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粗探ししないの

 特に会話をするでもなく、僕らは土産物売り場を目指した。


 それでも、僕の先を歩くママのその歩幅は、心なしか以前よりわずかに、遠慮がちに小さくなっているような気がした。


 通りすがりに見た、ペンギンの行進が頭を過ぎる。僕がはぐれずに着いてきていることを、ママが背中越しに確認しているようだった。


 これまでは、ママの支配的な歩調に合わせて僕がついていくのが当然の義務だった。


 今は違う。ママは息子を失うかもしれないという人間的な恐怖を、その歩幅の調整という極めて不器用な行動で示している。その微かな変化を、僕は静かに受け止めていた。


 この優しさは、僕が消えたことによるパニックの余韻にすぎないのかもしれない。すぐに、僕を支配するいつもママに戻るかもしれない。


 それでも僕は、その一瞬の人間的な脆さを、幻ではない本物のママとして受け入れたいと思っていた。


 幻影のわたらいさんの言葉を思い出す。


 僕がずっと待ち焦がれていた優しいママの断片は、確かに今のママの中にも残っていたのだ。


 僕らの間にあるのは、これまでの目を逸らすための沈黙ではない。これは、普通の親子として向き合うための不器用な始まりと、戸惑いの沈黙だ。


 僕は、ママの不器用な歩みを特に指摘しなかった。どんなに微かでも、先を行くママの背中に、幻ではない本物の温もりを少しでも長く感じていたかった。


 そして、内側から湧き出た渇望が、僕の足をその場に縫い止める。

 通路沿いの壁に設置されたひとつの水槽の前で、僕は立ち止まった。ママに声は掛けることはしない。


 自分の意思で、ママの軌道から外れた。


 水槽では蛍光色の熱帯魚たちが、群れを成してゆっくりと尾を振っていた。僕は水槽のガラスに反射するママの姿を捉える。まだ歩みを止めないママをじっと見ている。


 僕が突然足を止めたことで、先に進んでいたママの歩みも、一瞬遅れて急に止まった。

 少し視線を彷徨わせた後で、水槽の前にいる僕を見つける。それは、水槽やその中に何があるのか確認するものではなく、完全に僕だけを見ていると確信できた。


 それでも強張る表情には、僕が勝手にママの軌道を外れた困惑がまだ色濃く滲んでいる。

 僕はその視線から逃れるように、ガラスに反射したママではなく、水槽の中の熱帯魚たちへと視線を移した。

 

 水槽の中では、色鮮やかな熱帯魚たちが常に同じ方向を向き、完璧な群れとなって泳いでいる。


 ひとつの塊となって動くその群れの最後尾には、1匹だけはぐれた魚がいた。鱗がまばらに剥がれ、尾ヒレの先が傷つき、動きもどこか弱々しい。

 その魚は、群れに懸命に追いつこうとヒレを動かしていたが、わずかに遅れ、次第に取り残されようとしていた。


 水槽のガラス越しに、ママの静止した姿と、傷ついた一匹の魚の姿を重ねて見る。ママの視線は依然として僕に固定されたままだ。


 僕の思考は完全に魚の動きに向けられていた。群れは水槽の角に差し掛かり、一斉に方向転換した。

 遅れていた1匹は、その急な方向転換により、意図せず群れの流れの中央へと紛れ込む。

 群れは、その一匹が傷ついていることにも、遅れていたことにも気づかないまま、再び完璧な群れとして水槽を巡っていく。


 ただ、それだけのことだった。


 傷ついた魚が特別な努力をしたわけではない。群れが優しさを発揮したわけでもない。


 ただ、群れの流れが変わったことで、一時的に傷が隠れ、不完全な一匹もまた、完璧な群れの中に紛れ込んだ。

 それだけのことなんじゃないか。


 僕もママの、我が子を失う恐怖の再現というより大きな感情の波に飲まれただけで、ほんの一時的に完璧な息子として振る舞う必要から解放されたに過ぎないのではないか。


「気になるの?その魚が?」

 ママが改めて水槽を覗き込む。


「……綺麗ね」

それは、ママが一糸乱れぬ群れを見たから漏れた言葉だ。


「ケガをして……1匹だけ、泳ぎが遅れてるんだ」

 また群れが先を行くので、1匹群れから取り残されていた。僕はそれを指差す。


 ママはそれをよくみるために身を乗り出す。

「…….よく、見てるのね」


 ママは傷ついたその魚からすぐに顔を引き、周囲に誰もいないか確認するように視線を巡らせた。まるで、この不器用な自分を誰にも見られたくないかのように。


 その顔には、僕の指摘が真実であることへの驚愕と、諦めが滲んでいた。


「ほら……粗探ししないの。もう充分でしょう」

 ママは言葉を濁した。傷ついた魚を見て僕が何を思うのか、そしてそれを語られることが、ママには恐ろしかったのだろう。


「ねえ、もう行きましょう。早くお土産を選ばなくちゃ。あんたが気にしてるのは、そのことでしょう?」


 ママは「行くわよ」と言って、再び歩き出した。その声は、いつもの調子を取り戻しつつあったが、歩幅は依然、小さいままだった。


 どれくらい歩いただろう。程なくして、土産物売り場の喧騒が、熱波のように押し寄せてきた。


 カラフルな海のぬいぐるみやキーホルダー、家族連れの楽しげな笑い声。

 聴覚的にも視覚的にも賑やかで、鮮やかで、眩しくてくらくらする。


 そこは、深海生物コーナーの静寂とは隔絶された、極めて社交的で、消費的な空間だった。


 ママは、真っ直ぐに売り場の中心にある菓子コーナーへ向かう。


「ママも、職場の人に何か買って帰らなくちゃ。サブレか、クッキーがいいわね」

 そこが、ママにとって社会的な義務を果たす最も安全な場所だと知っているように、幾分表情が綻んで見えた。


「うん」

 僕は生返事をしながら、辺りを見回した。探すべきものは、こんな華やかな場所にはないように思えた。


 こんなことならせめて、幻影のわたらいさんに、何が欲しいか聞いておけばよかった。


 目につくものを片っ端から手に取るのに、どれもこれもしっくりこない。


 僕は、水族館のお土産として妥当なイルカのぬいぐるみを手に取った。値段の横の手書きポップに1番人気!と書いてある。


「それにするの?」

 ママが選んだクッキーの箱を手に、近づいてくる。

「かわいいじゃない」

 深海生物コーナーで見た焦燥は見る影もない。ママは表面上、穏やかな仮面を取り戻しつつあった。


「ピンクと水色があるわよ。どっちにする?ママはピンクの方が……」

 ママは、僕の視線が手にしたイルカのぬいぐるみではなく、他に向けられていることに気づき、再び表情を強張らせた。


 僕は、サービスエリアで見たのと同じ、ダイオウグソクムシのフィギュアを見つけたのだ。


 見比べると、僕の手の中のイルカのぬいぐるみがひどく安っぽく、冷たいものに感じられた。1番人気!というポップも、僕らが向き合ってきた真実の前では、薄っぺらな嘘のように見えた。


 僕はイルカを手に握りしめたまま、ママを見上げた。


「……いいと思うわよ。ママは。イルカのぬいぐるみ、とってもかわいいもの。……やっぱり、水色もかわいいわね」


ママはすぐに笑顔を取り繕ったが、クッキーの箱を持つ手がわずかに震えているのが見えた。

 僕はその震えを見てなお、はっきりと口に出した。

「やっぱり、やめる」

 僕はイルカのぬいぐるみを、静かに棚に戻す。


 代わりに、僕は迷うことなく、ダイオウグソクムシの精巧なフィギュアを手に取った。


 灰色がかった硬い甲羅。触覚や無数の脚。深海生物コーナーで見た本物と寸分違わない、孤独で醜い、僕の真実の象徴。


「ちょっと……冗談でしょう?」

 ママが大きな声を出すので、周囲の客が、一斉にこちらを見た。

 ママは、僕の手の中の灰色をしたグソクムシのフィギュアを指差し、心底理解できないといった表情を浮かべていた。


「こんなもの……っ!」

 周囲の視線に気づいて、ママは少し声の音量を落とした。

「こんな……こんなもの……こんな気持ちの悪いものを、お友達にあげるの?」


 その言葉は、グソクムシの醜さを否定しているようでいて、僕の選択と、僕自身の内側にある醜い部分を否定しているようにも聞こえた。


 僕はフィギュアを両手で大事に包み込み、ママの睨みつけるような視線から逃げなかった。


「ママにあげるものを選んだんじゃないし。これは、わたらいさんにあげるんだ」


 僕の静かな答えに、ママの顔から血の気が引いた。

「……早く、それを棚に戻しなさい」

 ママの声は、支配的な命令へと戻ろうとしていた。だが、その声はひどく震えていた。

「悪いことは言わないから……さっきの、イルカのぬいぐるみにしなさい」


 僕は、フィギュアをぐっと胸元に抱き寄せる。

「嫌だ」

 僕が手にしたのは、ただのお土産じゃない。僕が受け入れた真実の断片だ。


「これは、標本みたいに精密なんだ。わたらいさんはお医者さんの娘さんなんだよ。ぬいぐるみなんて、そんな幼稚なものでは喜ばないし、もうたくさん持っているから」


 僕は、ママの価値観を盾にした、表向きの論理で押し返す。


「だから、知的で珍しいものをあげるの。ママにはわからないかもしれないけど……僕たちにはこれが、一番価値があるんだ」


 ママは面食らって口をぱくぱくさせる。

「価値があるって……でも、そんなグロテスクなものを……女の子にあげるなら、せめてもう少し可愛らしいものに……」


「これじゃないと、ダメなんだ」

 僕はきっぱりと答える。

「わたらいさんは僕の友達だ。あの子が何が好きなのかは、僕のほうがよく知ってる」


「……そう。勝手にしなさい」

 ママが顔を真っ白にして、喘ぐように言った。

「そんなものあげて……あんたが嫌われても、ママは知らないわよ」

 それは、ママが吐いた精一杯の否定と諦めだった。


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