僕がママの支配とクリーナーの煽り、全てを乗り越えて自分の意志で発言した、退屈からの決死の脱却だった。
やがて、ママはゆっくりと、機械が軋むように首を巡らせた。バックミラー越しではなく、体ごと僕の方を見る。
その顔はまるで白い陶器のように、血の気が失われていた。
「……颯、あんた、急に何を言っているの?」
ママのその声色は怒りでも、悲しみでもなかった。それは、理解不能なノイズを耳にした時のように、ただひたすら困惑し、異物を拒絶するための声だった。
僕は何も答えない。
ママの白い顔が、今度は紅潮し始めた。
「そんなふしだらなこと! 一体、誰に教えられたの!? その子がアンタに変なことを吹き込んだのね!?」
ママは、外部からの汚染であると決めつけようとしていた。
僕はしっかりと首を横に振る。
「……誰にも教えられていないよ」
僕の小さな声が、ママの理性をさらに揺さぶったらしい。声量が大きくなる。
「じゃあ……アンタ、どこまでしたっていうのよ!?」
ママはハンドルから手を離し、僕に身を乗り出すようにして詰め寄った。
そして、自分が興奮している事実に気がついたように、今度は努めて優しい声を出した。
「キスって……まさか……もちろん、ほっぺにちゅっとしたんでしょ?そうよね?」
ママは悲痛な願いを込めるように、僕に確認を求めた。
僕は紙袋のシワを、指の腹でゆっくりと撫でる。何も言わない。
「……」
ママの目から、瞬時に希望の光が消えた。彼女は、口元を戦慄に歪ませた。
「まさか、唇に……なんて、言わないわよね?」
ママは、自分のその発言が真実であることを、誰よりも恐れているようだった。
僕は、依然として何も言わない。
瞬間、ママの顔は紅潮を通り越していた。
「したのね!!!!」
車内に、ママの裏返った悲鳴が木霊した。
「じゃあ……アンタたち、一体どこまでしたの!」
ママは、性的な行為があったかどうか、穢れの有無を確かめようと必死だった。
僕も、なんとなくそれが分かったけど、あえてシラを切ることにした。
「どこまでって、何?」
僕はママの質問を、純粋に理解できないものとして突き返した。
「キスはキスでしょ?どこでキスしたのかってこと?それなら、わたらいさんの家だよ」
その言葉を聞いた瞬間、ママの興奮しきっていた表情が、一瞬、ぐっと詰まったように気まずくなる。
ママは、自分のヒステリックな追及が、下品な質問になっていることに気がついたのだろう。
僕は少し面白くなってしまって、追撃をする。
「ねえ、どこまでって、どういうこと?他に知りたいことある?」
僕がさらに無垢なふりをして問い返すと、ママの気まずさは限界に達したようだった。
「うるさいっ!わたらいさんに聞きなさいっ!!」
ママは、悲鳴に近い叫びを上げた。それは、支配者としての権威を自ら放棄し、母親である自分では、もう息子の領域に踏み込めないと認めた、屈辱の絶叫だった。
ママはすぐに呼吸を整え、無理に声のトーンを抑えた。その瞳は激しい怒りと絶望に揺れながらも、涙を流すことは頑なに拒んでいた。
僕は、そんなママから視線を外し、助手席の窓の外を見つめながら、自分の内側にある真実を静かに吐露した。
「ごめん……ママが楽しくなると思ったんだ。女子はみんな、恋の話が好きみたいだから」
僕はわざとらしくため息をついた。
「ママには関係ない話だよね。僕にとって、わたらいさんがどれだけ大切か、ママには分からないでしょ」
僕は、紙袋を膝の上に乗せたまま、静かに続けた。
「ねえ、ママ……僕、わたらいさんがいなくなるのが、すごく不安なんだ。彼女は優秀で、自分で考えて、僕みたいな平凡な人間よりも……」
もっと先に、この支配の車から降りていく。
それは、クリーナーが突きつけた未来の恐怖そのものだった。
心の奥底の冷えを感じながら、それでも僕は言葉を紡ぐ。
「僕みたいな平凡で、ママの言うことにしか従えない人間じゃ、彼女には釣り合わないよね」
僕が弱音を吐いたことに、ママは純粋に驚いたようだった。そして、ハンドルを両手で強く握りしめた。
やがて、ママは少し微笑む。それはママの心を覆う膜が破れたような、懐かしく、ひどく脆い笑顔だった。
「……不安?」
ママは、その言葉の意味を測りかねているようだった。
「何を馬鹿なことを言ってるの。あなたが不安なんて感じる必要はないわ。あの娘があなたから離れるわけがないでしょう」
その言葉は、僕を安心させるためではなく、いずれママの元を離れる僕を否定するために、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
僕はそんなママに、トドメの一撃を静かに与えた。
「僕もそう思いたいけど……わたらいさんのご両親、離婚……するかもしれないみたいで……」
その瞬間、ママの脆き笑顔は、まるでガラス細工のように粉々に砕けた。
ママは、再びハンドルを両手で強く握りしめ、すぐに緩める。
そして、僕の論理では決して導き出せない、意外な言葉を口にした。
「……あなたのお父さんが、家を出ていくって言った時……」
ママの声は冷たさを失い、かすかに震えていた。
「……あの時、ママも不安だった。この世界が、私の人生が、全部崩れるんじゃないかって……どうしようもない恐怖を感じたわ」
それは、支配者の仮面が完全に剥がれた、一人の女性の最も弱く、醜い本音だった。
「遥が……アンタのお兄ちゃんが居なくなった時だって……」
ママは、耐えきれなくなったように顔を伏せる。肩が震えていた。
やがて、啜り泣きが聞こえてきた。でも、いつもの、僕がこの逃避行を拒否した時の泣き方とは明らかに違っていた。
「ママ……」
それは、剥き出しのママの心から止めどなく流れる血のように、塞がらないまま無理矢理抑え込んでいた痛みを今この瞬間に感じているのだ。
「ねえ、ママ……」
僕は、紙袋を膝の上に抱えたまま、初めてママを気遣うような気持ちで声をかけた。
ママは、深く息を吸い込み、顔を上げずに、震える声で言った。
「……颯」
その声には、支配者の威厳を取り戻そうとする最後の、微かな抵抗が込められていた。
「だから、あなたは……離れていかないわよね?」
それは、命令ではなく、懇願に近い響きだった。
「あなたはママの完璧な息子で、私を置いていかない。そうでしょう?」
背筋が冷たくなる。それは、ほとんど銃口を突きつけられているに等しい。
冷や汗が出てくる。どくんどくんと異様な音を立てている自分の心臓部に、ぐりぐりと硬い銃口を押し当てられている。
「例え、わたらいさんが離れていっても、ママはいつでもあなたのそばにいるわ」
長年の支配をようやく打ち破れそうな気がしていたのに、全ては愚かな望みだったように思えた。紙袋を落としてしまいそうになるのを、なんとかダッシュボードに乗せる。
「……うん」
全てに屈したわけじゃない。
ここで死ぬわけには行かないから、一時的に要求を飲み込むだけ。
ママが満足そうに微笑む。
銃口は、ゆっくりと下された。
そしてママは、自分の弱さを認めたことに耐えられないというように、すぐに苛立った声に戻る。
「さあ、この話はおしまい。早くショッピングモールに行きましょう」
そう言って、ママは涙に濡れた指先で、再びカーナビを操作し始めた。




