クリーナー、現る
土産物売り場を出て駐車場に着くと、ママは何も言わずに運転席のドアを開けた。レジでの攻防戦が、会話への意欲を完全に奪ってしまったようだった。
僕は、助手席のドアを開けてシートに座る。
わたらいさんは喜んでくれるかな。
つい、後部座席を振り向いてしまう。幻影の彼女が、もうこの車内にいるはずがないのに。
当然、そこには誰もいなかった。あるのは、ママのハンドバッグだけ。
僕は膝の上に乗せたプレゼントを庇いながら、シートベルトを締めた。
そして、運転席でカーナビを弄っていたママを見る。
「近くに、大型のショッピングモールがあるらしいのよ」
ママが誰にいうでもなく呟く。
「サービスエリアでもう一泊するけど、まだ時間があるし、行ってみる?映画でも観て時間を潰すのもいいわね」
僕は返事をしなかった。全ては、ママの中でもう決まっていることだから。
車は走り出す。高速には入らず、下道を行く。
安全運転で、僕はぼんやり窓の外を眺めている。眠くなりそうな穏やかさの中、ママが急に大きな声を出した。
「あっ!!」
急ブレーキに、体がぐんっと前に引かれた。咄嗟にプレゼントを庇う。
ママがクラクションを力任せに押し続ける。
「あっぶないわねぇ……もうちょっとでぶつかるところよ」
ママの鋭い舌打ちが響く。
「こっちに気づかないで、方向転換しようとしてきたのよ」
運転を続けているママは、僕の方をちらりと見た。
「大丈夫?ぶつかってないわよね?怪我してないでしょ?」
それは、僕の身体を案じるというよりも、あくまでも自分の運転は完璧であったという事実を裏付けるような一方的な問いだった。
「うん、大丈夫」
僕が短く答える。
ママはすぐに意識を前方に向け、再び苛立ちを募らせた。
「全く、人に迷惑をかけて……」
ママは、バックミラーに目をやった。
「あら、ちょっと……颯、ママのバッグを拾ってくれる?今の急ブレーキで、滑り落ちたみたい」
そう言って、苛立たしげに後部座席を顎で差した。
「ブランド物なのに……」
僕はシートベルトを緩め、体をひねり、後部座席の下に手を伸ばす。
目では確認できないが、手探りした指先に、微かにバッグの持ち手が触れた。
そのままでは届かないので、僕は一時的にシートベルトを外す。
「すぐに着けるのよ。お巡りさんが見てるから」
ママが耳打ちした。
僕は後部座席に身を乗り出すようにして俯き、再び手を伸ばす。
持ち手を握り、バッグを掴み上げようとしたその瞬間、後部座席から凍りつくような強い気配を感じた。
僕は、手を止める。
バッグを拾うというママの命令よりも、その気配の冷たさが、僕の全ての注意を奪い去った。
後部座席に誰かが座っている。かすかに磯のような生臭さを感じながら、僕は恐る恐る視線を上げる。
硬質な体が、車の窓枠に無理やり片肘をつくようなポーズで固定され、無機質な複眼を所在なさげに外の景色に向けている。
首には、僕の買った黒いシュシュのような襟巻きが巻かれている。
おそらく僕と同じくらいの体長をしていることを除けば――それは、プレゼントとして紙袋に閉じ込めたはずのダイオウグソクムシのフィギュアそのものだった。
「なんで……」
僕は、ママには聞こえないように、口の中だけで呟く。
また幻影だ。
なぜ、ここにわたらいさんがいないんだ。なぜ、彼女の代わりにコレが座っているんだ。
グソクムシの顔がこちらを向き、複眼に真正面から捉えられる。
「大好きなわたらいちゃんじゃなくて、悪かったわね。ぺこちゃん」
硬い顎が、人間の発話のように僅かに動いたような気がした。
男性が無理矢理女性を真似たような鼻につく声――それは、遠くから聞こえるような曖昧な響きで、僕の脳に直接語りかけてくる。
「アタシはねぇ、ぺこちゃん。ご存知、深海の掃除屋。クリーナーって呼んでちょうだい」
首に巻かれた黒いシュシュのような襟巻きが、風もない車内で震えるように揺れている。
「なぜここに、わたらいちゃんがいないのか?ふふ。そもそも誰も、あの子をここに連れてきていないじゃない、お馬鹿さん」
クリーナーは、そのグロテスクな顔を僕にぐっと近づける。
「ぺこちゃんの寒く冷たい孤独は、アタシには気持ちいいくらいなの。生まれ故郷を思い出す、暗い深海の冷たさ。ね、あなた最高にクールよ」
僕は呆気に取られている。
「でも……アナタが抱えているのは、あの子に買ってあげたプレゼントだけじゃないわね」
無数の脚のいくつかが、助手席にあるプレゼントを指す。
「アナタはわたらいちゃんの心も身体も、一つ残らず、ぜーんぶ自分のものにして、誰にも渡さないように隠しているの。もう自分ひとりでは抱えきれないくらいに、 心の中が散らかってる。だから、お掃除しなくちゃ。そこでアタシの出番ってわけ」
クリーナーは、興奮した様子で僕に訴えかける。そのグロテスクな顔が、不自然なほど楽しげに歪んでいる。
「今日はぺこちゃんの誕生日……でもプレゼントが欲しいわけじゃないのよね。ただただ、わたらいちゃんの心も身体も、全部が欲しい。なぜって?それは今や、わたらいちゃんがアナタ自身の一部だと思っているから」
クリーナーの複眼が、一瞬だけ強く光る。
「『2人で一つ』なんて聞こえはいいわよね。でもね、それは愛や恋じゃないわ。独占欲よ」
僕は静かに首を横に振る。頭の中で必死に否定するのに、クリーナーは止まらない。
「それにあんた、わたらいちゃんがもし離れて行ったらどうするつもり?」
クリーナーの複眼が、僕の最も深い傷を見透かすようにじっと僕を射抜いた。
「ない話じゃないわ。近々出ていくお父さんについていくかもしれないし、ぺこちゃんよりもずーっと素敵な男の子に出会うかもね?」
その言葉は、僕が今まで必死に無視してきた未来への恐怖そのものだった。
「図星ね」と言わんばかりのクリーナーの顔を、僕は思わず睨みつける。
「わたらいちゃんに全部あげる?はっ、あの子のために、なんでもできるだなんて、本気で思ってる?嘘よ。 もし本当にそうなら、離れていく彼女を、それでも笑顔で見送れるはずでしょう?」
クリーナーは、頭部の触覚を僅かに揺らす。
「あんたはわたらいちゃんを自分のところに繋ぎ止めておきたいだけ。そのために、献身という名の鎖を使って、自分から与えた支配という呪いで、二度と離れられないように癒着させているのよ。まだ分からない?世界で一番、わたらいちゃんを不自由にしているのはアナタ自身!」
僕は、何も言い返せなかった。
代わりに力任せにバッグを掴み上げ、クリーナーを殴りつけんばかりに後部座席に振り下ろした。
「ちょっと!大切に扱いなさいよ!」
ママの小言が飛んでくる。
「あー怖い怖い」
僕の決死の抵抗も、幻影のクリーナーには痛くも痒くもないようだった。
「それにしてもこのバッグ、ママには全然似合ってないわ」
「そうだ!」と、クリーナーが拍手みたいに脚同士を打ちつけたのと、僕が助手席に座り直したのはほぼ同時だった。
「早くシートベルト着けなさい」
ママがちらっと僕を見る。言う通りにした。
後部座席から、耳障りな笑い声が聞こえる。
「ねえねえ!ぺこちゃん!」
クリーナーが、助手席のシート越しに僕の顔を覗き込んでくる。
「ママに『このバッグ、全然似合ってない』って言ってご覧なさいよ。今すぐ、ここで。退屈なドライブが面白くなるわよ!」
僕は思わず息を呑んだ。できるわけがなかった。
「どうしたの、ぺこちゃん?アナタだって、退屈してたんでしょう?」
クリーナーは、硬質な体を僕にさらに近づけた。その冷たい視線が、車の外へと向けられる。
「ほら、考えてごらんなさい。この車は、アナタの人生そのものよ。わたらいちゃんがいなくなったら、ぺこちゃんはずーっとママの車に乗って進むの。 どこにも行けないまま、この空っぽのつまらない逃避行を続けるだけ」
最悪の未来を想像し、僕はぐっと唇を噛み締めた。
「ちょっと待って!もっといいこと思いついたわ!」
クリーナーはまた脚同士を打ちつけ、今度は狂ったように甲高い笑い声を上げた。
多肢が動く度に、石を擦るような不快な音がする。
「バッグなんか生ぬるいわ! 最高の遊びをしましょう、ぺこちゃん!」
クリーナーは、フィギュアの多肢を使って、僕の唇を指し示してきた。
「ママに、『僕、わたらいちゃんとキスしました』って言いなさいよ!今すぐ!ほら、きっと盛り上がるわぁ!」
僕は、全身から血の気が引くのを感じた。
わたらいさんとのキスは、僕と彼女の間の醜くて、誰にも侵されない秘密だ。それをママに知られるなんて。
「わたらいちゃんのために、なんでもできるんでしょう?独占したいなら、秘密を暴露してでも、彼女との絆を証明してみなさいよ!」
視線だけで、ちらっとママの顔を伺う。僕の唇は、ピクリとも動かなかった。
秘密の暴露は、ママに逆らう恐怖どころではない。これは、僕自身の尊厳に関わる。
「あーもう空気読みなさいよ!つまんない!結局、アナタはわたらいちゃんへの愛よりも、ママに秘密を握りつぶされる恐怖を選んだってわけね! ちっちゃ!ちっちゃすぎるわ、ぺこちゃんの独占欲!」
クリーナーは失望に肩をすくめるように、また多肢をわずかに動かした。
「じゃあ、このままママの運転する車で、一生かけて逃げ続けるの? 先に降りたお兄ちゃんは、賢かったかもしれないわね。 少なくとも、この支配の車で一生怯えて、秘密を隠し続けるよりはマシだもの」
クリーナーは愉快そうに笑った。
そして再び、後部座席へ、深く座り直す。
「じゃあね、ぺこちゃん。大好きなママとのショッピングモールデート、せいぜい楽しんで」
クリーナーの馬鹿笑いが、脳に直接響く。
悔しかった。抱えているプレゼントにシワができるのも気が付かないくらい、強く握り締めていた。
「なんの映画を観る?」
ママが呑気に声をかけてくる。バッグのことはもう気にしていないようだ。
「昔の映画のリバイバル上映もあるみたい。名作は何度見てもいいものよ」
僕は、ゆっくりと全身の緊張を弛緩させる。それは、支配された世界から自ら抜け出すための、準備運動のようだった。
僕の内部に響くクリーナーの笑い声を一瞬だけ外に追い出すイメージで、意識して大きく長い息を吐く。
「ねえ、ママ」
僕の声に、ママは「ん?」と気の抜けた声を出す。
一瞬の沈黙。心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ねた。紙袋をぐっと抱き寄せる。
「僕、わたらいさんとキスした」




